日夏耿之介 ひなつ・こうのすけ(1890—1971)


 

本名=樋口國登(ひぐち・くにと)
明治23年2月22日—昭和46年6月13日 
享年81歳(樋口國登大人命霊)
長野県飯田市箕瀬1丁目2464 柏心寺(浄土宗)




詩人。長野県生。早稲田大学卒。大学在学中から詩作を始め大正6年第一詩集『轉身の頌』で注目され、10年『黒衣聖母』でゴスィック・ローマン詩体詩体の詩風を確立した。早稲田大学、青山学院大学教授を務め、昭和27年に日本芸術院賞を受ける。ほかに詩集『咒文』、論文『美の司祭』などがある。







  

あたたかい日(ひ) あかるい日(ひ)
この晴れた秋空(あきぞら)高い由比ヶ濱
沙(いさご)の上に臥(ふ)しまろぶ
身は熱に口はかわき
心は沓(とほ)き神の伊吹きに口かわく
あたたかき沙(いさご)のやはらかさ こまやかさ
天恵(めぐみ)ふかき太陽は
大海(おおわだ)にぴかぴか光る寳玉(ほうぎょく)をばら撒(ま)いて
空(そら)に眩しい銀網(ぎんまう)をいっぱいに張りつめ
波(なみ)にくちつけ 沙(いさご)にまろぶ
あまりに昏黯(くら)い肉身と
病める心と

 

(轉身の頌・抒情即興)



 

 大正10年に発表した第二詩集『黒衣聖母』によって〈私の詩には、人間心性の赫耀たる遍照も、眼ざましい飛躍もない。あるものは、ただ荒涼たる曠野に低迷する暗雲のやうな力無き蠢動である。暗室に瞑目して妄想する病僧のあはれむべき狐疑である。〉と、また〈詩は藝術である。巧藝は表現である。表現の生命はかたちである。〉と、いわゆるゴスィック・ローマン詩体と自ら称する詩風を確立して思想感情を表現した日夏耿之介。象徴詩人としては無論のこと、翻訳、評論など幅広い活躍をみせたが、後年に至っては「生」への執着も薄れ、「死」の周辺を彷徨するかの如く、あるいは諦観した道行きの如く風雅な瞑想の中にあった。昭和46年3月、沈下性肺炎に懸かり、一時危篤状態に陥ったりもしたが、6月13日午前零時18分、ついに超然と彼方に去った。



 

 郷里飯田市の中央にある大通り、四百メートルにわたって植えられたリンゴ並木の中程、昭和37年に建てられた黒御影石に刻まれた詩碑にあるように〈秋(さわきり)のことく「幸福(さいはひ」のことく「來(こ)し方(かた)」のことく〉去っていった日夏耿之介が晩年を送ったのは、通称南アルプスと呼ばれている早朝の赤石連峰が〈紫紺色に静まり、くっきりとライン浮びて、その背ろに薄黄金色の朝色かがやく〉と日記に記した飯田愛宕稲荷神社境内であった。その場所から数百メートルの至近距離にある菩提寺松林山柏心寺。日本画家菱田春草の墓もあるこの寺に樋口家数基の塋域がある。三界萬霊塔と両親の墓に挟まれた「日夏耿之介/妻添子之墓」。かつて〈わが墓は信南風越山のいただき奥の院の摩崖の下〉と久しく定めたことのある耿之介の句碑が風越山の摩崖の岩に建っている。〈秋風や狗賓の山に骨をうづむ〉



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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