広津桃子 ひろつ・ももこ(1918—1988)


 

本名=広津桃子(ひろつ・ももこ)
大正7年3月21日—昭和63年11月24日 
享年70歳 
東京都台東区谷中7丁目5–24 谷中霊園乙8号10側 



小説家・随筆家。東京都生。日本女子大学卒。広津柳浪の孫で広津和郎の長女。父と共に松川事件の真相究明に取り組む。昭和43年に父との思い出を綴った『波の音』で認められ、46年に『春の音』で田村俊子賞、56年に『石蕗の花』で女流文学賞受賞。ほかに『父広津和郎』などがある。







 

 「しかしこの時代から、筆一本で生活してきたというのは、全く容易なことじゃあないですね。 僕の友人で書いているのがいますがね。奴さん、やっと十年で、息切れの気味ですよ」
 父流に言わせれば、余程、外に能がなかったということになるのかもしれないが、然し、長い間、原稿としめ切りとの間を往復して、よくも生活してこられたものだという気がしないでもない。
ふと、 Fが顔をあげると、視線を私に向けた。
 「で、貴女は?」
 と言うのである。
 「私、何が」
 「このあとを…… 」
 「このあと、まるでなにかのお店のようなことをおっしゃいますね」
 私はそう答えたのだが、「このあと」という彼の言葉が、私に、紺暖簾をかけた手堅い小さな店を想像させた。名店街などには出さない、大量生産をしないおいしい和菓子を作る店、又は手編の打紐を作る家でも好い。そうしたものなら、私にも手堅く、跡を継いでゆくことが出来そうであるが、この、いままでの、我家の生業だけはそうはゆかない。祖父は祖父だけであり、父は父の歩んだ道が問題であったのであり、私とは別のものである。私に、もし新しい歩み出しがあるとすれば、私自身に、それに役立つ眼があり、体力、気力、そして、努力してゆく能力があるかどうかにかかっているだけである。誰のあとでも、さきでもない。その人間だけのことである。そして、その答は、いまの私には出ない。私は黙ったまま、彼が又、新しくひらいた厚手の和紙に眼を向けていた。


 (筆の跡)



 

 父広津和郎が下宿していた永田町の下宿屋の娘神山ふくとの間に生まれたのが桃子であった。両親との生活は短く、やがて和郎と別居した母と兄との生活を送ることになる。〈幼い頃から、父と母との二つの家を持ってきた〉桃子の戦後は、腎臓結核のため24才で夭折した兄賢樹を描いた『窓』を同人誌に発表したり、松川事件に情熱を注いだ父の秘書役をつとめていたが、昭和43年に亡くなった父との和解を描いた『波の音』で認められ、本格的に文学の道に入り、数々の評価を得たが、晩年は難病を得て不自由な生活を余儀なくされた。54年に母を亡くしてからは独り暮らしを続けていたが、63年11月24日午後10時、呼吸不全のため藤沢市鵠沼の自宅で誰に看取られることもなく急死した。





 

 明治期の人気作家・広津柳浪を祖父に、『神経病時代』を出世作として世に出た広津和郎を父として生まれた桃子は、父の死を契機に三代目の作家となったが、桃子の死によって柳浪、和郎、桃子と続いた広津家の血筋は途絶えてしまった。かつて父と墓参した谷中の広津家の墓地には、四基の墓碑があり、中央に曾祖父母、向かって右側に祖父柳浪、左側に「広津家墓」、その左に和郎の一周忌に桃子が建てた志賀直哉書の「広津和郎」の碑、裏側に和郎の生年月日と没年月日が谷崎精二書で誌されている。「広津家墓」には柳浪の兄弟、和郎の実母と継母、兄賢樹、和郎と桃子もここに眠っている。墓所の筋向かいにあって和郎の好んだ二本の欅の大木は近年伐採され、明るくなった墓域を梅雨の長雨が濡らしている。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


墓所一覧表


文学散歩 :住まいの軌跡


記載事項の訂正・追加


 

 

 

 

 

 

ご感想をお聞かせ下さい


作家INDEX

   
 
 
   
 
   
       
   
           

 

   


   干刈あがた

   樋口一葉

   久生十蘭

   菱山修三

   日夏耿之介

   日沼倫太郎

   火野葦平

   日野草城

   平塚らいてう

   平野威馬雄

   平林たい子

   広津和郎

   広津桃子