◎マイケル・トマセロ著『行為主体性の進化』
◆誤訳等の修正箇所(表現上の修正は除く。[]内は修正が最初に適用されるバージョン)
・31頁6行目 「ここで前向きエンジニアリングに基づく動作について考えてみよう」→「ここで前向きエンジニアを実践してみよう。たとえば」[2刷]
※「let us engage in an act of prospective engineering」が、なぜかもとの訳のような意味不明な文になっていました。原文を普通に読めばそうでないことはすぐにわかるのですが、読むのではなく訳しにかかると、ときにこういうけったいな間違いを犯しやすいのですね。
・53頁15行目 「学習による変化」→「学習による差異」[2刷]
※原文は「variability(変動性、ばらつき)」であり、「変化」より「差異」のほうがよさそうなので。
・98頁7行目 「成功実績のある行動の価値を他の行動に比べて低く評価する」→「成功実績がある行動であってもその価値を他の行動に比べて低く評価する」「2刷」
※もとの表現だと、著者もしくは訳者がケアレスミスしたかのような印象を与えるので修正しました。原文では「devalue」という動詞が使われていますが、このあたりは抑制に関する説明がなされているのでケアレスミスではないはずです。
・133頁1行目 「それらの研究では、〜リスク特性が用いられている」→「リスク特性は、褒美が得られる可能性と比較して褒美の価値を評価するにあたっての、種ごとのあり方を特徴づける」[2刷]
※もとの訳は、「…risk profiles that characterize the way that different species weigh reward value in comparison with reward probability」という原文とはやや異なるので。
◆訳者あとがき
本書はThe Evolution of Agency: Behavioral Organization from Lizards to Humans(The MIT Press, 2022)の全訳である。著者のマイケル・トマセロは著名な認知科学者で、デューク大学教授、およびマックスプランク進化人類学研究所の名誉理事を務めている。既存の邦訳は、『進化・文化と発達心理学』(丸善出版)、『道徳の自然誌』『思考の自然誌』『コミュニケーションの起源を探る』『ヒトはなぜ協力するのか』(以上、勁草書房)など多数ある。
まず各章の概要を、引用を交えて紹介しておこう。
●「第1章 はじめに」
本書全体の概要が説明される。それにあたり、まず本書の主たるテーマである「行為主体(性)」の定義がなされる。次のようにある。「行為主体的存在は行為主体的な物質や実体ではなく、特殊なタイプの行動組織によって非行為主体的存在から区別されると言えるだろう。その行動組織とは、フィードバック制御組織のことであり、個体はこの組織のもとで、情報に基づく意思決定や、自己の行動の監視によって、行動プロセスをコントロールし、さらに自己調節することで、特定の{目標/ゴール}に向けて自己の行動――その多くは生物学的に進化したものだ――を導いていく(9頁)」。本書では、このように定義された行為主体を、進化の順序に従って目標指向的行為主体、意図的行為主体、合理的行為主体、社会規範的行為主体の四タイプに分類し、第3章から第6章にかけて各行為主体について個別的に説明している。
●「第2章 行為主体のフィードバック制御モデル」
第1章にあるように、行為主体の行動組織はフィードバック機構をなす。第2章では、その意味を明確にするために、生物ではなく機械が実装する人為的なフィードバック機構(サーモスタットなど)のメカニズムが紹介される。そしてフィードバック機構の主たる構成について次のように述べる。フィードバック制御モデルは「階層構造をなすいくつかのシステムから構成され、それぞれのシステムは三つの中心的なコンポーネントから成っている。三つのコンポーネントとは、(1)基準値、あるいは目標、(2)感知装置、あるいは知覚、(3)行動に関する決定を下し実行するための、知覚と目標の比較装置である(37頁)」。機械が実装するフィードバック機構が持つ以上の特徴は、第3章から第6章にかけて説明される、生物の行為主体においても重要な役割を果たす。
●「第3章 目標指向的行為主体――太古の脊椎動物」
