◎松島斉著『サステナビリティの経済哲学』(岩波新書)
サステナビリティだとかSDGsだとかいった概念は、ネットではあまり評判がよろしくないように見える。これはゆえなしとはしないように思える。というのも、サステナビリティやSDGsに関していの一番に取り上げられるテーマは気候変動問題だろうが、それをめぐる対策と称して行なわれていることがどうみても歪んでいるとしか思えないから。日本各地で促進されているメガソーラーの設置のことね。ネット上には、山の樹木が切り倒されて、黒々としたソーラーパネルがズラリと並んでいる光景が写し出された画像や動画が大量に出回っている。国立公園の阿蘇や釧路湿原がとんでもない状況になっていることは、それらの画像や動画を見ればすぐにわかる。そのような施策がサステナビリティやSDGsに資するとはとても思えない。だからネットの反応は、至極当然と言える。何度か書いたことがあるけど、急峻な山が少ないドイツなどの国では、山奥の樹木を切り倒さずともソーラーパネルが設置できる土地があることは、鉄道動画を観てどのような場所にソーラーパネルが設置されているかを確かめてみればすぐにわかる。ところが日本の鉄道動画を観ていても、ほとんどソーラーパネルを見かけることがない。なぜか? なぜなら、鉄道路線から見える範囲の土地は、住宅や田んぼや畑などですでに利用されており、メガソーラーを設置する余地などまったくないからなのよね。つまり日本のメガソーラーのほとんどは、列車の車窓からは見えないような山奥に、大量の樹木を伐採して設置されているわけ。木はいったん切り倒せば、植え直しても数十年はもとには戻らない。これがいったいサステナビリティとどう関係するのかを疑問に思わないほうがおかしい。その意味では、少なくともメガソーラーの問題に限っては、ネット民のほうがよほどしっかりとサステナビリティを考慮していると言える。世の中には、サステナビリティというお題目を掲げながら裏では利権をむさぼっているような偽善者が大勢いることに、ネット民は気づいている。ネット民は、大手メディアが吹聴しているようなバカではないのですね。そのような嘘くささが、サステナビリティやSDGsには漂っているからこそ、本来あるべきサステナビリティやSDGsとはいったいいかなるものかが周知される必要があると個人的には考えている。未来を少しでも考えるのなら、サステナビリティやSDGsは避けて通れない問題なので、偽善がまかり通っているような現状は変える必要がある。
と、個人的な見解を開陳したうえで、新書本の内容に移りましょう。「はじめに」にまず次のようにある。「経済成長を今ストップさせると、環境問題などの一部は改善されるかもしれない。しかし、社会的、国際的な混乱を一層深刻化させることも考えられる。例えば、発展途上国において、貧困問題の解決や基本的な社会サービスの提供を困難にするだろう。したがって、経済成長をある程度支持しつつも、その成長が環境に与える影響を最小限に抑え、全ての人に公平な恩恵が及ぶように、きめ細かく配慮することが求められる。つまり、経済、環境、社会を三位一体として総合的に考えて、現代の問題を解決しながら、未来世代に上手にバトンタッチしていくことが、我々みんなに求められるのである。このアプローチこそが、サステナビリティ、つまり持続可能性の真髄である(@〜@@頁)」。実はこの冒頭の文章を読んでこの新書本を買うことにしたのよね。というのも、「左向きの岩波さんの本だから、もしかしてゴリゴリの環境原理主義者が書いた本だったらすぐに捨てる破目になる」と警戒していたから。しかし、この文章を読んでバランスの良さを感じたので買ったというわけ。さらに次のようにある。「サステナビリティは、経済学だけでなく、資本主義、民主主義、国際秩序といった広範な社会システムの在り方も再評価し、新しいシステムの構築を目指す。それは、短期的利益追求の枠組みを超えて、長期的、環境的、社会的、経済的健全性を重視する新しいシステムの構想だ。そのためには、経済学に対して、これまでのような単一の方法論や視点だけに依存するのではなく、多様な方法論を開拓し取り入れることが求められる。これには、異なる学問領域との対話や、様々なステークホルダー(政策立案者、民間企業、市民社会など)との協働が必要だ(D頁)」。
