◎清水洋著『イノベーションの科学』(中公新書)

 

 

「イノベーションの科学」というタイトルのイノベーションをテーマにした本。イノベーションとは何かが「はじめに」の冒頭に次のように書かれている。「イノベーションとは、経済的な価値を生み出す新しいモノゴトを指します。創造的破壊(Creative Destruction)とも言われ、企業の競争力や経済成長の源泉になります。私たちの生活を豊かにしてくれるものでもあります。¶創造的破壊と言うわけですから、古いモノゴトを、新しいモノゴトが創造的に破壊します。古いモノゴトがより良い新しいモノゴトへと置き換わるからこそ、生産性が高まるのです。¶そしてそこには、創造する人がいると同時に、破壊される人もいます。新しいモノゴトが、古いモノゴトのためにスキルを身に着つけてきた人たちのスキルを破壊するのです(i頁)」。実は本書の大きなテーマの一つは、これから見ていくように「創造する人がいると同時に、破壊される人もいます」という点を明確化することにあるのですね。「創造的破壊」とは、言わずと知れた経済学者ジョセフ・シュンペーターの用語で、要するにイノベーションには創造的な側面と破壊的な側面があるということ。

 

まず私めが注目したのは、「新しいモノゴトが、古いモノゴトのためにスキルを身に着つけてきた人たちのスキルを破壊するのです」の部分で、わが職業たる翻訳業でしばらく前から言われている「すぐに翻訳者は機械翻訳に取って代わられる」という見解は、まさにこの「創造的破壊」のプロセスを憂慮する言説の恰好の例になるものと見なせる。個人的には、私めがお星さまになるまでに、翻訳者が機械翻訳に完全に取って代わられることはないだろうと、余裕をぶっこいている。というのも、機械翻訳はビッグデータをフィードしてAIに深層学習させるというやり方を取っているのだから、一般的なレベルではそれなりに使えるようになったとしても、個別的な案件に適用する際には十分な精度が確保できないだろうから。そもそもシンタックスもセマンティクスも無視しているわけなので、個別的な案件に十分な精度で適用できるはずはないように思える。ただし、機械翻訳を下訳に使うケースは、私めがお星さまになる前でも出て来るだろうとは思っている。てか、現在すでに使っている翻訳者もいるのかも。そういうことを言い出すと、「翻訳者が機械翻訳を使うなど、もっての他!」という人が必ず出て来るはず。でも、私めは、利用できるものは利用すればよいと考えている。私めが現在、機械翻訳を使っていないのは、単に下訳レベルの精度すら現在の機械翻訳では確保できないだろうと思っているから。とはいえよく考えてみれば、翻訳者のなかには(人間の)下訳者を利用している人もいる。と言うと、「人間の下訳と機械翻訳では違うじゃん!」と言わそうだけど、ほんとうにそうかな? 機械翻訳の精度が上がれば、本質的には人間の下訳と変わらないことになる。そもそも機械翻訳にフィードしているビッグデータは、人間が書いた文章なのだから、不特定多数の下訳者を使うのと本質的には変わらない。ひとえに特定の案件にふさわしい文章が生成できるか否かのみが異なるのですね。

 

なお機械翻訳をある程度認める発言をしてもたので、いらぬ誤解を招かないよう、ここで私めの翻訳のやり方を簡単に紹介し、機械翻訳が利用可能になった場合にその過程のどこにそれを適用できると考えているのかを明確にしておきましょう。その過程とは大まかに分けて次の四つの段階から構成される。@最初に原書を見ながら一通り翻訳する。Aそれが終わったあとで、もう一度最初から@の成果である訳文を、原文と一行一行照らし合わせながらチェックしていく。B最後に、基本的に日本語の訳文だけを読み返しながら表現のチェックをする(とはいえ問題がありそうに思える箇所については原文を確認する)。それから編集者に提出する。Cもちろんその後も校正作業があるが、校正作業のときも問題がありそうな箇所に関してのみ原文をチェックしている。もし機械翻訳の精度が上がって、それなりの質が確保されれば、@の段階で機械翻訳を導入することは当然考えられるのですね。文藝翻訳だとそれもなかなかむずかしいのだろうが、私めがやっているノンフィクション翻訳の場合には、そのような機械翻訳の使い方を最初から禁じ手にすることもなかろう、ラッダイト的執念に凝り固まるのではなくむしろ逆にうまく活用すべきではないかというのが私めの考え。こんなことを言っていると「あいつ機械翻訳を使いそうだぜ! やべ〜〜〜!」とか編集者に思われそうなので、仕事にあぶれても困るから「当分使う予定はありません」とだけ小声で言っておきますら。そもそも個人的には、翻訳とは外国語から日本語(あるいはその逆)に変換する作業のみならず、邦訳すべき原書を発掘し、厳正に選択したうえで提案する作業も含まれると考えているしね(わがツイアカウントのプロフィールにある「トータル翻訳」という言葉はダテではないのですね)。さすがに機械翻訳はそこまではやってくれない。

 

と、またのっけから個人的な話に脱線したので、新書本に戻りましょう。「はじめに」には、この新書本の目的が次のように書かれている。「これまで、イノベーションの創造の側面は繰り返し強調されてきました。一方で、破壊の側面はきちんと考えられてきたとは言えません。破壊の影響(例えば、産業の衰退や賃金の低下、失業対策)などについては、政府の政策担当者が考えるべきことであり、ビジネスパーソンは創造の側面だけを考えていれば良いと捉えられているのかもしれません。あるいは、イノベーションの大切さを説くには、破壊の側面はやや都合が悪い点もあるからかもしれません。ただ、創造と破壊は共起します。だからこそ、本書ではこれらを一緒に考えていきましょう。¶イノベーションにおける創造と破壊を「人」の観点から見ていくことで、より上手く、より効果的にイノベーションと付き合っていけるはずです。創造するにはどうすれば良いのか、破壊されないためには何をすべきなのか、そして、包摂的な社会をつくるには何がカギとなるのかを考えていきましょう。これが本書のテーマです(C頁)」。

 

