日野草城 ひの・そうじょう(1901—1956)


 

本名=日野克修(ひの・よしのぶ)
明治34年7月18日—昭和31年1月29日 
享年54歳(克修院法誉草城居士)❖草城忌 
大阪府大阪市天王寺区餌差町6–31 慶伝寺(浄土宗)

 



俳人。東京都生。京都帝国大学卒。大正6年高浜虚子の句に触発され句作をはじめ、20歳で『ホトトギス』巻頭を占め、早熟の才を示した。昭和2年『花氷で』認められるが、10年『旗艦』を創刊主宰、無季新興俳句運動をすすめた事によって『ホトトギス』を除名される。戦後は『青玄』を創刊主宰。句集に『青芝』『人生の午後』などがある。







  

春暁やひとこそ知らね木々の雨

船の名の月に読まるる港かな

手をとめて春を惜しめりタイピスト

灯の下にゐて月かげをおぼえけり

けふよりの妻と泊るや宵の春
           
しほさゐや人の世とほくまた近く

鳴きしぶりつつゐたる蝉鳴きとほる

夏の闇高熱のわれ発光す

生きるとは死なぬことにてつゆけしや

見ゆるかと坐れば見ゆる遠桜



 

 昭和9年に発表された連作〈けふよりの妻と泊るや宵の春〉にはじまる『ミヤコホテル』十句は当時大いなる論争を巻き起こし、『ホトトギス』除名の因にもなったが、〈極端な早熟型の極端な晩成型〉といみじくも山本健吉の評した日野草城、現代俳句の出発点といわれる水原秋櫻子や山口誓子に一歩先んじた草城の句業は俳壇に大きな足跡を刻むものであった。45歳の昭和21年1月、風邪をこじらせて肺炎に倒れ、肋膜炎、肺湿潤症を併発、昭和31年1月29日11時17分、「日光草舎」と名付けられた大阪・池田の自宅において心臓衰弱のため死に至るまで、十年間に及ぶ無念の生活、一日中臥床の身を支え続けてくれた妻晏子(本名政江)に〈切り干やいのちの限り妻の恩〉の句を捧げている。


 

 慶長19年の大阪冬の陣で活躍した真田幸村ゆかりの大阪城の出城、いわゆる「真田丸」古戦場あと、真田山公園の周辺には多くの寺が散在している。織田作之助の眠る楞厳寺や井原西鶴の眠る誓願寺にも近い公園前のこの慶伝寺本堂右手に、拓本によって文字の輪郭を墨濃く残された「克修院法誉草城居士」墓碑が冬の逆光を浴びて寂しく建っていた。一周忌の昭和32年1月29日に建てられた碑の右側面に俗名日野克修、左側面に昭和62年10月28日、82歳で亡くなった妻政江の名が刻まれている。戒名「浄修院澄誉妙政大姉」、死の間際まで原稿や手紙の口述筆記、洗顔、歯磨き、食事など身の回りの世話一切を支え、草城の「カンノンサマ」となった妻の誇りさえ感じることができるようだ。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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