『経済学の思考軸』を取り上げたときに、「個別思考」の問題について次のように述べた。「個別思考にとらわれている人(以下「個別思考者」と表記する)は、他の要因(分野)の存在を知ってもいるし、ある程度それらの知識を持っているにもかかわらず、それらのあいだの複雑な関係を捨象して、一時には一つの要因(分野)にしか着目せず、その範囲内で最終的な結論を下してから、次の要因(分野)に対処しようとする。要するに、シーケンシャルにしか処理できないわけ。もちろん、総合的な判断を下すには、まずそれぞれの要因(分野)ごとに内容を詳細に検討する必要があるのは確かだけど、個別思考者は、各要因(分野)ごとに最終的な結論を下して、それらすべてを総合的に判断するという最後のもっとも重要なプロセスを省略する、というかそのような総合的判断を下す能力を持っていないか曇らされている」。サステナビリティについて考える際には、この「個別思考」に陥ってはならないことが、以上の引用を読めばわかるように、『サステナビリティの経済哲学』の「はじめに」で明記されている。これは当然なのですね。なぜなら「サステナビリティ」とは現実社会の存続に関する問題であり、よってそこには現実世界で生じるさまざまな事象が複雑に絡み合っているから。
前置きはそのくらいにして「第1章 大義の経済学」に参りましょう。最初に、章題にある「大義」という言葉の意味が次のように定義されている。「ここでいう大義とは、個人の自由や功利を超えた、倫理的、社会的、哲学的な目的のことである。一般にはこの用語を高潔な目標を指すことに使用する。しかし本書では広く解釈して、任意の向社会的な行動を正当化する倫理的な根拠として使うことにする。つまり、ガンジーのような偉人になるということではない。節電や節水を日々実行することも、地域の食品不足に悩む人々を支援することも、立派な大義になる(3〜4頁)」。まあ著者がそう定義するということなので特にそれに関して異論があるわけではない。しかし次に、「本書は、世界市民が意識的に、利己心を超えた大義を見出し、それを実行することによって、現代において最も重要とされる社会問題を解決していくことを考える(4頁)」とあり、実はこの「世界市民」という言葉が本書に頻繁に出て来る。にもかかわらず。この「世界市民」が具体的に何を指すのかがまったく定義されていなかった。アマコメにも「「世界市民」って誰?」とあるけど、そう言いたくなるのも無理はない。気になったのは、これが「世界政府」などといった概念と同系統の意味を持つのかどうかという点。あとで述べるけど、実は著者は私めと同じように「世界政府」という概念の正当性を否定している。したがって、「世界政府」などといったトップダウン的な組織が支配する世界における住民という意味で「世界市民」という言葉を使っているわけではないことは確か。この点はサステナビリティを考える際に重要なポイントになると個人的には思っているので、まずその点を確認しておく。たぶん著者は、世界レベルでものごとを考える分散的、ボトムアップ的な市民という意味で「世界市民」という用語を使っているのではないかと思われる。
それから「SDGs」とは何かが次のように説明されている。「2015年に国連(国際連合)において採択されたSDGs(持続可能な開発目標)は、全世界市民に向けて、サステナビリティのための目標をわかりやすく詳細かつ広範に示した、サステナビリティの実践のためのガイドラインである。SDGsは、環境、経済、社会の持続可能性に関する幅広い課題をカバーし、貧困と飢餓の撲滅、食の安全、健康の向上、良質な教育の提供、ジェンダー平等の達成、クリーンエネルギーへのアクセス、持続可能な都市の構築、清潔な水と衛生の利用可能性、気候変動への対策など、17の目標を示している。これらの目標は、さらに具体的な169のターゲットに細分化されている。それらは、先進国、発展途上国を問わず、全ての国々が取り組むべき普遍的な目標であり、経済、社会、環境という三つの側面の持続可能性を統合的に捉えている。(…)SDGsが多岐にわたる目標を設定しているのは、持続可能な発展が、単一の問題に対する個別的な解決ではなく、多様な課題を包括的に解決することによってのみ達成できると考えられるからだ。気候変動に集中することは重要だが、それだけでは全ての人々が直面する課題に対処することはできない。経済的、社会的公正を含めることによって、より平等で公平な社会を目指し、それが最終的には持続可能な環境の実現につながる(11〜3頁)」。「持続可能な発展が、単一の問題に対する個別的な解決ではなく、多様な課題を包括的に解決することによってのみ達成できる」というくだりに着目されたい。当然の話ではあるが、SDGsについて考えるときにも「個別思考」ではアカンということが明確に述べられている。