ということで本論に参りましょう。まずは「第1章 イノベーションとは何か」から。最初に読者の期待を裏切らず、シュンペーターのイノベーション理論が取り上げられている。次のようにある。「イノベーションの新しさとは、新規性です。つまり、つい昨日、発売になった新製品や新サービスは確かに時間の経過という面では新しいのですが、これまでの製品やサービスと同じようなものであれば新規性の面では新しくありません。¶新規性は高いものから、低いものまであります。どのくらい新規性が高ければ、イノベーションと呼べるのでしょうか。(…)イノベーションの研究はおよそ100年前から始まりました。そのきっかけは、経済学者のジョセフ・シュンペーターが1912年に発表した『経済発展の理論』でした。シュンペーターは、モノゴトの新しい組み合わせを新結合(New Combinations)と名づけ、イノベーションの経済成長における重要性を強調したのです。(…)シュンペーターは、「郵便馬車を何台連ねても列車を得ることはできない」と喩えたように、小さな改良ではなく、既存のモノゴトを大きく変革するものをイノベーションと考えていました。つまり、新規性の程度が極めて高いものこそがイノベーションだと考えていたのです。もちろん、これには理由があります。彼が、経済成長でイノベーションの役割を強調したのは、イノベーションが既存の均衡を壊してくれると考えたからです(4〜6頁)」。引用文中に創造的破壊という言葉が登場する。この創造的破壊について経済的な観点から次のように述べられている。「人々の貯蓄は、企業が機械や設備、技術などに投資する原資となります。人々の余っている資金を広く集めて、企業は投資を行うわけです。投資は、新しい雇用機会を生み、それが所得を上昇させ、さらに新たな貯蓄と投資の循環を生みます。これにより経済が成長するのです。収穫逓減により得られるものが徐々に小さくなり、貯蓄が小さくなると、その結果、経済成長も小さくなってしまいます。だからこそ、既存の均衡を創造的に破壊して、新しく創造することが経済成長には必要であり、これをシュンペーターはイノベーションだと定義したのです(8頁)」。

 

次に著者は、よくある需要曲線と供給曲線のグラフを用いて社会的余剰の変動について説明している。本を持っている人は11頁の「図1 イノベーションの社会的余剰(消費者余剰と生産者余剰)」を見てね。では、社会的余剰を増やすにはどうすればよいのか? この問いに対して著者は次のように答えている。「社会的余剰はどのように大きくなるのでしょうか。図2を見て下さい。社会的余剰は二つのルートで増えます。一つは需要曲線の変化です。消費者の支払い意思を高めるような魅力的な新しい製品やサービスが生み出されると、需要曲線がDからD″へと押し上げられます。需要曲線が押し上げられることで、社会的余剰も多くなります。これは、プロダクト・イノベーションと呼ばれるものです。¶二つ目は、供給曲線の変化です。生産工程をより効率的なものにできれば、これまでよりも少ないインプットで生産できるようになります。生産性が上がると、供給曲線はSからS″へと押し下げられます。これも社会的余剰を増やします。これは、プロセス・イノベーションと呼ばれるものです(11〜2頁)」。D、D″、S、S″は「図2 社会的余剰の二つの増え方」の図中にある記号なので、本を持っている人はそれを見ましょうね。いずれにしても、かくしてイノベーションのおかげで社会的余剰が増えると言いたいのでしょう。

 

それからそのあとの「失敗から学習する」という節で、失敗を「意図しない失敗」と「意図した失敗」にわけて、後者の失敗に関して次のように述べられているんだが、ちょっとその説明には疑問を感じた。「二つ目の失敗は、意図した失敗です。わざと失敗するなんて、あり得ないと思う人もいるでしょう。(…)意図的に間違えることは、科学では普通に行われています。これはやや専門的な言い方をすると、帰無仮説の検証です。帰無仮説とは、自分が信じる仮説の反対の仮説です。例えば、「新しい薬は効果的である」という仮説を持っていたとします。これに対する帰無仮説は、「新しい薬は効果的でない」というものです。¶「新しい薬は効果的である」という仮説を検証するためには、新しい薬を投与した人たちと、投与しない人たちを比べて効果を確認すればよさそうです。しかし、これだけでは、十分ではありません。いくら、薬を投与した人たちに効果が表れていたとしても、それは、プラセボ効果かもしれないからです。(…)だからこそ、新しい薬の効果を調べるためには、実際の薬と偽薬(例:乳糖やでんぷんなどの錠剤)が使われるのです。被験者はどちらの薬を受け取ったのか知らされず、研究者もその情報を知らない状態で行われます。偽薬を投与することで、帰無仮説である「新しい薬とプラセボの間に有意な差はない(つまり、新しい薬には効果はない)」を検証するのです(18〜9頁)」。この説明自体はもちろん基本的に正しいとしても、ただ二重盲検プラセボ対照試験を「わざと失敗すること」と言うのはいかにも奇妙に思える。研究者は、そもそも「新しい薬は効果的である」ことを検証したいから、二重盲検プラセボ対照試験を行なうのであって、結果的に失敗することはあってもわざと失敗させるために行なっているわけではないはず。確かに二重盲検プラセボ対照試験には陰性の結果を故意に誘導する部分があるのは確かとしても、研究者本人としては「新しい薬は効果的である」ことを検証したいのであって、決して「新しい薬は効果的でない」ことを検証したいわけではない場合がほとんどと考えられる。そもそも効果がないという陰性の結果は、あまり評価されることがなく、科学雑誌にもなかなか掲載されないということらしいしね。それでは、それこそ第2章で取り上げられている内的動機づけがまったく働かない。仮にわざと失敗させるケース、つまり陰性の結果を研究者が意図して求めるケースがあるとするなら、その裏には何らかの政治的な企みがある、つまり政治的な内的動機づけに駆り立てられているケースがほとんどではないのだろうか? たとえば他社の薬の効果を否定するためとか、あるいは気候変動反対論者が「気候変動など存在しない」ことを示す場合(そんな一種の悪魔の証明が可能なのかどうかは知らんけど)とか。要するに帰無仮説とは客観的な正しさを検証するための方便の一つなのであって、それを「わざと」や「意図して」などという研究者の主観的な状態を表す言葉とゴッチャにするのは説明としていかがなものかなと思ったというわけ。まあ重箱の隅をつつくようなものか。

 

それから新規性の高い科学を導入する際には、それを補完する制度の整備が遅れるという非常に重要な指摘がある。次のようにある。「新規性の高いイノベーションであればあるほど、補完的な制度の整備が遅れます。例えば、クルマは開発されてからすぐに、大きな経済的な価値を生み出したわけではありません。交通ルールの整備や高速道路が必要です。ガソリンスタンドやスタンドまでガソリンを運ぶサプライチェーンだって要ります。メインテナンスもしなければいけません。そのためのエンジニアも必要です。自動車保険も自動車ローンも大切でしょう。このような制度やサービスが整備されるには、時間がかかるのです。また、クルマを使った新しい産業(例えば、輸送業やタクシーのサービスなど)も、クルマが生み出された次の日に出来上がるわけではありません。¶そして、経済成長の恩恵は、すぐに全ての人々や地域に均一に広がるわけでもありません。短期的には、不均一に広がります。特定の産業や企業、あるいは特定の職業の人たちは大きな利益を得ますが、衰退する産業や企業、あるいは職業も生まれます。地域的な差も生まれます。経済成長がもたらす恩恵は、偏ることが多いのです(21頁)」。

