正岡 容 まさおか・いるる(1904—1958)


 

本名=正岡 容(まさおか・いるる)
明治37年12月20日—昭和33年12月7日 
享年53歳(嘯風院文彩容居士)
東京都台東区谷中1丁目7–15 玉林寺(曹洞宗)



小説家・演芸評論家。東京府生。日本大学中退。永井荷風や吉井勇に心酔して師事。大正12年関西へ移り、三代三遊亭円馬に親しみ寄席演芸理解のもとをつくる。以後、落語、講談、浪曲の創作研究書多数がある。『寄席風俗』や小説に『円太郎馬車』などがある。






  

 豁然といま圓朝は心の壁が崩れ落ち、扉が開かれ、行く手遥かに明るく何をか見はるかすの思いがした。いままでとても幾度か幾度か心に黎明はかんじたけれど、あれらをかりそめの町中での夜明け空とするならば、これは比べものにも何にもならない夏草しとど露めきて百花乱るる荒漠千里の大高原に、真ッ裸になって打ち仰ぐ大日輪の光りにも似たるものよとおもわないわけにはゆかなかった。
 とても言葉でいいあらわせない感銘だった、感激だった。
 ポトリ涙が目のふちへ滲んだ。
 と見る間に溢れた。
 あとからあとから流れだしてきた。
 いつ迄もそれが止まらなかった。
 果ては顔中がベトベトになってしまって、尚かつひっきりなしにはふり落ちてくるもののあることが仕方がなかった。
 いつか音に立てて圓朝は男泣きに泣きだしてさえ、いた、表の、いよいよ風まじえ、暴れ、哮り乱れ鳴る小銃の音すら遮って降りつのりまた降りつのる底抜雨のざざ降りに、今ぞ根こそぎ快く身をも心をも洗い尽されるようなものを感じながら。
                                      
(小説 圓朝)



 

 〈打ち出しの太鼓聞えぬ真打はまだ二三席やりたけれども〉。
 昭和33年夏、首の腫瘍治療のため慶応義塾大学病院に入院していた正岡容が、死の数日前、名刺の裏に書き残した辞世の歌である。感情起伏の激しい人物であった。とりわけ酒癖が悪かった。嫉妬心も相当強かった。そのため友人知己も次第に去っていった。それでも芸能作家とよばれたほど寄席芸人に関する著書の多かった正岡の真直な情熱に引き込まれて、晩年には若かりし頃の桂米朝、小沢昭一、加藤武らが弟子入りして最後の明かりを点した。
 昭和33年も押し迫った12月7日、穏やかな日曜の夕刻、頸動脈が破裂、一瞬にして正岡の脳裏にあった江戸の名残をとどめた浅草の黄昏が、ぷつんと切れた。



 

 もともと上野寛永寺の子院が多く建っていた聖地に、明暦の大火、いわゆる振袖火事のあと江戸市中の焼失寺院が次々と移ってきて、谷中界隈は寺院の密集地となっていた。関東大震災や、東京大空襲をのがれた町並みもあり、都心とは思えないほど静寂の似合う地域でもある。
 都指定の天然記念物、樹齢600年の椎の大樹がそびえる玉林寺はそんな谷中の一角にある。右手脇道を伝っていくと正岡と親交のあった新内節の岡本文弥が住んでいた、通称おけいこ横町の小路にもつながっている。前庭に元横綱千代の富士の像が建っている本堂の裏にある墓地には、台石に比して棹石は小さく、古色とした「正岡累代墓」が西日を受けて安堵を漂わせていた。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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