たとえば冒頭で言及した気候変動問題の解決においても、さまざまな観点を考慮しなければならない。個人的には、現時点では、暫定的な原発再稼働が気候問題の最適解だと考えているが、COP28(第28回国連気候変動枠組条約締約国会議)でも、2050年までに世界の原子力発電設備容量を、2020年比で3倍にするという目標が掲げられている(たとえばこれやこれを参照)。なおそれについては『〈私〉を取り戻す哲学』を取り上げたときにも言及したのでそちらも参照されたい。このCOPの提案はまさに、SDGsの主旨である、多岐にわたる目標を総合的に判断した結果だと考えられる。日本の大手メディアでは、この件を報道しているのだろうか? 日本の左派メディアは反原発に凝り固まっているようだから、彼らが好きな国連の下部組織の決定であるにもかかわらず、この件に関しても報道しない自由を行使しているのではないかな? そう言えば、誰だったか忘れたが左派系の議員だか自称知識人だかが「世界は反原発の方向に向かっている」とかツイしていたのを覚えている。この御仁はこの事実を知っていたのだろうかと思わざるを得ない。もちろん原発に反対するのは自由だとしても、大手メディアがその判断に必要な情報を流さないのは大きな問題だよね。そんな態度でSDGsを連呼したところで、お仲間以外誰も耳を傾けようとしないべさ。ネットでサステナビリティやSDGsの評判が悪いように思われる原因の一つも、このような大手メディアの態度に起因すると考えられる。著者の言う「世界市民」が正しい判断を下すようになるためには、まず、イデオロギーにとらわれた大手メディアのこのような態度が変わらなければならない。その点では、この新書本には、全編を通じてメディアの役割や問題について何も書かれていなかったのは残念に思った。
SDGsに関してもう一つ引用しておきましょう。次のようにある。「また、SDGsは多様性と包摂性を重視する。世界市民は様々な世界観をもち、時には対立することもある。また世界観は時間を通じて変化もする。SDGsは多様な世界観とその変化を認めつつ、市民に価値観の共有を促し、サステナビリティからの恩恵と、サステナビリティへの貢献参加において「誰一人取り残さない」ことを求める(15頁)」。多様性が強調され包摂性が謳われても普遍性という言葉は使われていないことに注意されたい。これは、SDGsが世界政府などといった普遍的な概念と無縁であることを示しているようにも思え、その点で賛同できる。ただ「サステナビリティへの貢献参加において「誰一人取り残さない」」というくだりは、実践不可能な理想のような印象を受けざるを得ない。実はこの考えが著者の議論の前提となっているがゆえに、「第4章 新しい社会主義」に書かれている著者の提案が、と〜しろ〜の私めには無理筋、というか非現実的な議論に思えた。いずれにせよ、それについてはあとで述べる。
次にこの手の議論を読むと、必ずと言っていいほど目にするエリノア・オストロムの8つの原則が紹介される。これらの原則は24頁に表にしてまとめられているが、ここでは、それには「1 明確な境界」「2 管理の適応性」「3 利用者の参加」「4 監視」「5 段階的な制裁」「6 紛争解決」「7 最小限度の認識権」「8 複数層の統治組織」があるとだけ述べて、その内容には立ち入らない。ここでアカラサマ、もといステマをしておくと、進化生物学者のD・S・ウィルソンはわが訳書『社会はどう進化するのか』で、このオストロムの8つの原則を進化論的な観点から論じているので、興味がある人はそちらも買ってね。オストロムの業績全般について次のように書かれている。