 

またイノベーションによって生じるコストについて次のようにある。「イノベーションはタダでは起こりません。必ず、コストが発生します。そのコストにはさまざまなものがあります。イノベーションを生み出すために企業が行う研究開発投資や設備投資は、典型的なイノベーションのコストです。¶これだけではありません。国の研究機関や大学は、すぐにはビジネスに結びつかないけれども、長期的には大切な基礎的な研究開発を行っています。大学や大学院では優秀な人材を輩出するための教育を行っています。これらもイノベーションに必要なコストです。¶さらに、イノベーションの意図せざる結果として公害や環境問題を引き起こしてしまうこともあります。新規性の高いものであるほど、どのような影響があるのかを事前に予期できないからです。排気ガスによる大気汚染、二酸化炭素の排出による温暖化やマイクロプラスチックによる海洋汚染などは、かつてのイノベーションが生み出した負の外部性です。負の外部性とは、ある経済活動がもたらすその活動に関与していない第三者に対する不利益な影響のことです。これは、イノベーションの社会的なコストです。¶イノベーションが破壊の側面を持つがゆえに、自分のスキルが破壊される人も出てきます。自動織機や紡績機、電話の自動交換機、郵便物の自動処理装置など、人のスキルを代替するイノベーションには枚挙に{暇/いとま}がありません。スキルが破壊されてしまう人の所得の低下や失業も、イノベーションのコストなのです(23頁)」。最後の「スキルが破壊される」という言い方はずいぶん大袈裟で(おそらく「創造的破壊」という用語に合わせたのでしょう)、本書で用いられている別の言い方をすれば「スキルが陳腐化する」くらいの意味になる。ちなみに冒頭で述べた、翻訳者にとっての機械翻訳もそのケースの一つと言える。

 

著者は次に、「イノベーションにより破壊されるコストは、スキルが破壊される人に局所的に、そして短期的に現れます(24頁)」、あるいは「恩恵は全体に広がるけれど、損失が局所的に現れる現象(24頁)」としてイノベーションを捉えている。実のところ、これは最近ではワクチンに典型的に見られる(なお著者もワクチンをイノベーションの一つに含めている)。ただし「スキルが破壊される」ではなく「健康が損なわれる」と読み換える必要があるけどね。ワクチン問題に関しては『倫理学原論』を取り上げたときに触れたので[ページ内検索キーワード:ワクチン問題]、ここで詳細に繰り返すことはしない。ただし、ワクチンがまさに「恩恵は全体に広がるけれど、損失が局所的に現れる」イノベーションである点に間違いはないとだけ指摘しておく。だから公共的政策においてワクチン接種が奨励されることに問題はないとしても、だからと言ってワクチンで健康を損ねたり、最悪だと死んだりした人もいるとして、ワクチン接種の問題を指摘する人々を陰謀論者呼ばわりすることは決定的な間違いなのですね。なぜなら、そのような声が上がることで、どのような人がワクチンに脆弱であるかを明確にする科学的な営為が促進されるわけであって、その声を抹殺しようとする行為は、問題解決を遅らせてワクチン接種による死者を増やし、さらには科学の発展を妨げる結果にもなるから。なおコロナワクチンによる推定死者数がどの程度あるのかについては、『感染症の歴史学』(岩波新書)に書かれていた(『倫理学原論』を取り上げたときに引用しておいた[ページ内検索キーワード:感染症の歴史学])。

 

ということで「第2章 創造する人の特徴」に参りましょう。最初に「創造性は才能なのか、環境なのか」という節があり、よくある「生まれか育ちか」に関する議論が展開される。その答えがいずれか一方であることは現代の科学からすればあり得ないので、この節は飛ばす。次の節は「動機づけ次第で創造性が変わる」と題されている。まず次のようにある。「私たちのやる気も創造性に影響します。やる気がなければ、何もできないので当たり前に聞こえるかもしれません。ただ、創造性について言えば、やる気があれば良いというものではなさそうです(40頁)」。どういうことか? それを説明するために著者は「やる気」を、外(発)的動機づけと内(発)的動機づけの二つに分類している。外的動機づけとは、次のようなもの。「外的動機づけとは、その名の通り、外から与えられる刺激によって動機づけられるものです。お金は典型的なものでしょう。優れた仕事をすれば、ボーナスがたくさん出るからがんばるというのは、外的動機づけです。金銭面だけではありません。人に認められたいという承認欲求もあります。承認欲求を満たすために、頑張るという人も少なくないでしょう。(…)プラスのことばかりではありません。罰金をとられたり、給料を減らされたり、降格させられたりする恐怖感も外的な動機づけになります(40頁)」。してみると、寝ても覚めても「おじぇじぇがああああ!」と喚き散らしていて、カネゴンをわがアイドルとして崇めている私めは、典型的に外的動機づけに駆り立てられていることになる。他方の内的動機づけについては次のようにある。「内的動機づけとは、自分の内部から出てくる動機づけです。趣味は基本的に内的に動機づけられています。私はテニスをするのですが、私が試合をしても賞金をもらえるわけでもありませんし、良いプレーをしても誰かが褒めてくれるわけでもありません。テニスが好きだから、テニスをするのです。趣味だけではありません。他の人は「それをやって何になるの?」と聞きたくなるけれど、当人は夢中で取り組んでいることがあります。そのような人は内的に動機づけられている人です(41頁)」。私めなら、これは「きゅりおっしち」つまり好奇心と呼ぶでしょうね。私めの場合で言えば、この「ヘタレ翻訳者の読書記録」は内発的動機づけの賜物だと言える。何しろ相当な時間をかけているのにおじぇじぇにはまったくならず、ほとんど誰も見ていないから承認欲求が満たされるはずはないんだからね。しかも仕事が忙しくてもやっているというね・・・。あるいは鉄道動画を何時間も観ているのも、そのような趣味がない人にはケッタイに思えるらしい。

 

