◎加藤隆著『キリスト教の本質』(NHK出版新書)
まず全体の感想を述べておくと、相当にアブナそうなことが書かれていて(他の神学者がこの本を読んだらどう思うのだろうかとも思った)、確言はできないけどあまり一般的な見解ではないんだろうという印象を受けた。今時のネットスラングで言えば、「それってあなたの感想ですよね!」という感じ。そのようなわけでこの本の内容を額面通りに受け取っていいのかどうかは、と〜しろ〜の私めにはよくわからないから、最初は読書ツイート書庫に追加はしないでおこうと思っていたんだけど、こういう見方もあるらしいということを紹介するために追加することにした。
さてキリスト教と言えば、西洋文明の基盤をなしていると一般には考えられている。私めが卒業した大学も一応キリスト教系だったこともあってか(ただし悪魔が棲んでいると言われることもあった)、そのように言う教授さまもいた。ただ著者が「キリスト教は、西洋文明にとっての、本質的な要素ではない。西洋文明は、古代の「ギリシア・ローマ」の時代に生じて、{培/つちか}われ、大きな勢力になった文明世界である(12頁)」と述べているように、キリスト教が誕生するはるか以前から西洋文明は存在していたわけで、少なくともキリスト教が西洋文明の起源をなすわけではない。だから著者は冒頭で次のように釘を刺している。「キリスト教を理解しなければ、西洋文明が理解できないのではない。しかし、キリスト教が理解できないでいると、西洋文明の姿に厚い雲が広くかかっているようで、西洋文明についてのせっかくの理解がどうもすっきりしないということになってしまう(9〜10頁)」。たとえば何度も紹介しているように、ジョセフ・ヘンリックの最新刊『The WEIRDest People in the World』などを読めば、現代西洋文明がいかにキリスト教の影響を受けているかがよくわかり(ヘンリックの場合にはウェーバーとは違ってカトリックに着目しているけどね)、西洋文明とは何たるかに関する構図がより明瞭になる。ただし新書本の著者は神学者なので、ヘンリックのような進化的な観点からではなく、あくまでも神学的な観点からキリスト教を見ているので、神学にはあまり縁のない私めには非常に興味深いものがある。
また序章にある次の指摘にも首肯した。「キリスト教は、崩壊の危機に{瀕/ひん}していた西洋文明を支えて、さらに存続ないし延命させるきわめて有効な手段・道具だった。しかし「近代」になって、科学技術の成立・進展があって、社会が豊かになると、「キリスト教」から脱却しようとする動きが生じる。これが「世俗化」である。「キリスト教」は、「西洋文明」にとっては、「必要な時には必要だが、なしで済むなら、ない方がよいもの」「必要な場合にはそれを活用すべきだが、本当に必要でない場合には無駄なもの」である(12頁)」。なお最後の文章はおそらく著者の主張ではなく、「世俗化」によってそう思われるようになったという意味だと思われる。ちょっと余計な指摘になるんだけど、本書にはどうも文章の書き方があいまいな箇所がそこここに見られ、これから引用する文章にもわかりにくい箇所があるかもしれないので悪しからず。『創造論vs.無神論者』で取り上げた、無神論の四騎士の宗教に対する見方は、「世俗化」が極北に達して出現したものだと言えるだろうね。なお彼らの考えがいかに有害か、そしてなぜ有害かについては、ここでは述べないのでそちらを参照のこと。ただ新書本の著者による、デカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」に関する次の議論は少しばかり行き過ぎのように思えた。「デカルトのここでの議論は、哲学的議論、存在論についての論理的思索にはなっていない。「方法的懐疑」のいろいろな検討などを見ると、価値中立的な論理的議論であるかのようだが、これはカモフラージュである。デカルトは、「科学的思考は、教会の権威に服従しない」ということを主張したい。そこで、いろいろと議論した{挙句/あげく}に、突然「私は考える」は「懐疑」にあてはまらないとする態度になる。