「ノーベル経済学賞を受賞した政治学者エリノア・オストロムは、アルプス地方の牧草地や日本の棚田の共同利用など、地域コミュニティが持つ牧草地、森林、漁場といった、小中規模のコモンズについての豊富な事例を調査した。その結果、多くのコミュニティにおいてコモンズの悲劇が起きていないことを発見した。重要な点は、政府によるトップダウンではなく、主要な利害関係者(ステークホルダー)であるコミュニティ自身によってコモンズが効果的に管理されているということである(23頁)」。地域コミュニティとはまさに私めが言う「中間粒度」に属する社会的枠組みであり、そこを基盤に世界や人間社会を捉えることを意味する。だから必然的に分散的になり、「トップダウンではなく」というくだりは、彼女の見方からすれば当然の帰結になる。SDGsを考慮する際にも、基盤をそこに据える必要がある。この点は非常に重要だと思う。そのことは、8つの原則に関する次のような記述にも見て取ることができる。「オストロムの原則は、コモンズの持続可能な管理のための一般的なガイドラインになると期待される。これらの原則のもとで、ステークホルダーが問題解決に深く関与しやすい社会的環境が保証される。地域やステークホルダーによる状況依存型の解決が促進され、サステナブルな管理の質を高めることができる。¶オストロムは、これらの原則が成り立つ状況においては、コミュニティが本来備わっている問題解決能力を発揮し、コモンズの持続的管理システムを「自己組織化」できると考えた。コミュニティのメンバーは、外部にはわからないコミュニティの特性やニーズや文化的背景などの詳細情報を共有している。その情報を問題解決に柔軟な仕方で利用することができる。自己組織化とは、このような詳細情報を問題解決に利用するためのルールや規範を、コミュニティが自ら設定し、それに従って行動する能力のことである。オストロムの原則は、共有資源の管理が単一の解決方法に依存するものではなく、地域の状況やニーズに適応した多様なアプローチを必要とすることを踏まえている(26頁)」。
このようなオストロムの見方は、非常に納得できるものではあれ、気候変動などといった話になると、コモンズはコモンズでもグローバルコモンズが対象になるわけであって、そこにこの考えをそのまま持ち込むわけにはいかない。その点が「9 グローバルコモンズ」で論じられている。次のようにある。「特に、サステナビリティの中軸をなす気候変動問題は地球規模の課題であり、オストロムが扱ったような地域的なコモンズとは次元が異なる。気候変動の原因となるCO2の排出を抑制しないと、温暖化に歯止めが利かなくなり、気候変動による深刻な被害が世界中で多発する。気候変動問題においては、世界市民全員が大気の利用者であり、直接的なステークホルダーになる。そのため、CO2排出の削減を個々の地域コミュニティの判断だけに委ねると、コミュニティ間でグローバルなフリーライダー問題が発生することになる(36頁)」。また次のようにある。「気候変動問題のように、地球全体がコモンズの当事者になるケースを「グローバルコモンズ」と呼ぶ。気候変動に限らず、サステナビリティの目標に関連する問題は多かれ少なかれ、グローバルコモンズの要素をもっている。グローバルコモンズは大規模で複雑であり、様々な国家や関係者間で利益の相違がある。コミュニティの自己組織化能力を重要なピースとするも、環境税の徴収などの国家的な強制力も利用しつつ、国際的な利害の対立を超えて、世界全体が協働する国際システムをいかに構築すればいいか。これは通常のコモンズの管理よりも格段に困難な課題になる(37頁)」。
ここで「世界全体が協働する国際システム」とあるが、これは世界政府のようなトップダウン的な組織を意味するわけではない。そのことは次の記述からもはっきりとわかる。「国際社会を取りまとめる強制力のある世界政府は存在していない。今後そのような世界政府の樹立を求めることは、深刻な政治的リスクを伴うので期待するべきではない。また、世界市民の間で価値観、世界観が異なることを許容しなければならない。世界市民の間に共有する価値観は非常に限られている。最低限の国際秩序と、国連のような権威付けられているが権力のない国際機関を、最大限に平和的に活用する方法が模索されねばならない(41頁)」。世界政府のようなトップダウンの組織と、国連のようなボトムアアップの連邦的組織は区別する必要がある。