予想されるところではあるけど、著者によれば二つの動機づけのうち、創造性に重要なのは内的動機づけのほうなのだそうな。次のようにある。「馬を水辺に連れて行くことはできても、水を飲ませることはできません。いくら機会があっても、本人のやる気がなければ始まりません。しかし、高い創造性を発揮するためには、やる気があれば良いわけでもありません。内的動機づけが大切なのです(42頁)」。「やる気があれば良いわけでもありません。内的動機づけが大切なのです」というくだりは、「外的動機づけに由来するやる気だけではあかん!」という意味なのでしょう。次に外的動機づけだけではあかん理由が書かれている。「外的動機づけが高い人は、自分が満足する報酬や承認が得られると思ったところで探索をやめてしまいがちです。もしも、探索をしたとしても、自分が満足する報酬や承認が得られない(目標設定が高すぎる)と思えば、途中でやめるでしょう(42頁)」。それに対して内的に動機づけられている人は、「そもそもそれをすること自体が好きなわけですから、「もっと、良いやり方があるはずだ」と試行錯誤を止めないのです。だからこそ、結果として、より高い水準の創造性に到達できるのです。やめろと言われても(むしろやめておけといわれる方が)、他の人からの評価などを気にせず、どんどん突き進んでいくのです。こういう人が新しいモノゴトを創造するのです(43頁)」。まあ「おじぇじぇがああああ!」と泣き喚いている私めより、「ヘタレ翻訳者の読書記録」を書いている私めのほうが創造性がありそうなのは確かだよね。ただ著者は次のように述べて釘を刺してもいる。「内的動機づけを上げることは、創造性にとって大切です。気をつけるべきポイントもあります。内的動機づけが高い人は、どんどん突き進みます。そのため、過度な自己中心性を生む可能性もあります。こういう人をマネジメントするのは難しいのですが、このような人が高い創造性を発揮しやすいのです(47頁)」。こうして「ヘタレ翻訳者の読書記録」を書いていることを知った編集者さんたちは、「おまえ、さっさと翻訳の仕事を進めんか、ごらあああ!」と思っていることでしょう。でも大丈夫。私めは内的動機づけが強くても自己チューでも、攻撃力も防御力も限りなくゼロに近いヘタレだから怒られるとたちまちヘタります。

 

第2章でもう一点きわめて重要な指摘を取り上げておくと、イノベーションには能力破壊型と能力増強型があるということ。それについて著者は、マイケル・タッシュマンとフィリップ・アンダーソンという人の業績に参照しながら次のように述べている。「能力増強型とは、産業の既存企業の能力をさらに強くするようなイノベーションです。既存のモノゴトを前提として、それを改善していくイノベーションと言えます。能力破壊型とは、その産業の既存企業の能力を破壊するイノベーションです。既存のモノゴトを代替する高いイノベーションです。本書のテーマである、創造的破壊の破壊の側面が強く出るものです(60頁)」。技術ではなく科学史的な言い方をすれば、能力破壊型のイノベーションはパラダイムシフトをもたらすような科学的業績に匹敵するということなのでしょうね。それに続いて「タッシュマンらは、能力破壊型のものは新規参入企業によってもたらされる傾向がある一方で、能力増強型のものは既存企業によって生み出される傾向があることを発見したのです(60頁)」とあるけど、これはさすがに定義の反復にすぎないようにも聞こえる。ただ、もう少し先にある指摘は非常に重要であるように思われるのでここに引用しておきましょう。「ここで一つ注意点があります。能力破壊型のイノベーションの方が重要であり、それこそが目指すべきイノベーションであると考えられがちなのですが、これは必ずしも正しくはありません。確かに、日本企業は累積的なイノベーションには長けているものの、ラディカルなイノベーションは少ないと考えられています。能力増強型は多いけれど、破壊型は少ないというわけです。その理由の一つは、日本の産業の新規参入の少なさにあります。業界の顔ぶれが何十年も前と変わらないところでは、大きなイノベーションは期待できません。新規参入企業(スタートアップだけでなく、既存企業でも新規参入はありえます)が産業のダイナミズムを生むのです。¶しかし、これは既存のモノゴトを洗練させていくイノベーションの重要性の方が小さいことを意味しません。アメリカの1983年から2013年までのデータを分析してみると新規参入企業による能力破壊的なイノベーションよりも、既存企業による累積的なイノベーションの方が雇用の創出や経済成長への貢献が大きいということも観察されていますので、新規参入企業の過大評価には気をつけたいところです(64〜5頁)」。「創造的破壊」という言葉はインパクトが恐ろしく強いので何か凄いことのように聞こえる。でも、私めはいつも「ほんとうにそうなのかなあ?」と思っていた。確かにアメリカのように伝統の浅い国であれば、壊すべき伝統や習慣も少ないから創造的破壊が有効でも、日本のような長い伝統を持つ国ではなかなか「創造的破壊」を実行しにくい面がありそうだしね。そのアメリカでも「新規参入企業による能力破壊的なイノベーションよりも、既存企業による累積的なイノベーションの方が雇用の創出や経済成長への貢献が大きいということも観察されてい」るのなら、なおさらそう言える。

 

結局文化面によって条件が異なってくるのであって、むしろ日本はネット用語を借りれば「魔改造」が得意なのですね。それは現在あるものを無駄にせず、徹底的に改善していこうとするやり方、つまり能力増強型のイノベーションを意味する。ある意味で保守的と言えるかもしれない。一つ格好の例をあげましょう。それは私めが大大大好きな鉄道ね。言うまでもなく、鉄道は日本で発明されたものではない。でも鉄道ファンはよく知っているはずだけど、今やイギリス、イタリア、デンマークを始めとするヨーロッパ諸国では日本製の鉄道車両が無数に走り回っている。当然のことながら性能がすぐれているからなのですね。私めはよく、ユーチューブで前面展望の鉄道動画(運転室のうしろに陣取って前方の景色を眺めている子どもの気分が味わえる)を観ている。そのなかには、親切にも対向列車ごとにその型式をスーパーインポーズして表記してくれている動画もある。その手の鉄道動画を観ていると、「Hitachi」とか「Mitsubishi」とか日本の企業名が先頭についた型式を持つ電車が頻繁に走っているのがわかる。つまり日本製車両の活躍ぶりがよくわかるのですね。あるいは世界で最初に専用軌道を走る高速鉄道を走らせたのも日本だよね。要するに、日本では創造的破壊、つまり能力破壊型ではなく、魔改造、つまり能力増強型の文化が発達していると考えられる。だから「日本のような国には、シュンペーター的な創造的破壊はふさわしくないのでは?」と思っていたというわけ。それを確認できたのがこの引用だった。

 