「教会」に「(科学的思考をするところの)自我」を対立させたい。「科学的思考」に、神の権威、つまり、教会の権威に服従しない権威、を認める主張を行う。(…)西洋の「哲学的な議論」は、論理的な議論であるあるかのような体裁になっていても、(そして、部分的には、優れた論理的議論も認められるけれども)、多くの場合は、結局は、論争的な議論であり、教会の権威からの解放を目指す「世俗化」の企ての一環として見ると、理解できる場合が多い(18〜9頁)」。デカルトの言明をいわば政治的にとらえる著者のこのような見解に対して、デカルトの専門家がどう見るのかはよくわからないが、神学者の目から見ると、科学や哲学はこのように見えるらしい。でも率直に言って、私めには無神論の四騎士のまったくのネガを見ているように思える。なぜネガかというと、そこには科学や哲学とキリスト教(宗教)のあいだには決定的な断絶があると前提されているという本質的な共通点を見出すことができ、どちらを否定的にとらえるかだけが違うように思えるから。しかし個人的には、『創造論vs.無神論者』で述べたように、科学史家のエドワード・グラントらの主張のように、むしろそれらのあいだの連続性に着目するほうが有益だと考えているので、著者のこの見解が、無神論の四騎士とは正反対の方向に過剰であるように思えてしまうわけ。
またしても横道に逸れそうなので新書本に戻りましょう。「第1章 「キリスト教」についてのアプローチ」では、まず本書の目標が次のように提示される。「キリスト教なるものの本質を明らかにするのが、本書の課題である。「キリスト教の本質」を理解するとは、人類の文明構築の流れの中で、キリスト教とはどのようなものであったのか、どのような役割を果たしてきたのか、キリスト教の有用性が終わりに近づいているとはどのようなことかを、理解することである(28頁)」。途中まではごく一般的な問いに思えるけど、最後の「キリスト教の有用性が終わりに近づいているとはどのようなことか」というくだりは、ちょっと意外に思えた。というのも、私めのようにキリスト教のみならずいかなる宗教も信奉していない無神論者が「キリスト教の有用性」を語るのは別に不思議なことではないとしても(実際私めは、『創造論vs.無神論者』の評の冒頭で「宗教の持つ実践的な利点まで否定するつもりはない」と書いた)、神学者が功利主義者や効用を重視する経済学者のごとく「キリスト教の有用性」にわざわざ言及するのは、いかにも奇妙に思えるから。とはいえこの言明だけでは何が言いたいのかが判然としないので、それに関しては、ここではいったん保留にしてとりあえず先に進みましょう。短い第1章の末尾では以後の章の前振りが次のようになされている。「ユダヤ教の改革運動を、イエスは行おうとした。つまり、イエスがいた当時のユダヤ教には問題があった。そしてその問題について何とかできると思うからこそ、イエスは目立った活動を行った(39頁)」。では、「ユダヤ教の問題」とは何か? それは次のようなことらしい。それは「簡単に言えば、「神の沈黙」「神が動かないこと」である。しかし、ユダヤ教のこの問題の意味を十分に理解するには、ユダヤ教が{如何/いか}なるもので、イエスの当時までどのように展開してきたのかを知らねばならない(39頁)」とのこと。
そのようなわけで「第2章 ユダヤ教の諸段階」ではユダヤ教が取り上げられている。ちなみにこの第2章は、延々と120頁以上続いている。よって本文250頁のうちのほぼ半分が、ユダヤ教の説明に費やされていることになる。著者にしてみれば、キリスト教の本質を理解するためにはユダヤ教を理解する必要があるということでこれだけの分量になっているんだろうね。まず著者は、古代ユダヤ教の展開を次の四つの時期に分けている。「〈1〉前十二世紀。「カナンへの定住」の時期。ユダヤ人全体がヤーヴェという神に仕えることを選択する。「普通の一神教」が成立する」「〈2〉前八世紀前半。北イスラエル王国が滅亡し、神学的な大きな転換が生じる。「本格的な一神教」が成立する」「〈3〉前二〜前一世紀ころ。