あとで取り上げるけど、この新書本のアマページにも、その点をまったく理解していない的はずれなコメントが入っている。オストロムの8つの原則を活かすには、基本的にトップダウンの組織構成ではなく、ボトムアップの分散・分権的組織構成をまず取り、それらもろもろの分散・分権的な組織を束ねるような機関が必要とされる。その機関の代表例が国連だと言えるでしょう。ただし現状の国連がその機能をうまく果たせているか否かは別の話になる。いずれにせよ、著者の基本的な考え方からしても、世界政府のような全体的な権力機関は不要どころか有害なものでしかないことは容易に理解できるし、個人的にもその見方は正しいと思う。
著者は「新しい資本主義」と「新しい社会主義」という「サステナビリティのための二つのシステム構想(39頁)」をそれぞれ第3章と第4章で提案しているけど、それに関して前振り的に次のように述べている。「新しい資本主義も新しい社会主義もともに、分権的決定メカニズムを通じてサステナビリティを実現させるシステム構想になる。中央集権的な計画や過度の政府の介入はサステナビリティに適さないため、あくまでも分権的決定にこだわる。ボトムアップあるいはフラットな意思決定プロセスを中心とし、不必要なトップダウンを排除することによって、主権が尊重され、創造的な活動が促進される(42頁)」。著者のこの基本的見方には同意できるものの、とりわけ第4章で提案されている「新しい社会主義」構想には無理があるような印象を受けた。それについてはあとで述べる。このような見方を取る著者は、左派には嫌われやすい新自由主義者のハイエクを一定程度評価している。次のようにある。「ノーベル賞を受賞した経済学者フリードリッヒ・ハイエクは、第二次世界大戦後まもなく、資本主義陣営における分権的な市場メカニズムが、社会主義陣営における中央集権的な計画経済と比較して本質的に優れていることを指摘した(42〜3頁)」。また、「ハイエクは、中央集権的な計画経済ではまず不可能な、経済主体による自発的なイノベーションの創発も強く推奨している。本書の構想とハイエクの思想はよく似ている(43頁)」とある。ここで「創発」という複雑系の概念が用いられている点に留意されたい。というのも、「創発」とは何らかの高次の事象がボトムアップに創出されることを意味するから。オストロムの「自己組織化」の概念もそれに近いのかもしれない。
しかしハイエクが生きていた頃には「サステナビリティ」などという概念は存在していなかったので、ハイエクの考えは「サステナビリティ」を考慮に入れて修正される必要があると新書本の著者は述べる。次のようにある。「ハイエクは市場の自由を最優先と考え、政府の役割を最小限に抑えることを強く主張している。しかし、これは今では時代にそぐわない考え方になる。本書のように、市場の力と並行して、政府や国際機関の役割も認識し、広範な社会的、環境的目標達成に向けた協力を重視するように修正されるならば、ハイエクの思想はサステナビリティの時代にも鮮烈な活力を取り戻すことができる(44頁)」。ちなみに同じ市場主義者でも人間を合理的な存在と見なすミルトン・フリードマンらとは異なり、ハイエクは人間が非合理的な存在だからこそ見えざる手として合理性を担保する市場が必要だと考えていたという話がある。つまりハイエクは、人間の非合理的な行動を埋め合わせるためのメカニズムとして市場を考えていたことになるわかだが、それを可能にするメカニズムは市場に限られると見なす必然性はないようにも思える。ハイエクの考えにはそこに改善の余地があり、その意味でも著者の提案が的はずれであるとは思えない。
次は「第2章 ドグマをあばく」だけど、正直なところ「オークション」「VCGメカニズム」「マッチング理論」「トリアージ」などのさまざまな概念が次々に取り上げられているこの章は、内容がイマイチよくわからなかったこともあってまるっとスキップする。