ということで次の「第3章 破壊される人は誰か」に参りましょう。まず次のようにある。「産業革命期のイノベーションにはある特徴があります。重要な発明の多くは、労働力を節約するイノベーションだったのです。労働力を節約するということは、簡単に言えば、人間の労働を機械が代替するということです(70頁)」。現在でもそういうイノベーションが多いことに変わりはないような。先にあげた機械翻訳もそうだし、私めがむかしむかし開発(発明ではないが)に関わっていた産業用ロボットやリゾートシステムもそうだしね。ロボットで思い出した、私めが毎朝めしめしを食べに行っているガストでは、ネコ型ロボット(私めは勝手にどらえもんと呼んでいる)がめしめしを運んでいる(最近そういうレストランが増えているらしく、ネコ型ではなかったけど、ビッグボーイとかいうステーキハウスでも見かけた)。でも、店のおねえちゃんスタッフの数は減っているようには思えないんだよね(顔ぶれは変わっているけど)。「にゃ〜ん」という人間の声はうざいし、ときどき立ち往生して人間の往来を邪魔しているし。

 

それから日本に関する次の指摘はちょっと興味深かった。「日本では優れた省エネ技術がたくさん生み出されてきました。高効率石炭火力発電や鉄鋼一貫臨海製鉄所、自動車産業では軽自動車、ハイブリッド車、白物家電ではエネルギー効率の良い冷蔵庫やエアコンなど、画期的な省エネ技術は枚挙に暇がありません(73頁)」。ただこれらの技術は、むしろ創造的破壊によるイノベーションというよりは魔改造、つまり能力増強型のイノベーションに近いように思える。ところで「白物家電って何?」と思ってしまった。確かに冷蔵庫やエアコンは、白いことは白い。それに続いて次のようにある。「日本で省エネ技術が多く生み出されたのは、「もったいない」精神が日本人にしみついているからではありません。日本ではエネルギー価格が高かったことが理由です。エネルギー価格が高いので、それを節約するような新しいモノゴトを生み出せば、経済的な価値につながりやすかったのです。¶一方で、日本は比較的、水資源に恵まれています。そのため、水を節約する技術はそれほど生み出されてきませんでした(73頁)」。まあ確かにそういう部分があるでしょうね。日本に関してさらに次のようにある。「高度経済成長期そして、オイルショック後から1990年代までの日本の企業は安価で質の高い製品を世界へ輸出し、当時の先進国の企業の製品を代替していったのです。これは日本企業が海外のベストプラクティス(最善の方法)から学び、洗練させていったために可能になったことです(77頁)」。まさしく日本は魔改造の国なのですね。だからこそ、創造的破壊を日本に適用するのは筋違いではないのかと思っている。

 

では、章題にある「破壊される人は誰か」という問いに対する答えはいかに? まず二極化するスキルということで、「スキルがそれほど必要ない職に就く人と、高スキルが必要な仕事に就く人が増えている一方で、中程度のスキルの職業に就く人は減少してい(78頁)」るという傾向が見られるようになったことを取り上げ、その原因を次のように述べている。「これ[に]は大きく二つの原因があります。一つ目の原因は、定型的なタスクが多い職業ほど、イノベーションによって代替されやすいことです。定型的な仕事とは、ある決まったパターンで仕事が進められるものです。(…)非定型的な仕事とは、例外的な事象が多く、パターン化が難しいものです。中程度のスキルが必要な職業には、定型的なタスクが多く存在しています。そのため、自動化するイノベーションによってそのスキルが破壊されたのです。(…)一方で、高いスキルは不要だけれど、自ら手を動かしながら複雑な状況判断を必要とされる[sic]仕事があります。例えば、介護の現場では被介護者の状況はさまざまです。子どもたちが自由に遊び動く保育の現場は、非定型的なタスクだらけです(80〜1頁)」。ならばイノベーションに「破壊されにくい人」とはどのような人か? それについて次のようにある。「最もイノベーションによって代替されにくい職業は、「芸術性」、「独創性」、「交渉力」、「説得力」、「社会的知覚力」、「他者への援助と気遣い」などが重要になるものです。これらの多くは人間を相手にするものであり、社会的な文脈に根差した知性が必要になるものです(84頁)」。ガストのおねえちゃんスタッフの数が減っていないのも、ネコ型ロボットには「社会的な文脈に根差した知性」がないからなのでしょう。

 

で、「わが翻訳業はいかに」とつらつら考えてみると、翻訳業をただ外国語から日本語への、あるいはその逆の変換作業と考えた場合には、それら六つの要素すべてが必要ではないことがわかる(文芸翻訳には「芸術性」がある程度求められるのだろうけど)。何しろ私めのようにヘタレの引き籠りでも務まっているわけだしね。いやいや「文章をきれいに書く能力は、文芸作品以外のノンフィクションなどの作品を翻訳する際にも必要だから「芸術性」は必要では?」と疑問に思う人がいるかもしれない。そう思う人は「読者はどのくらいの質の文章にどの程度のおじぇじぇを払おうとするのか?」について考えてみたほうがいいと思う。確かに機械翻訳で翻訳された文芸作品を読みたがる人はあまりいないだろうから、文芸翻訳の分野では、翻訳者が翻訳した訳書にも当分は需要があるだろうと考えられる。でも、私めがやっているポピュラーサイエンスなどのノンフィクション作品は、結局商品しての文章の質と、人間が翻訳した場合の本の価格の兼ね合いになると思っている。機械翻訳の精度が向上するにつれ、「多少文章が読みにくくても、タダもしくはダダ安のほうがいいんだもん」と思う読者は、悪文に対する耐性の高い人から順番に増えてくるものと考えられる。ただし実際に、「機械翻訳」をかけようとすれば「機械翻訳」にフィードする原文をデジタルファイルで手に入れる必要がある(さすがに原書全体を打ち込もうとする人はいないだろうし、最初から海賊版を流通させることを意図していなければ、OCRで紙の本をまるまる一冊読み取ることも時間がかかるからやらないだろうし)。

 

実は著者も、AIに関しては他のイノベーションとは異なる側面があることを次のように述べている。「AIが脅威にも見られているもう一つの理由は[第一の理由は汎用性]、非定型的な仕事にまで破壊が広がるのではないかと考えられているからです。よりクリエイティブな仕事も定型化され、自動化の技術で置き換えられるかもしれません。これは今後のAIの技術の進歩によります。私たちが、非定型的な仕事だと思っていたものでも、それを機能別に分化していくと、その一部を定型的な仕事に置き換えることができるかもしれません(86〜7頁)」。ノンフィクション系の翻訳業がまさにそのような仕事の一つでしょうね。多くの翻訳者は、現時点では翻訳を定型的な仕事とは考えていないのだろうけど、先に述べたように結局は成果物の質と読者の悪文に対する耐性との兼ね合いになるので、ある時点を境に一挙に、定型的な仕事をやっているにすぎないと見なされるようになる可能性は十分にある。そしてそうなったらマジで失業を心配しなければならん(ようやくもらえるようになった雀の涙の年金では、とても生きていけんしね、しくしくしくしく)。ただし先にも述べたように、機械翻訳にフィードする原書のデジタルファイルを一般人が入手するのはきわめてむずかしいだろうから、出版社が翻訳者をどう扱うかが最大の焦点になるのかも(インボイス制度みたい)。だからこそ、翻訳者自身がはなから翻訳工程の一部に機械翻訳を取り込んで既成事実を作っておけば、出版社に何を言われようが「え? 機械翻訳が何だって? それはすでにこちらでうまく取り入れてまんがな。気にせんといて」と白々しく切り返せば最悪の事態は免れられるかも(え? 甘いってか?)。