長く続く「神の沈黙」の中で、さまざまな傾向が出揃う。特に{敬虔/けいけん}主義的態度に対する「律法」の効用が発揮される」「〈4〉後一世紀末。紆余曲折の末、ユダヤ教は「律法主義」に収斂する(44頁)」。歴史的な詳細は省略するとして、ここではキーワードだけ説明しておきましょう。〈1〉にある「普通の一神教」とは、「さまざまな神々があるのだが、自分たちはある特定の神だけに仕える、という立場(48頁)」を意味する。このような立場は、確か一般には「拝一神教」と呼ばれていたはず。もちろんここで言う「特定の神」とは、「ヤーヴェ」を指す。重要な点は、「普通の一神教」の場合には、「結局のところ「人が神を選ぶ」ということが前提になっている(66頁)」こと。〈2〉にある「本格的な一神教」とは、北イスラエル王国が滅亡したために、「ヤーヴェは民を見離した」、あるいは「ヤーヴェは動かなかった」のはなぜかという疑問が生じ、それに答える過程で生まれたものらしい。それには「契約」と「罪」の概念が関係し、人間が神との契約を守らず、「人間の方に落ち度(罪)があった(84頁)」から神が動かず北イスラエル王国が滅亡したと考えるわけ。そして「この「罪」と「契約」の理屈は、神ヤーヴェとの関係を想定する前提においてだけで生じているため、他の神々の入り込む余地がない。¶ここに、たいへん特殊な構造になっていて、「ヤーヴェ」だけしか神として認められない仕掛けになっている「本格的な一神教」が生じたのである(86頁)」。これは「排他的一神教」の成立を意味し、要するに北イスラエル王国の滅亡を境としてユダヤ教内で「拝一神教」から「排他的一神教」への移行が生じたということなのでしょう。
しかし著者によれば、「罪」と「契約」に基づく神さまの理解には次のような問題がある。「しかしこの考え方は、「民が罪だから、神は動かない。民が義であれば、神は動く。神は再び我々に恵みを与えてくれる」ということが前提となっている。つまり、人間のあり方次第で、神の動きをコントロール(操縦)できるという考え方である。神がどうするかは神が決めるのではなく、人間がどうあるかによって神がどうであるかが決まる、という考え方である。民が神に従属しているかのようだが、実は神が民に従属している(87〜8頁)」。だから「神の沈黙を正当化するために、神ではないもの(人間の態度に応じて自分の態度を変化させる者)を神にしてしまった。「人が罪だと神が動かない」というのは、神を人間が動かせる機械にしてしまっていることであり、神を否定し、神を退けなければあり得ない立場である(96頁)」という結論になる。
次に〈3〉と〈4〉にある「律法(主義)」だけど、ここで言う「律法」とは具体的には「トーラー」と、のちに加わった「タルムード」を指す。次のようにある。「「トーラー」はまずはごく普通の名詞であって、「法」「法律」のことである。(…)実際に「トーラー」は、ユダヤ人社会の普通の法律として位置づけられていた。ところが「トーラー」は「一字一句も変更できない」とされるようになり、単なる「神の言葉」以上の、絶対的とも言うべき権威を持つようになる(99頁)」。なんか一部の日本人にとっての日本国憲法みたいだね。それゆえに「「トーラー」は、「一字一句も変更できない」という特殊な性質を備えた掟として、ユダヤ人たちを拘束することになった(120頁)」というわけ。それも次のような経緯があったらしい。「ペルシア帝国が滅んだ後は、「律法」の変更や廃止に、異教徒であるペルシア当局の承認が必要、という条件が消えたので、ユダヤ人の間だけで、「律法」をどのようにでも扱うことができた。しかし、「一字一句も変更できない」ところの「律法」の権威は、ますます堅固になる。それは、「神の前での〈自己正当化〉」をできなくするという、第二段階があったからである。これは、端的に言えば、「救われたつもりになっている者たちについて、救われてないと分からせる」ことである(141頁)」。かくして著者はこの章の結論として次のように述べる。「これは、事実上、人間の努力では救いは実現しないということの確認になっている。(…)こうして成立した「ユダヤ教」は、神が不在で、人間の努力では救いが実現できない宗教である(165頁)」。これを読んだ私めは、「うむむ! ユダヤ教には神がいないの? ヤーヴェさまはどこへ行ったの?」とか思ったけど、とてもこの見解が一般的だとは思えないから、それはあくまでも著者の観点から見た場合ということなのでしょう。ちょっと逆張り気味の言説と言えるのかも。
