◎ロバート・クルツバン著『だれもが偽善者になる本当の理由』
本書は『Why everyone (else) is a hypocrite: Evolution and the Modular Mind』(Princeton University Press, 2010)の全訳である。著者のロバート・クルツバンはペンシルベニア大学准教授で、進化心理学を専攻している。本書は原題からもわかるとおり、著者の専門分野である進化心理学の知見、とりわけモジュール理論を駆使して人間の心の成り立ちを分析し、最終的に「なぜ(自分以外の)誰もが偽善者なのか」を解明する。著者の主張の背後には、「心は進化を通じて形成された脳に基盤を置く」「心は、たった一つの統合的な主体によってではなく、無数の部位(モジュール)から構成される」「これらの部位は、進化を通じて徐々に形成されたものであり、したがって任意の二つの部位を取り上げたとき、互いに情報をやり取りできるよう接続されているケースもあれば、そうでないケースもある」「心がそのような形態で構成されているのなら、人が互いに矛盾する二つのことがらを信じていたとしても何ら不思議ではない」など、生物学、とりわけ進化論、そしてそこから派生する進化心理学を基盤とする考え方が存在する。
著者はこれらの論点を明確化するために、もちろん科学的な研究や実験の成果も取り入れているが、映画やテレビドラマのエピソードなどもふんだんに活用し、本来はかなり入り組んだ論旨を、なるべく平易に理解できるよう工夫しながら議論が展開されている。なおそれにあたって著者は、アメリカ人らしくジョークをときに飛ばしているが(いわゆるオヤジギャグレベルのものも見受けられるのはご愛嬌だが)、日本の読者には通用しないと思われる二、三のギャグ(および英語の用法に関する傍注)は、それらに訳注をつけるのは無粋であることもあって割愛した。
さて本書の最重要概念である「モジュール性」について、聞き慣れていない読者もいるはずなので簡単に説明しておこう。著者も何度かコンピューターサイエンスから例を引いているように、ソフトウェア開発者(訳者もかつてはそうだった)は、この用語をよく知っているはずだ。基本的にモジュール化とは、ある大きな目的をもった課題(タスク)を小さな機能単位に分割することを言う。ちなみにかつては、「モジュール」分割は、せいぜいプログラム構成をわかりやすくするため、あるいは共通処理を抽出する(その場合には共通サブルーチンと呼ばれる)ために行なわれていたが、近年のモデリングを軸とするシステム開発においては、本書にも出てくるカプセル化、情報の隠ぺい、抽象と実装の分離などの目的のために非常に重要な意味を持つようになった。
ソフトウェア業界には無縁な読者のために、ここで他の書籍から、モジュール性の概念がよくわかる記述をいくつか紹介しよう。本書でも何度か引用されているダニエル・デネットの『解明される意識』は、平易な本ではないがぜひ参照されたい。ここでは興味深い記述を一つだけ引用しておく。「つまり私は、意識をもった人間の心というのは、進化が与えてくれた並列式のハードウェアをベースに――非能率的なかたちで――営まれる、多少なりとも直列式の仮想機械のことではないかと、言いたいのである」〔山口泰司訳(青土社、一九九八年)より引用〕。ここではモジュールではなく、並列式のハードウェアという言い方がされているが、まさにこの記述は、人間の心においては、互いに独立したプロセッサー(モジュールとも言い換えられよう)が並列して機能しながら大きな課題を実行している様子をうまく表現している。しかも重要なのは、それが「進化によって与えられた」ものだと指摘されている点である。
ところで訳者は、本書にも引用されている「ジュリーとマークの近親相姦」の道徳ジレンマの考案者ジョナサン・ハイトの『社会はなぜ左と右にわかれるのか――対立を超えるための道徳心理学』(紀伊國屋書店,2014年)を訳したが、彼の提示する理論の一部にもモジュール理論が応用されている。認知人類学者スペルベルらの理論に依拠するハイトは、「モジュールとは、すべての動物の脳に備わっている小さなスイッチなようなもの」だとし、さらにはモジュールのスイッチを入れるトリガーには「オリジナルトリガー」と「カレントトリガー」があると言う。前者は本来そのためにモジュールが設計されたトリガー(たとえば恐れを引き起こすヘビ)を、後者はトリガーになり得るすべての事物(ヘビに加え、本物のヘビと見間違えやすい、たとえばヘビのおもちゃ、木切れ、太いロープなどをも含む)を指す。
さて、本書の著者クルツバンは、「心のモジュールは脳に基盤を置く」と主張するが、実のところその基盤の詳細な説明はされていない。説明がない理由の一つは、著者が専門の脳神経学者ではないことがあげられるのかもしれないが、いずれにしても本書を読んでその点に不満を感じる読者もいるかもしれない。そこで専門の脳神経学者が書いた本で、モジュール理論に言及する最新のすぐれた書籍を一つ紹介しておこう(残念ながら現時点では邦訳はないが、いずれ刊行されると聞いている)。それはコレージュ・ド・フランス教授で脳生理・認知心理学者のスタニスラス・ドゥアンヌの著書『意識と脳――思考はいかにコード化されるか』(紀伊國屋書店,2015年)で、タイトルからもわかるとおり、この本では脳から意識が生じる条件が詳細に分析されている。詳細は述べないが、ドゥアンヌはモジュール性の複雑さを緩和するために意識が生じた可能性を示唆している。
ということで、本来は錯綜した心の問題に関する議論を、モジュール理論をベースにわかりやすく解説する『だれもが偽善者になる本当の理由』は、一般の読者にも十分に楽しめ、なおかつ読後にはまったく新たな知見が身につくよう工夫をこらして書かれている。ぜひ一読されたい。
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