松永伍一 まつなが・ごいち(1930—2008)


 

本名=松永伍一(まつなが・ごいち) 
昭和5年4月22日—平成20年3月3日 
享年77歳(釈一向) 
東京都西東京市ひばりが丘4丁目8–22 東本願ひばりが丘墓地(浄土真宗)




詩人・評論家。福岡県生。福岡県立八女高等学校卒。郷里で中学校教師となり、昭和25年『九州文学』同人。農民詩運動をはじめる。29年第一詩集『青天井』発表。32年上京、黒田喜夫らと『民俗詩人』創刊。45年『日本農民詩史』で毎日出版文化賞特別賞を受賞。ほかに『雲の墓標』『底辺の美学』『日本の子守唄』などがある。






  

ちちの愛をはんぶん
ははの愛をはんぶん
体温にもらいうけてぼくが育つ
はさまれているからぼくの蕾がふくらむ
ちちもねむるだけが夜
ははもねむるだけが夜
ぼくはちちに代る〈男〉を夢みる
ぼくはははの湖をおもう〈男〉に近づく
はさまれて早春
みそさざいが沼をとぶ朝ぼくの罰は
ははの乳房のうえで
ちちの力失った敵をのぞきこむ
                                                             
(詩画集『少年』・早春譜面)



 

 久留米で『母音』を主宰する丸山豊のもとで友人川崎洋や高木護らと競い合ったが、なにより啓示し、影響をうけたのは谷川雁であった。谷川雁の〈あさはこわれやすいがらすだから/東京へゆくな ふるさとを創れ〉という「東京へゆくな」の詩は松永に強い衝撃を与え、一時は〈東京へはゆかぬ〉、〈大地の耕作者〉になりたいと宣言したそのことは松永の重い足枷となったが、郷里にとどまれない諸事情も絡んで棄農、棄郷。谷川を裏切るが如く27歳で上京してから半世紀あまり、光陰矢の如しだ。詩人としてはもとより農民詩や日本各地の子守唄の研究でも知られたのだが、平成20年3月3日午前0時7分、心不全のため東京・練馬区の病院で死去した。




 

 青梅街道、五日市街道などの主要街道が通じている武蔵野台地のほぼ中央、西東京市にあるこの墓地の空には重く垂れ込めた雲が覆い被さり、絶え間なく雨が降り続いている。8月としては昭和52年以来、40年ぶりという長雨だそうな。雨音と蝉時雨が渾然一体となって陰鬱広大な墓地の空気を振るわせている。武蔵野の名残をとどめた数本の赤松が参道脇に彩りを添えている一画に「生かされて お念佛 逝きしのちも その声の 遺らんことを」と刻された小ぶりの黒い碑があった。かつて〈多摩墓地などに一坪区劃の墓地を購う金もなく、文士の墓較べは軽蔑に値するから、骨は九州の生家の納骨堂に抛りこんでもらいます。(詩集『割礼』・遺書改訂)〉と記したことのある松永伍一の墓。卵巣がんで先に逝った妻ミサ子とともに眠っている。




 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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