ところでこの章には些細なことだけど、注目に値する記述が二つほどあった。一つは宗教哲学者マルティン・ブーバーをこき下ろしている箇所で次のようにある。「ブーバーは、「ユダヤ教の敬虔主義者」「ユダヤ教のピューリタン」である。つまり、自分の都合のよい思想的断片をユダヤ教の伝統から集めてきて、それで一応の立派な議論を組み立てて、それが「ユダヤ教の真の立場」だと主張する者である(155頁)」。うむむ! 辛辣じゃ。ちなみに著者にとっての「敬虔」とは、「分かっていないけど、形だけきちんとやっている(142頁)」という意味らしいから、いわば形式主義という悪い意味で言っていることになる。さらに次のようにある。「そして、ユダヤ教の外部にいる「ユダヤ教研究者」で生半可な者、認識が甘い、知識が十分に自分のものになっていない者は、「ユダヤ教は分からない」と認めたくないので、ブーバーに注目して、ブーバーの一人よがりで、不当な単純化の立場を、ユダヤ教そのものの理解になっているかのように紹介したりする。ユダヤ教を紹介し解説する書物などで、ブーバーを高く評価する類のものは、浅薄であると判断して然るべきである(156頁)」。まあ「ちょっと言い過ぎでは?」とも思うんだけど、それで思い出したことがある。私めが通っていた大学の哲学専攻の教授の一人に平石教授というブーバーの専門家がいた。世界的権威と言われているとも聞いたことがあるけど、真偽のほどはよくわからん。私めが覚えていることといえば、教室がさわがしいとキレていたことだけ(ただブーバーの主著『我と汝』は読まされたかもしれんが、内容はまったく覚えていない)。この先生も、著者が言うような「敬虔な」学者だったのだろうかとふと思ってしまったわけ。
もう一つは、次の皮肉っぽい記述。「しかし、「トーラー」は、少し勉強すれば、これは一生かけてもすべては理解できない、ということが容易に分かる。部分的な理解は神の前では意味がないということになっているので、「トーラー」の勉強を安心して中断できる。別の分野での能力や才能があれば、それを開花させることに専念できる。現在の全世界のユダヤ人の人口は千四百万人ほどとのことである。この総人口に対して、さまざまな分野で活躍しているユダヤ人の割合がかなり高いと思われる。これは、「トーラー」の圧力の副産物のひとつと考えていいかもしれない(156〜8頁)」。いやいや、これはまたケッタイな理論で、それを言うなら「高度経済成長時代のもとで、取り揃えて近所の皆さまに見せびらかすことがインテリ家庭の義務のように考えられていた「平凡社世界大百科事典」は、実際に全部読んですべてを理解することはとうてい無理であることがすぐにわかるから、インテリ連中は皆、読破をあきらめて他のことに精を出すようになった。日本の高度経済成長は、このような「平凡社世界大百科事典」の圧力の副産物としてもたらされたのだ。チャン、チャン」とも言えそうだよね(なお「平凡社世界大百科事典」はまったくの思いつきであげたわけではなく、著者によれば、「バビロニア・タルムード」は、「昭和時代の世界大百科事典のような量(148頁)」があるとのことらしい)。ただ著者の上記の文章は、前述のブーバー批判の直後にあるから、ひょっとして資本主義の起源をプロテスタンティズムに見出したマックス・ウェーバーを返す刀でぶった切る意図があるのかもしれないと思い直した。ユダヤ人が活躍している「さまざまな分野」のうちでももっとも有名なのは金融業だと思うけど、資本主義の勃興に金融業は重要な役割を果たしたはずだからね。