◎小坂国継著『西田幾多郎の哲学』(岩波新書)

 

 

正直なところ、西田幾多郎の本など一冊も読んだことがない(入門書は何冊か読んだけど)。某社の編集者さんに、某書店で西田関連の本を指して「西田幾多郎を読んだことある?」って訊かれて「ぜんぜんありましぇ〜〜ん」と堂々と答えたら怪訝な顔をされたのを覚えている。いやいやいくら哲学専攻だったからと言って、世界中のあらゆる哲学者の本を読んでいるわけではないべさ。だいたい講義にもまともに出席しない由緒正しき日本の学生だったのに。

 

で、そんなどうしようもない私めがこの新書を買ったのは、最初のほうに「西田哲学は直観主義の哲学であるといえるだろう(3頁)」「西田は人間精神の能力をつねに知、情、意の順序で位置づけ、意志を精神の最高の能力と考えていたが、彼はさらに意志より上位にある究極の能力として直観をおいた(3頁)」と書かれているのが目にとまったから。

 

以前とり上げた『スピノザ』(講談社新書)もそうだったけど、直観を重要な基盤的能力とする見方は、実はわが訳書『人は簡単には騙されない』(青土社,2021年)のヒューゴ・メルシエさんや、メルシエさんとの共著『The Enigma of Reason』(HUP, 2017)を刊行している著名な認知科学者ダン・スペルベルさんの進化生物学や、脳科学を含めた認知科学に基づいた直観のとらえ方とかなり重なる部分がある。

 

では、理性は直観にほだされて誤った判断をすることがあるという行動経済学的な議論はどう考えればいいのかということになるけど、メルシエさんらに言わせれば、結局行動経済学者たちが行なっている実験は、実験室内に作られた人為的な環境のもとで、わざわざ理性がバックファイアーするような不自然な環境を強引に作り上げて行なっているからこそ、そのような結果が得られているということになる。

 

確かにそういう気もする。人間は生存や生活がかかった実践的な状況ではそれほど間違わないというのがほんとうのところで、生存や生活がかかった状況で簡単に間違うような認知作用を持つ生物は進化の途上で淘汰されているはずだしね。たとえば最近、ウクライナ戦争の件に関する記事がネットにも上がっているけど、それらの記事についたコメを見ると一般にきわめて妥当だし、変なコメもないわけではないけど、その種の陰謀論的なコメに対しては上げより下げの数のほうが圧倒的に多い。

 

まさに安全保障の問題は生存や生活がかかった問題だから、一般ピープルはあまり間違わないってこと。むしろ知識人や文化人、あるいはそれを気取って進歩人ぶる芸能人などのほうがおかしな意見を吐きまくっていたりする。要はイデオロギーに絡み取られて、自分でも直観的に信じていないであろうことを無自覚に開帳しているのね。

 

話がズレてきたので新書本に話を戻すと、実のところ直観については165頁の「5.行為的直観」に至るまで、ほとんど触れられていなかった(「直覚」という表現はあったけど、それが「直観」を意味しているのかどうかはようわからん)。その節にこうある。「だとすれば、絵[ゲルニカ]を描くという行為によって、画家[ピカソ]は自己自身を直観するのであり、発見するのである。したがって行為を通して直観が生じるといえる。行為が直観を生むのである。否むしろ行為は直観であり、行為即直観である(167頁)」。

 

だとすると直観より行為のほうが先にあるということなのかなと思ったけど、そのすぐあとに「一つは、行為的直観の思想はこのように行為と直観との相即的・相補的関係を説くものであるが、その場合、明らかに直観の方に力点が置かれていることである。真に創造的な行為は事象に対する深い洞察より生じる。(……)西田の行為的直観はカント流の道徳主義的な立場からではなく、むしろプロティノス的な観照の立場から説かれたものである(167〜8頁)」「西田が行為的直観を説いている箇所を仔細に検討すると、一見、それが行為即直観・直観即行為のような行為と直観との相即的で相補的な関係を説いているように見えて、実際はもっぱら直観即行為の側面に力点をおいて説いていることがわかる。そこに西田の直観主義が鮮明にあらわれているといえるだろう。そしてこのような直観主義は、たびたび触れたように、『善の研究』以来、西田に一貫した主張であった(168頁)」。

 

そうであれば西田の直観主義は、メルシエさんらの考えに少なくとも反することはないように思える。全般的な印象として、この新書本は、一応入門書なんだろうけど、哲学書を読んだことがない読者には、やっぱり楽には読めないだろうなと思った。

 

 

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※2023年4月28日