 

第3章のもう一つ重要な指摘として、イノベーションによって職を失う人と、より生産性の高い新たな仕事に就けるようになる人は異なるという次のようなきわめて重要な指摘がある。「イノベーションにより、短期的にはスキルが破壊される人が出てしまうものの、長期的にはより生産性の高い仕事が生まれます。これもイノベーションを推進したい人たちが良く言います。確かに、これにもウソはありません。¶より生産性の高い仕事が実際に生み出されます。ただし、それを手にするのは、多くの場合、自分のスキルが破壊された人ではありません。別人です。スキルが破壊され、所得が下がったり、生活が大きく壊された[りした]人の多くは、そのまま一生を終えるのです。この点について、イノベーションを売り込む人は、沈黙するのです(90頁)」。その例の一つとして最初にエレベーター操作手があげられている。ただこの例はあいまいに思えた。そこには「1960年代になると多くは自動エレベーターに代替され(91頁)」とある。「自動エレベーター」とは、昔はドアの開閉を専門の操作手(映画でよく見るエレベーターボーイがそれに当たる)が手で行なっていたのが、自動的に開閉するようになったことを指していると思われる(私めがガキンチョだった、池袋の西武百貨店と丸物百貨店がまだ合併しておらず、屋上には遊園地があった1960年代の西武デパートでは、確かにそうだったように覚えている)。そのせいで仕事にあぶれた人々は、自動エレベーターの発明によって新たに出現した、あるいは可能になった仕事(高層オフィスでの仕事とか)に就いたわけではないという著者は言いたいわけ。ただ思うに、「自動エレベーター」が導入されたあとでも、というか21世紀に入ってからでさえエレベーター操作係のデパガちゃんたちはいたはず。コロナ禍を経た現在ではおそらくいないのだろうと思うけど、けっこう最近まで新宿のデパートや紀伊國屋書店本店でもエレベーター係のデパガちゃんたちを見かけたように覚えている。みんな「あ! デパガちゃんだ! いいな、いいな!」とか言っていたし。もちろん乗客だけでもエレベーターは操作できるはずだから、彼女たちはイメージ戦略の一環としてデパートや紀伊國屋書店本店が雇っていたのだろうと思われる(あるいはエレベーター専属のエレガちゃんではなくデパガちゃんたちが交替でやっていたのかも)。だからこれから買い物をする顧客が最初に目をするエレガちゃんたちは、一般のデパガちゃんたちと比べて、屋内なのに帽子を被ったりバスガイドのような白い手袋をしたりしながら「屋上ビアガーデンに参りまあ〜す!」などと、とってもとってもかわゆい声でアナウンスして、途轍もなくアホな男性客に「あ! デパガちゃんだ! いいな、いいな!」と思わせていたのですね。ずる。要するにガストと同じで、イノベーションを導入しても別の目的で同じ人間が雇われ続けていたというということになる。だから最初の例としてはどうかと思ったわけ。次の自動織機の例のほうがよほど明確に思える。また著者は、ダーレン・アセモグルのロボット導入による工場の自動化の研究に参照して次のように述べている。「自動化を導入したその企業の雇用は最終的には増えていました。しかし、それは必ずしも、創造的破壊によって職を失った本人が、生産性が高くなった企業に再び雇用されたわけではないのです。増えたのはより生産的な仕事であり、高いレベルのスキルが必要なものです。陳腐化した昔の仕事が戻ってきたわけではないのです(93頁)」。

 

ま、ま、まずい。まだ新書本の半分にも達していないにもかかわらず、いつものように脱線しすぎてワード文書ですでに12頁目になっている。これでは際限なく長くなりそう。そういうわけでここからは駆け足で見ていくことにしましょう。「第4章 新しいモノごとへの抵抗」は、ラッダイト運動のようなイノベーションに対抗する動きが取り上げられている。イノベーションそれ自体が対象ではないので、この章に関しては、各章の最後に記述されている「まとめ」を引用するに留めておく。そこには次のようにある。「イノベーションには創造と破壊の側面があります。創造の恩恵は短期的には企業家が手にします。彼・彼女たちにとっては大きな経済的な利益ですが、より大きな恩恵は時間をかけて広く社会に広まります。生産性が高まり、経済は成長します。生活が便利になります。これに対して、破壊の影響は、短期的に、しかも局所的に現れます。¶だからこそ、破壊される側は抵抗します。抵抗はさまざまです。ラッダイト運動のような暴力的なものから、社内でのより静かな抵抗、さらには、既存企業によるロビー活動を通じた抵抗もあります。抵抗が力を持つと、イノベーションは社会に導入されません(128頁)」。

 

ということで、次の「第5章 アメリカ型をマネするな」に参りましょう。創造的破壊という概念は魔改造が得意な日本にはあまりふさわしくないのではないかと私めが思っていることはすでに述べた。この章では、まさにその点が詳細に論じられている。まず冒頭で、次のような問題提起がなされている。「ここ100年で生み出された世界でもインパクトの大きなイノベーションを見ると、そのほとんどがアメリカから生み出されています。¶だからこそ、アメリカから学ぼうと考えることは自然です。実際に、多くの国や地域でアメリカ的な仕組みを取り入れようと、さまざまな試みがされてきました。例えば1980年代以降、シリコンバレーから多くのイノベーションが生み出されるようになると、そのような産業集積を生み出すための試みが重ねられました。アメリカのスタートアップに注目が集まると、同じように新興企業用の資本市場やベンチャー・キャピタルのための制度整備をしてきました。¶確かに、模倣できるベストプラクティスがあれば導入すれば良いでしょう。しかし、本当に、意味ある模倣ができるのでしょうか。そもそも、アメリカ型のイノベーション・システムは模倣すべきモデルなのでしょうか。イノベーションを考える時、実は私たちはアメリカの一部しか見ていないのです(130頁)」。イノベーションに限らず、日本人には欧米のものごとを過大評価して見ることが多いように思われる。そのことは、日本にはさまざまな国の出羽の守がいることからもわかる。LGBTQなどはその典型と言えるかもしれない。元来キリスト教の影響が小さい日本では、LGBTQに対する差別など、なかったとは言わないにしてもあまり大きくはなかった。にもかかわらず、与党が率先してそれに関する法案をそそくさと成立させるという奇妙な事態が見られる。LGBTQ問題はまったく無視しても構わないと言いたいのではなく、「憲法改正とか安全保障問題とか他にもっと優先させるべきことがあるじゃん!」と言いたいわけ。日本人が考える優先順位はマジで狂っている。まあ、そういう問題提起をすべき大手メディアがどうしようもないほど狂っているというのが一番の問題だとは思っている。

