本名=碓井小恵子(うすい・さえこ)
昭和32年1月11日-平成20年6月6日
享年51歳(釋尼久恵)❖藤花忌
東京都新宿区早稲田町77 龍善寺(浄土真宗)
北海道岩見沢市七条東11丁目18 岩見沢市営利根別墓地
小説家。北海道生。藤女子大学卒。昭和52年大学在学中に『さよならアルルカン』が「小説ジュニア」青春小説新人賞佳作入選、つづいて『クララ白書』『なんて素敵にジャパネスク』などの作品を発表。少女小説の代表的作家。ほかに『海がきこえる』『銀の海 金の大地』などがある。

7時15分をすぎても、里伽子は現れる気配はなかった。
まあ、こんなことだと思ったよ、あいつはだいたい遅れてくるんだと諦めて、買ってあった雑誌を読んだ。地震予知がどうしたという記事があって、埋立地が危ないなどと書いてあり、江戸 時代から現代までの東京の埋立地帯が図解になって載っていた。
それを見て驚いた。銀座のあたりまで、その昔は海だったらしいのだ。東京人はみんな知ってるんだろうか。ぼくは初耳だった。
あの安西おばアが住んでいるという月島なんか、江戸時代は完璧に海の底だったらしい。 なんだか凄いことを発見したような気になって、ぼくは雑誌から顔をあげた。ガラス窓ごしに通りを見ると、夜のイルミネーションの中で、人々はまるで寒さなんか感じないみたいに、楽しげに通りすぎてゆく。
ここが毎だったなんて、信じられないなア。この街は海の上に浮かんでるのか。なんて綺麗なイメージなんだろう。
それまで少し目に痛いくらい眩しかった街の灯が、ふいに目に優しく囁いてくるような気がした。通りすぎる人はみんな、海の底をひらひらと泳ぐ、色とりどりの美しい魚のように思えた。
(中略)
外はやっぱり寒くて、けれど凄く綺麗だった。
どこかの店から流れてくるホワイトクリスマスは耳に優しく、とても懐かしく感じられた。それもこんな夜に映画をひとりで立ち見でみるか、ふたりで見るかの違いだ。ふたりだから立ち見 でも許せるのだ。
できあいの曲が耳に優しく聴こえるのは、ぼく以外の人がそばにいて、ぼくといることを楽しんでいるからだ。それがぼくを楽しませて、耳も、目も喜ばせているのだ。だから街の色も音も すべてが優しく思えてくる。この夜はそのためにあると思えてくる。
ぼくらは色とりどりの灯が揺れて滲む街中に、昔は海の底だった場所に、手をつないで歩きだした。
(海がきこえる)
昭和後半の時代において同世代を生きる魅力的女性をヒロインにかずかずの物語を生み出し〈若い人、特に少女と呼ばれる女子中・高校生〉などの世代を中心に少女小説ブームを巻き起こした氷室冴子だが、やがてブームに疲弊し、次第に少女小説から距離をとるようになって表舞台には登場せず休筆期に入っていった。体調を崩し、平成17年2月ころには気管支炎や肺炎と診断されていたが、4月に肺がんであることが判明する。残された時間を見据えるように抗がん剤治療の副作用と闘いながら、自ら葬儀の手配や墓所を探すなどの終活作業を行っていたが、19年2月、脳に転移、翌年3月には緩和ケア中心の療養生活に入った。6月2日昏睡状態、6月6日午前9時、東京都内の病院でついに永眠する。
氷室冴子の遺骨は郷里岩見沢の市営墓地の碓井家の墓と東京早稲田の龍善寺、京都の東本願寺に分骨して収められた。早稲田大学にも近い龍善寺は冴子自身が選んだ墓所である。本堂右手の東側区画墓地七本目の通路を左に少し入ると、ジブリの動画家近藤勝也が冴子の生前に依頼されて死の二年前に渡した桃の花のイラストと冴子のサインが彫られた「倶会一処」の墓碑、裏面に平成十八年七月碓井小恵子建之とある。何から何まですべて冴子自身が設えたものであった。ついさきほどかつての少女ファンであったとおもわれるご婦人が手向けた供花が瑞々しい朝日を浴びていた。寺を出て振り返ると枝垂桜の樹がひっそりと一本、春の到来を待ちわびていた。
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