要は、資本主義の起源をユダヤ教の律法の読解の挫折に見出すという著者のトンデモ理論をマックス・ウェーバーの理論に対置させて、後者を前者と同じレベルまで引きずり落とそうとする恐るべき高等戦術に思えてきたというわけ。言い換えれば、とても交絡因子を排除しているとは思えないトンデモな例をあげて、「マックス・ウェーバーさん、あ〜たも交絡因子をきちんと排除していませんよね?」と言って、その不備を明確にしたかったのかも。これがウェーバーに対する当てつけと思われるもう一つ些細な証拠があって、それはマックス・ウェーバーという名の画家の『タルムーディスト』という絵が157頁に掲載されていて、そのキャプションに次のようにあること。「マックス・ウェーバー『タルムーディスト』(ユダヤ博物館蔵)。律法の研究に生涯を費やしても、結論に至らない人々の様子が如実に描かれている。マックス・ウェーバー(1881〜1961)はユダヤ系アメリカ人の画家で、有名なドイツの社会学者、政治学者マックス・ウェーバー(1864〜1920)は同姓同名の別人」。私めの推測が当たっているとするなら(ちなみに本書には、この図版のキャプション以外にはマックス・ウェーバーに対する言及は一切ない)、ブーバー批判といい著者は人が悪いねえ。
さて次は「第3章 キリスト教の成立」だけど、他の神学者が読んだらどう思うのだろうかという記述がさらに続く。まずイエスの登場について次のようにある。「長い間、「神の沈黙」が続き、(…)神の側には神しかいない、という状態が続いていた。神の側にいる人は、{〇/ゼロ}人だった。ところが、イエスが神に選ばれて、神の側には、神だけでなく、イエスという人も共にいることになった。¶これが「イエスの意義」である。神の一方的な介入によって「神との断絶」の問題が解消する、ということを、実例をもって示したことである(170〜1頁)」。また次のようにある。「それから重要なことがもう一点ある。誰が救われるかを決めるのは神である。その際に、ユダヤ人と非ユダヤ人の区別はもはや意味を持たない、という点である。ユダヤ教の伝統では、非ユダヤ人が救われることは、まったくの問題外だった。救いの実現があったとしても、それはユダヤ人に限られたことだった。しかし、神が実際に非ユダヤ人をひとりでも救えば、こんな思い込みは崩れてしまう(172頁)」。イエスの登場によって、民族宗教たるユダヤ教から普遍宗教たるキリスト教の萌芽が生まれたことを示唆する、このあたりの記述は至って常識的で特に奇妙ではない。しかし、イエスから離れてキリスト教の分派が取り上げられる「キリスト教の本質」と題する節になると、だんだん雲行きが怪しくなっていく。次のようにある。「キリスト教の本質は、それら[各宗派]の「教え」の内容、「なすべきこと」の内容に存しているのではない。それらは千差万別である。「教え」の内容、「なすべきこと」の内容、ではなくて、ありもしない「なすべきこと」を、存在するかのように宣伝して宗教集団を作り出すというところが共通であって、それが「キリスト教の本質」である(181〜2頁)」。もちろんイエス・キリストに対する民間信仰と、教義を主体とする組織としてのキリスト教(会)は別物であって、著者は後者のことを指して言っていると思われるけど、それが「キリスト教の本質」と言われてしまうと、「マジで?」「ホンマかいな?」と思わざるを得ないよね。何しろ「キリスト教の成立」という節の副題に「神なしの領域での宗教ビジネス者たち」とあるほどだし。さらに著者はパウロに言及して、「パウロは、神の不在を確認した上で、神をダシにして、自分に従う宗教集団を作りだし、指導者になる、きわめて巧妙な宗教ビジネスマンである(186頁)」と書かれている。まるで霊感商法みたいね。そして第3章は次のような結論で締め括られている。「キリスト教に、さまざまな宗派・分派があることを、具体例で示す作業は、無限に続けることができる。どれも「神なしの領域」での出来事であり、「(空虚な)神」をビジネス目的でいかにうまく利用できるかで、{栄枯盛衰/えいこせいすい}を繰り返している姿でしかない(203頁)」。まさに、「キリスト教ビジネス説」の爆誕ですな。まあただ、ピーター・ブラウンのような歴史学の大家も、大著『Through the Eye of a Needle: Wealth, the Fall of Rome, and the Making of Christianity in the West, 350-550 AD』(PUP, 2012)で、ローマ帝国の富がいかにキリスト教会に流れ込んだかを論じているほどだし、あながち的はずれでもないのでしょうとつけ加えておく。