本章では、四つの行為主体のうち最初に進化した目標指向的行為主体について論じられている。目標指向的行為主体は、刺激に対してランダムに行動し行為主体とは言えない「非行為主体的アクター」とは異なり、グローバル抑制によって、一連の行動を対象に目標と状況に応じて実行か中止かの意思決定を下すことができる。なおグローバル抑制とは単純な停止メカニズムを指し、「間違った行動の実行に何もしない場合より大きなコストがかかりうるケースでなされる、実行か中止かの決定に関連する(58頁)」。さらに目標指向的行為主体の大きな特徴として、その名称どおり、何らかの目標を追求することがあげられる。したがって目標指向的行為主体は、「知覚された環境の諸側面のうち、自己の目標や行動に関連するものに注意を向けなければならない(62頁)」。さらには「注意を介して得られた情報をもとに意思決定を下すことで、特定の目標に向けて柔軟に行動し、自己の行動を適宜コントロールする(64頁)」
●「第4章 意図的行為主体――太古の哺乳類」
本章では意図的行為主体(哺乳類)が取り上げられる。意図的行為主体が進化すると、目標指向的行為主体と比べて、より複雑な行動のコントロールが可能になる。意図的行為主体は、「ただ柔軟というだけでなく意図的に自己の行動を目標に向けて導く。つまり実際に行動を起こす前に、目標達成に向けて取ることのできる、いくつかの可能な行動を認知的にシミュレートするのだ。また実行か中止かの決定を下すだけでなく、あれかこれかの行動選択を行なうことで自己の行動をコントロールする。つまりいくつかの可能な行動計画によってもたらされる結果を評価し、次に自己の行動を、実行中に認知的に監視しコントロールするのである(73〜4頁)」。したがって目標指向的行為主体が知覚と行動から成る操作層しか持たなかったのに対し、意図的行為主体は、意思決定と認知制御から成る実行層を持つようになった。太古の哺乳類において実行層が新たに出現したのは、哺乳類が社会集団を形成して暮らすようになったため、「食物や他の資源をめぐって集団の仲間との競争が激化することで生じた複雑性にも対処しなければならなかった(75〜6頁)」からだ。こうして哺乳類は、「知覚と行動から成る操作層に基づいて活動するだけでなく、その操作層が意思決定と認知制御から成る実行層の監督を受ける(85頁)」ようになった。
●「第5章 合理的行為主体――太古の類人猿」
本章では合理的行為主体(類人猿)が取り上げられる。まず類人猿が合理的であるとはいかなる意味なのかが明確化される。次のようにある。「私はただ単に「目標を知的に追求する」という意味で類人猿を「合理的」と呼ぶのではない。あらゆる哺乳類がそうしているのだから。類人猿は{論理的かつ反省的/傍点}に活動するがゆえにそう呼ぶのである(114頁)」。そのために大型類人猿は、著者が反省層と呼ぶ二次的な実行層を備え、それを用いて「行動実行に関する一次的な意思決定や認知制御それ自体を認知的に監視し評価する(115頁)」。また大型類人猿が持つ因果関係や意図を理解する認知スキルは、「外界の事象や行動のみならず、それら(ならびにそれら相互のあいだの論理的な関係)を引き起こした原因にまで行為主体的な行動を拡大する(119頁)」。また「それを、望みの結果を生み出すために操作することも(119頁)」でき、「特定の状況のもとでは、自己の行動とは完全に独立して生じる因果的な力を理解することもできる(121頁)」。さらには物理的事象のみならず、「他個体の知覚の対象を能動的に操作して、その個体の行動に影響を及ぼそうとすることもある(127頁)」。最後に著者は、それらの能力の「進化的起源や個体発生的な起源を、人間独自の形態の文化や意図的な指示や言語に求めることはできないという、明白ながら意義深い結論を引き出すことができる(152頁)」と主張する。この結論は、あとで述べる人間中心主義からの脱却に資する提言だと言える。
●「第6章 社会規範的行為主体――太古の人類」
第6章では社会規範的行為主体たる人類が取り上げられる。まず社会規範的行為主体がいかなる行為主体なのかが次のように説明される。「社会的に構成された新たな形態の自己調節――規範的な自己調節――が作用し、各個人は、個体として自己の行動を管理コントロールすることだけでなく、自らが属する共有された行為主体の規範に沿って行動することを強いられる(154頁)」。そのような行為主体性の進化を促したのは、初期人類において協働による狩猟採集を行なう必要が生じたからだ。つまり協働を行なう際には、共同目標を立てて追及する必要があり、そのためには「各人は、それに関連する障害や好機に、逐次共同で注意を向ける必要(160頁)」が生じたのである。しかし集団の規模が大きくなるにつれ、個人を束ねるためのより強力な手段が必要になる。それは文化的な手段であり、それによって次のような能力が進化し始める。初期人類が「十全に文化的な存在に進化すると、現生人類は事物に対する個人的な視点のみならず、いかなる個人の視点からも独立した客観的状況に照らして世界を知覚し、理解するようになった。そしてさらに、互いに対する責任という視点だけからではなく、集団の全メンバーによって同意された集合的な規範的基準を遵守する義務という視点から、集団の仲間を理解するようになったのだ。こうして現生人類は、客観的かつ規範的な世界に住まうようになったのである(191頁)」。