 

と小言はここまでにして、先に進みましょう。次に著者は、リベラル型のイノベーションと調整型のイノベーションを区別している。図8(134頁)によれば、リベラル型のイノベーションを重視する国(米、英、豪、加、ニュージーランド、アイルランドなど)の特徴は「外部労働市場が発達し、企業は労働市場から必要とする人材の調達を行う」「企業の資金調達では、直接金融が支配的であり、ガバナンスにおいて株主が重要な役割を担っている」「参入や退出が比較的多く、企業は需要の変動に合わせて経営資源の柔軟な調達や整理を行う」で、調整型の国(独、日、瑞、蘭、ベルギー、北欧四か国、オーストリア)の特徴は、「企業内部の労働市場が発達し、企業は社内で人材を育成し、競争させ、必要な人材を登用する」「企業の資金調達では、間接金融が重要な役割を果たしており、ガバナンスにおいて銀行が重要な役割を担っている」「参入や退出が比較的少なく、企業は短期的な需要の変動に合わせて経営資源の調達・整理は行わない」のだそう。なお「直接金融」とは「資本市場から直接資金を集める(135頁)」こと、「間接金融」とは「銀行や自社の社内留保からの資金調達が重要な役割を担って(135頁)」いることを指すらしい。そして「リベラル型の国にはラディカルなイノベーションを起業[企業?]が生み出すのには良い条件がある一方で、調整型の国には累積的なイノベーションを生み出すのに良い条件がそろっています(137頁)」とある。先の分類では日本は調整型に入るので、まさに魔改造の日本には「累積的なイノベーションを生み出すのに良い条件がそろって」いると結論できる。さらに著者は次のように述べる。「ラディカルなイノベーションと累積的なイノベーションと聞くと、「やっぱりラディカルなイノベーションの方が大切なのではないか」と思う人は多いのではないでしょうか。もしも、ラディカルなイノベーションの方が好ましいのであれば、経済システムもリベラル型に変えていく方が良いでしょう。(…)それでも、経済的な価値を生み出すためには、小さな改良や改善の積み重ねが必要なのです。既存のものを大きく変革する新しいモノゴトが当初から経済的な価値を生み出すことはほぼないのです。はっきり言えば、そのような新しいモノゴトは、興味深いものではあるものの、粗雑で使い物にならないものです。これを使えるようなものに洗練させていかなければ、経済的な価値は生まれません。つまり、ラディカルなイノベーションと累積的なイノベーションは、補完的な関係にあるのです(139頁)」。こうしてみると、日本は明らかに洗練=魔改造が得意なのですね。

 

次に著者は、ラディカルなイノベーションのせいで生じている、アメリカにおける格差の問題を取り上げる。ただしアメリカにおける格差の拡大の問題についてはよく知られているので、ここではそれについて詳しく紹介することは控える(2001年に中国がWTOに加盟したときの、リベラル型の国アメリカの反応と調整型の国ドイツの対応の違いは興味深いので、本を持っている人はぜひ読んでみてみて)。では実際のところ、アメリカではラディカルなイノベーションによって何が起こったのか? その答えは次のとおり。「イノベーションによるスキルの陳腐化が起こっています。この負の側面は他の国でも見られていますが、アメリカで顕著に現れています。次の章で詳しく見ていきますが、イノベーションによってスキルが破壊されるリスクを個人が負うようになっているのです。その結果、実際にスキルが破壊された人がなかなかそこから回復できなくなっています。¶一般的に、アメリカは失敗に寛容な社会であり、それは日本が見習うべきであると言われてきました。しかし、寛容であったのはイノベーションを生み出そうとした際の失敗であり、イノベーションによってスキルが代替されてしまった人には寛容ではなかったのです。¶イノベーションで、既存のモノゴトが、より効率的あるいは効果的な新しいモノゴトに置き換えられるからこそ、生産性は向上します。一方で、アメリカのモノゴトの置き換えや、それに伴う企業の新陳代謝の速さは、スキルを破壊されてしまう人にそのリスクを負わせていたからこそ達成できていたものです。イノベーションの創造の側面だけを見ていると、ベストプラクティスのようにも見えるのですが、破壊の側面まで視野を広げると、手放しで模倣するべきとは考えられなくなります(158頁)」。ちなみに今朝わが8階建てウルトラモダンマンションの隣りにある、埼玉が世界に誇る丸広百貨店の6Fに居を構えているぷち紀伊國屋さんで『入門 シュンペーター』(PHP新書)という本を見かけた。見かけただけで読んでもいないし官僚出身という著者の経歴からして買う気にはならないんだけど、ちょっと気になったので帰ってからアマページで見てみた。すると予想通り「日本経済が凋落した理由、米国でイノベーションが起こる理由が明快にわかる!」「創造的破壊という言葉を生み、「イノベーションの理論の父」と呼ばれるシュンペーター」「日本経済が長い停滞に陥った理由が「シュンペーターの理論とは正反対のことをやり続けたから」であることを明らかにする」などといった能書きが踊っていた。しかも、アマランのヒゲが取れているからけっこう売れているように思える(もしかすると最近書評に出たということなのかもしれないが)。アマコメを見ても「傑作の中でも傑作」などといったタイトルのものがけっこう並んでいる。もちろん読んでいない以上、また表紙やオビの能書きは著者が書いているはずはないので、実際にどんな内容が書かれているかはまったくわからない。でも気になったのは、「創造的破壊」という受けのよさそうな言葉で、『イノベーションの科学』に書かれているようなラディカルなイノベーションの裏にある現実的側面を無視してアメリカのやり方を無条件に日本に適用することがベストプラクティスであるような書かれ方がされていないか、著者が官僚出身者であるだけに非常に気になったというわけ。

 

