正宗白鳥 まさむね・はくちょう(1879—1962)


 

本名=正宗忠夫(まさむね・ただお)
明治12年3月3日—昭和37年10月28日 
享年83歳 
東京都府中市多磨町4–628 多磨霊園24区1種8側



小説家・劇作家・評論家。岡山県生。東京専門学校(現・早稲田大学)卒。内村鑑三等の影響で、キリスト教の洗礼を受ける。記者生活のかたわら小説を書き始める。明治37年処女作品『寂寞』を発表。40年『塵埃』、41年『何処へ』で自然主義作家として注目された。『徒労』『微光』『毒婦のやうな女』『悪夢』『人生の幸福』などがある。 






  

 私が何かにつけて思ひ出すのは岩野泡鳴であるが、彼は、或時、私の煮え切らない死生観を聞いてゐるうちに、「死ぬ奴は馬鹿だ」と喝破した。そこには寸毫も戯談らしいところはなく、熱意誠意を、顔面に現はしてゐたのであつた。一瞬々々を生きる事がすべてであつて、死の影を伴ふ生は、生でないと云ふのである。二−チェの謂ふ超人なんか、馬鹿の寝言である。「永遠の輪廻」なんか愚人の妄想である。私は泡鳴の言に反対する気持にもなれなかつた。しかし、私は泡鳴がそれに安んじてゐるやうにそれに安んじてはゐられなかつた。私の「生」にはつねに死の影が伴ふのであつた。泡鳴はまた、「おれの頭が役に立たなくなつたら、舌を噛んで死ぬる」と、これも寸毫の戯談気もなく、熱意を目鼻に現はして極言した。死ぬるにも舌を噛んだり、腹を切つたりしないでもよからうと、私はひそかに思つてゐた。
                                                      
 (欲望は死より強し)



 

 読売新聞社を退社してからは本格的に小説を書き『何処へ』で注目されていったのだが、昭和に入るとだんだん評論活動が主目となってきた。昭和10年、島崎藤村、徳田秋声らと日本ペンクラブを創立。18年から22年まで二代目の会長にもなっている。
 〈暗黒の死の洞門へ一歩々々足を進めてゐる我々人間に何の真の幸福があらうぞと私はつねに思ってゐる。屠所の羊に異らない身でありながら、幸福を夢みるのは不思議なことだと思ってゐる。それにも関はらず、生きてゐるうちは幸と不幸、快と不快の感に動かされない時は無い〉——。
 昭和37年10月28日午前11時、膵臓がんによる衰弱のため飯田橋日本医科大学付属病院で逝った正宗白鳥の警句である。



 

 誠に熱い。まさに夏が来たという感じだ。たまらなくなったのだろうか、赤松の木の下で二人の測量士がどうにでもしてくれといった風に休息をとっている。邪魔をしないようにそっと脇を横切ると、夏草が喜々として繁っている参道が碑に向かっている。この参道に入るとどういう訳か風は涼しい。
 「正宗忠夫家之墓」、自筆を刻した白御影の墓碑は、まるでパラソルの下にくつろいでいるように葉陰に守られて涼しげだ。何かを空想しているような素振りをちょっと見せて閑かにおさまっている。「正宗家」ではなく「正宗忠夫家」となっているのが目を引く。あの正宗にうっかりしたことはいえないが、これも白鳥流の何かの意志であるのかもしれない。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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