次は「第4章 キリスト教と「世俗化」」。キリスト教の世俗化自体はよくあるテーマなので細かい記述は省略するとして、「キリスト教の社会的・政治的有用性」という節は、冒頭で訝った「キリスト教の有用性」とはどういう意味かが説明されているので取り上げておきましょう。聖職者の生活についてひとしきり述べたあと、次のようにある。「こうして見てくると、キリスト教が西洋文明によって採用されて、巨大な組織になり、大きな威信のある制度になったのは、西洋文明社会の維持・運営にとってきわめて有用だったから、ということになる。つまり、社会的・政治的有用性が、キリスト教の価値だったのである。(…)したがって、キリスト教が、西洋文明社会の維持・運営にとって役に立たなくなってくると、「キリスト教離れ」が生じてくる。これが「世俗化」である(218頁)」。これを読むと著者は、神学者やキリスト教信者としての内部の観点というより、ここまであげてきたマックス・ウェーバー、ピーター・ブラウン、ジョセフ・ヘンリック、エドワード・グラントなどと同じく、外部の観点から「キリスト教」という制度を見ているように思える。あるいは最近邦訳が出たロビン・ダンバーの『宗教の起源』もその範疇に入るでしょう。余談だけど『宗教の起源』は白揚社から刊行されているけど、同社はヘンリックの前作『文化がヒトを進化させた』も刊行しているし、冒頭であげた最新刊大著『The WEIRDest People in the World』の版権も押さえているもよう。来月刊行予定のわが訳書、マイケル・トマセロ著『行為主体性の進化』といい、なかなかお目々が高いと偉そうに言っておきましょう(あとで白揚社の編集者さんに褒めてもらおっと)。新書本の話に戻ると、裏表紙の著者紹介やオビの「ストラスブール大卒の神学者」という記述を見て著者は純粋な神学者だとばかり思っていたんだけど、むしろ歴史家的な、もっと言えば文明論者的な立場からキリスト教を見ているような気がしてきた(文明論者的立場についてはあとで述べる)。それなら「有用性」という表現も十分に理解できるしね。でもそれならば逆に物足りなく思えてくる。というのも、今やキリスト教を含めた宗教は、ジョセフ・ヘンリックに代表されるように、進科科学、認知科学などの科学をも含めた非常に複合的な視点から見られるようになりつつあることからすると、ここに提起されている説明は単純すぎるように思えるから(ただし新書であるということも斟酌すべきだろうけど)。
最後の「第5章 日本とキリスト教の関係について」に関しては、二点だけコメしておく。一つはノア・ハラリ氏に関する記述について。次のようにある。「ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』(二〇一一年)、『ホモ・デウス』(二〇一五年)も、世界規模で注目された。しかし、この著作では、諸文明の違いがほとんど考慮されていない。ホモ・サピエンスが他のライバルを退けて、圧倒的に支配的になって以降の、文明時代の問題として扱われるのは、全人類に共通の問題ばかりである。地球規模で活動している国際組織の多くに見られる関心事項の様子に似ている。(…)諸文明のそれぞれに特有の問題は無視され、したがって、諸文明の間のさまざまな重要な違いは、存在しないかのようになってしまい、「スルー」されてしまう。(…)ハラリ氏が考慮できているのは、結局のところ西洋文明だけである(239〜40頁)」。私めはノア・ハラリ氏の本については『サピエンス全史』を原書(てか、英語版と言うべきなのかな?)