●「第7章 行動組織としての行為主体」
本書のまとめ的な章であり、よって詳細な説明はしない。
次に簡単に本書の長所と短所について個人的な見解を述べておく。まず短所から。概要で説明した議論はかなり抽象的だが、それを裏づける証拠は、ほぼすべて動物や人間の子どもの行動の研究から得られており、脳科学などのよりミクロの単位での研究には、前頭前皮質の役割などといったアバウトな指摘を除けばほとんど言及されていない。よって「ミクロのレベルにもっと深く掘り下げて欲しかった」という印象を受ける読者もいるかもしれない。これは、本書が本文135頁(原書)程度の小著であることと、著者が基本的に脳科学者や生理学者ではなく認知科学者であることに起因していると思われる。いずれにせよその種の記述を含めていれば、もっと大きな本になり、焦点が不明瞭になっていた可能性があろう。
次に長所だが、本書には、人類学、認知科学、哲学、心理学、社会学などのさまざまな人文科学、さらには自然科学の成果を進化の観点から見直すのに役立つという利点がある。つまり人間が持つさまざまな機能や能力が進化のどの段階で生じたのかを見直すことができる。そしてそのような視点を持てば、人間中心主義的な見方にそう簡単には絡み取られなくなるはずだ。
ここで人類学と認知科学から具体例をあげてみよう。まずは人類学から。奥野克己著『はじめての人類学』(講談社現代新書)に、人類学者クロード・レヴィ=ストロースの主著『野生の思考』に関する次のような記述がある。「「野生の思考」とは、非合理的で非論理的だと思われてきた「未開人」の遅れた思考法ではありません。「科学的思考」と同じように合理的であり、人類にとっても普遍的な思考法のことなのです(同書113頁)」。本書『行為主体性の進化』によれば、そのような合理的で論理的な思考法は、すでに合理的行為主体たる大型類人猿が備えていた、つまり進化的に言えば「未開人」どころかすでに類人猿が備えていたことがわかる(ただしその場合、「思考」という表現が適切か否かは問題になるかもしれないが)。実のところレヴィ=ストロースは、一つには、欧米の一般人や学者までもが「遠く離れた辺境の地に住む人たちを、長い間「文明から取り残されている人」として「野蛮人」や「未開人」呼ばわりして(同書76頁)」きたことに対する批判として、「野生の思考」などの概念を提起したとのことだが、まさにトマセロの進化的な視点はレヴィ=ストロースのこの姿勢をさらに確固たるものにすると言えよう。もちろんレヴィ=ストロースは「構造」を重視した人類学者なので、時間軸に沿ったダイナミクスの観点から諸事象を見る進化科学とはそりが合わないのかもしれないが、だからこそ「静態的な構造」に関する説明を「動態的な進化」に関する説明で補完するべきだとも言えよう。
次は認知科学から。ここでは認知科学者のヒューゴ・メルシエとダン・スペルベルの共著The Enigma of Reason (Harvard, 2017)を取り上げる。現時点では邦訳がないようだが、理性に関する非常に重要な議論が展開されているので英語が得意な人にはお勧めする。なお、この本の主題は「合理的思考は直観的推論の一形態である(同書90頁)」というものだが、話が錯綜するので、それについては触れない。二人は同書で、理性に関して次のように述べている。「われわれの考えでは、理性は、個人的な思考ではなく社会的な相互作用のもとで遭遇する問題に対する反応として進化したのである。理性は二つの主たる機能を満たす。一つは、協働に関する主要な問題を、行為の正当化を通じて解決すること、もう一つはコミュニケーションで生じた主要な問題を、議論によって解決することである(同書182〜3頁)」。トマセロに従えば、これはまさに社会規範的行為主体たる人類が初めて獲得した能力であることがわかる。しかし同時に、この能力の基盤となる操作層、実行層、反省層は、合理的行為主体たる類人猿が登場する頃にはすでに出揃っていたこともわかる。そしてそのような理解が得られれば、人間中心主義の陥穽に安易に陥ることはなくなるだろう。ちなみにメルシエとスペルベルは進化心理学に基づいて立論しているので、もとより進化は彼らの視点に組み込まれている。とはいえ、理性なら理性がいかなるメカニズムの登場を経て進化してきたかという、経緯に関する説明がなされているわけではない。その点で、トマセロの見立ては二人の見方を補完しわかりやすくすると言える。
以上のように、本書には他の人文科学や自然科学の成果を、より見通しやすくする効用があるという印象を個人的に持った。その意味でも、細かな点に深入りせず、分量が抑えられているのは逆に長所と見なすことができるかもしれない。決して簡単な本ではないが、見返りは多いはずである。
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