それから『イノベーションの科学』には、日本がアメリカの真似をすることが非常にむずかしい理由として、アメリカのイノベーションの多くが巨額の国防費に支えられている事実をあげている。そもそもインターネットがそうだしね。軍事に関わる研究は認めないと主張している学術会議のような団体が存在するようだが、実のところ劇的なイノベーションの多くは軍事研究から生まれているのですね。いずれにせよ軍事に関わる研究を認めないと主張するのであれば、なおさらアメリカの模倣をしてはならないということになる。

 

次の「第6章 自己責任化する社会」では、そのようなアメリカでは社会が自己責任化していることが論じられている。まず次のようにある。「イノベーションの創出に失敗するリスクの負担は広く分散的にシェアされるようになった一方で、イノベーションに破壊されるリスクのシェアは集中的になっています。そのリスクは、一部は企業が負担していますが、その負担は徐々に個人が負うようになっています。企業は競争力のあるビジネスに集中し、多角化の程度を徐々に低くしています。アメリカではそれは顕著であり、日本も徐々にその方向に向かおうとしています(177頁)」。そのような状況のもとで、自己責任が強調されるようになったというわけ。

 

長くなってきたので自己責任論の詳細については、他の本を取り上げたときに見ていくことにするけど、次の指摘は引用しておきましょう。「1980年代に入るまでは、責任は他者を助ける個人の義務のことを意味していたと[ジョンズ・ホプキンズ大学のヤシャ・]モンクは指摘しています。それが今日では、責任とは、自分で自律し、それを怠った時にはその結果を引き受けるという意味に変わってきているというのです。彼はこれを、「義務としての責任(他者への責任)」から、「結果責任としての責任(自己責任)」への変化と名づけています。¶実際に1980年代に入るまでは、政治家が国民に対して責任ある行動を、と説く場合には、基本的にはその責任は、理由を問わず他者を援助し、社会に貢献する義務のことを意味していました。例えば、1961年のジョン・F・ケネディは大統領就任演説で「国があなたのために何ができるかを問うのではなく、あなたが国のために何ができるかを問え」と、アメリカ人に公共の利益、つまりみんなのために何ができるのかを考えることの大切さを説くスピーチをしています(187〜8頁)」。翻訳者ゆえの狭量さのゆえか、「「1961年のジョン・F・ケネディは大統領就任演説で」ではなくて「ジョン・F・ケネディは1961年の大統領就任演説で」でしょ!」と、どうしてもチャチャを入れたくなってしまう。それはそれとして、アメリカでもかつては、ケネディの大統領就任演説の例からもわかるように民主党の大統領でさえ共和主義的な考えを持っていた。なお、共和主義とは何かについては人によって定義が異なるとしても、個人的には、個人より共同体(ここでは国家)を重視する見方が大きなウエイトを占める考えと見なしている。詳しくは『アメリカ革命』を取り上げたときに述べたのでそちらを参照してね[ページ内検索キーワード:共和主義]。とりわけ左傾化がひどいバイデン政権になってからは、この共和主義的傾向がほとんど消えてしまった。だからロバート・ケネディ・ジュニアが、トランプ陣営に鞍替えしたときに「今のケネディ家(民主党)はかつてのケネディ家(民主党)とは違う」と言ったのですね。あえて言うまでもなく(え? 「言ってるじゃん!」てか?)1980年代から新自由主義が全盛を迎えてからは、レーガノミクスのアメリカやサッチャリズムのイギリスでは極端な個人主義がはびこるようになり、自己責任が強く求められるような風潮になってしまったというわけ。ある意味で、ラディカルなイノベーションを重視する方針が、そのような事態を生んでしまったと言えるのかもしれない。

 

次は最終章の「第7章 創造と破壊のためのリスク・シェア」だけど、この章に関しては第4章と同様、最後のまとめを引用するに留める。次のようにある。「[第7章では]イノベーションによって破壊されるリスクをどのように共有できるかを考えてきました。まず、政府の再分配について見てきました。ただ、政府による再分配は大切なのですが、政府の財源にも限りがあります。平均寿命が延び、社会保障や医療費は増えます。だからこそ、政治家は国民に自律を説き、再分配を条件つきにしていったのです。¶このイノベーションの破壊リスクを個人に負わせすぎない仕組みづくりは、イノベーションを生み出すための仕組みづくりとセットで考えていくべきものです。ポイントは両方とも同じ、分散投資です。¶よほど大きな資産を持っている人でないかぎりは、所得の源泉は自分の人的資本です。どのようなスキルを身につけているのか、どのような仕事をしているのかで所得は大きく変わります。私たちの時間は有限ですし、私たちのカラダは一つです。これがスキルやキャリアをかたちづくる上での分散投資を難しくします。一人で分散投資を行うことには限界があるからこそ、人と人とが支えあう単位を広げていく必要があるのです。¶教育投資も重要です。優れた教育への安価なアクセスは、イノベーションへの抵抗と格差拡大を小さくします。教育は政府による非金銭的な再分配の中でも重要性が高いものです。イノベーションに対する投資よりも早いペースで教育投資をしていく必要があります。¶また、労働力人口が減っていく日本のことを考えるならば、労働節約的なイノベーションを進めるのは大きなチャンスだという点も考えてきました。それを世界に輸出していくことは、日本企業の大きな活路になるはずです。ただ、これはあくまでも日本(特に日本企業)のことだけを考えればのことです。より重要なのは、イノベーションに伴う二つのリスク、創造する人が{対峙/たいじ}するチャレンジのリスクと、破壊される人が直面するスキル陳腐化のリスク、これらをシェアする仕組みの拡大です(227〜8頁)」。

 

ということでイノベーションに関してプラスの面とマイナスの面が過不足なく書かれていてなかなかすぐれた本だという印象を受けた。とりわけ日本にはアメリカ式のイノベーションを絶賛する風潮が見られるように思える。しかし、アメリカがラディカルなイノベーションを次々と創造しているのには、裏があるのですね。重要なのは、その国の文化や伝統、あるいは国民性に見合ったイノベーションを促進することだと思う。その点では魔改造が得意な日本は、真新しいイノベーションこそあまりないとしても、能力増強型のイノベーションでは多大な成果をあげてきたのですね。その例の一つとして鉄道をあげた。気になるのは、均質な状態や方式が世界中に流布されるべきとするグローバリスト的思考が昨今蔓延しているように思われること。それははっきり言って、人々の生活、私めの用語を使えば中間粒度を破壊する自殺行為だと思う。むしろ世界を考えるならば、それぞれの国がそれぞれの国にもっともあった仕方で、役割分担をしていくことが最善だと思うが、いかがなものだろうか?

 

 

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※2024年12月20日