で一度読んだだけだけど、同様な印象を受けた。というか、とりわけ終盤の展開は非常に危険だと思ったから、それ以後氏の本は一冊も読んでいない。ノア・ハラリ氏はいわずと知れたユダヤ人だけど、ユダヤ人はアシュケナジムとセファルディムという区別とは別に、民族主義的なシオニスト型と、普遍主義的な、というか今風に言えばグローバリスト的なディアスポラ型に分けられるようにも思える。そして『サピエンス全史』やいくつかのネット記事(たとえばコロナが流行し始めた頃の朝日のインタビュー記事)から判断すると、ノア・ハラリ氏は、イスラエルで生まれイスラエルのヘブライ大学で教えているとはいえ、少なくとも思想的には後者のディアスポラ型に属するように思われる。だから「諸文明のそれぞれに特有の問題は無視され、したがって、諸文明の間のさまざまな重要な違いは、存在しないかのようになってしまい、「スルー」されてしまう」という新書本の著者の見立ては、ノア・ハラリ氏にしてみれば当たり前田のクラッカーなんだろうと思う。新書本の著者も私めと同じように、その点にヤバさを感じているのでしょう。
それに対して著者は「比較文明類型論」を提唱している。次のようにある。「[ハラリ氏のような]こうした常識的な観点に比べて、私が手間暇かけて構築した「比較文明類型論」は、きわめて有効で、発見的価値(…)が大きく、次元が違う発見的価値がある。この「比較文明類型論」のおかげで、たとえば日本とキリスト教の関係についても、本格的議論ができるようになる(240〜1頁)」。「比較文明類型論」のようなものは風土論にせよ、梅棹忠夫にせよ、アーノルド・トインビーにせよ、ジャレド・ダイアモンドにせよ、いくらでもありそうな気がするので、手前ミソすぎる記述に思えるのは確かだけど、ノア・ハラリ氏のもののような、あるいは「国境のない世界を目指そう」などといった普遍主義的言説(ノア・ハラリ氏も朝日のインタビュー記事でそれに類することを述べていた)が堂々とまかり通っている現在の状況に対するプロテストとも取れ、その点では大いに共感できる。いずれにせよこのような見解からも、著者が文明論者的立場からキリスト教を見ていることがわかる。
それから日本の古来の「和」の精神について書かれた次の記述を特にあげておきましょう。「「和」は、「全体主義(トータリタリアニズム)」ではない。整然と行進する軍人たちのように「社会のメンバー全員が同じ」であるべき、なのではない。「和」は、さまざまな人たちが共存するあり方である。人々の多様なあり方を認めつつ、社会全体としてのまとまりを維持するのが、「和」である(243頁)」。なぜこの記述を取り上げたかと言うと、とりわけ最近になってあたかも日本が多様性を認めない国であるかのような言説をちらほらと見掛けるから。そのような言説は、特定のイデオロギーに基づく単なるプロパガンダであって、具体的な証拠に基づいていないと言わざるを得ない。「和」の精神を認める日本は、従来キリスト教の価値観に絡めとられた西欧諸国と比べれば、もともと多様性を当然のこととして受け入れていたのですね。だからこそアジアの国々のなかでも西洋化をいちはやく達成できたとも言える。多様性が認められなければ、どこか遠くにある異文化に支配された西洋諸国の考えや技術を取り入れるには強い抵抗があったはずだから。でもそうして取り込んだ欧米の思想に逆に縛られた結果、日本には多様性がないなどというおかしな言説がまかり通るようになったというわけ。欧米に右に倣えして日本には多様性がないなどと叫んでいる人々のほうが、「社会のメンバー全員が同じであるべき」と考える全体主義に陥っているように見えるのは、まったくの皮肉であるとしか言いようがない。おそらく著者も同じように感じているのかもね。
ということで、冒頭で述べたように、この本に提示されているキリスト教の見方が一般的なのかと言うと、それはかなり疑わしいように思われる。だから誰にでもお勧めできるような本ではない。ただゲテモノ的な関心を持って読めば、そこそこおもろく感じられるのかもしれない。
※2023年10月23日