「第3章 新しい資本主義」では第1章で前振り的に言及されていた「新しい資本主義」という、サステナビリティを実現させるためのシステム構想が詳しく説明されている。その内容はむしろ「第4章 新しい社会主義」の冒頭に要約されているのでそれを引用することにする。次のようにある。「サステナビリティのためには、個人や企業が倫理的な動機を持つことによってその大義を実現することが大切である。新しい資本主義は、このような倫理的な経済主体が市場を通じてサステナビリティのための社会的責任を果たすことができる社会システムの構想になる。個人や企業が意識的にSDGsに取り組むことが、このシステム構想の新規性を象徴する点だ。それに加えて様々なステークホルダーが関与し、補完的な役割を果たすことにより、より幅広い影響を生み出すことができる。政府と民間のパートナーシップ、公衆の意識を高める市民社会団体やNGO、技術革新を推進する大学や研究機関、消費者や投資家のボイコット活動や積極的な発言、学校やオンラインプラットホームが果たす教育と啓発などは、それぞれが異なる角度からサステナビリティの課題に取り組み、相互に補完し合うことで、より大きな効果を生むことになる(144頁)」。つまり資本主義的な市場を核として、さらにそこでステークホルダーが補完的な役割を果たすといったところが「新しい資本主義」ということらしい。
ところが著者は、サステナビリティを実現させるシステム構想としては「新しい社会主義」を本命と見なしているらしく、この「新しい資本主義」は次善の構想、少なくとも単独では欠陥のある構想だと考えている。次のようにある。「このような新しい資本主義が理想的に機能するならば、このシステムだけでサステナビリティの諸問題を全面的に解決できるかもしれない。しかし、民間が倫理的行動を持続し、政府が適切にそれを支援し、市場の力がサステナビリティを完全に実現させてくれると都合よく考えるのは、あまりに楽観的すぎる。民間の倫理的動機は依然として壊れやすく、政府の社会的責任の及ぶ範囲も依然として限定的である。したがって、資本主義的な市場を使ってサステナビリティを実現させるとするこの構想だけでは不十分である。¶確かにこれらの取り組みは地域や国レベルでの効果をもたらすかもしれない。しかし地球規模の問題に真に対処するためには、より広範な協力と調整が必要になる。そのためには、市場以外の別のシステムの構想も併せて考えていかなければならない(144〜5頁)」。要するにオストロムの8つの原則をグローバルコモンズにも拡大適用するためには、サステナビリティに関してスケーラビリティを欠く市場のメカニズムだけでは不十分で、まさにそのスケーラビリティを付加してくれる何らかの別の仕組みが必要とされていると言い換えることができる。そこで著者が提案するのが「新しい社会主義」というシステム構想なんだけど、この肝心のシステム構想が現実的には無理がありすぎるように思えた。
その点に関して、まず著者の見解を見てみましょうね。次のようにある。「この章[「第4章 新しい社会主義」]において、サステナビリティのより徹底した実現のために必要となる新しい国際システム構想として、「新しい社会主義」を提案する。新しい社会主義は、国内の問題解決ではなく、グローバルな問題解決のためのシステムとして、国際秩序を発展させ維持しながら、強制力や報復制裁を極力利用しないで、国際協力を各国から自主的に引き出すことができるように、国際交渉手続きの新しい方法を開発していくものになる(146頁)」。「資本主義」との対語として「社会主義」という言葉を用いているのはわかるとしても、この定義であれば、既存のいろいろな意味が染みついた「社会主義」という用語を使う必然性もないようにも感じる。ただ次の指摘には100パーセント同意する。「将来世代の福祉は、現在の政治的決定から強い影響を受ける。その最たる例が気候変動リスクであり、またSDGsの目標の多くもこのことに深く関係する。そのため、現存する自国民は自身の子孫の福祉について責任があるが、この認識が不十分である場合、政府はこれを超えてさらに高いレベルの責任を果たすことも求められよう(147頁)」。よく左派メディアはトランプの自国第一主義をこれでもかと批判している。だが、トランプの問題は自国第一主義を唱えていることにあるのではない。中間粒度を安定させるためには、むしろ自国第一主義を取る必要があるのは当たり前田のクラッカーだからね。中間粒度が崩壊して、自国まで大量の難民や移民の排出国になったのではどうしようもない。彼の問題はそこにあるのではなく、ここで著者が指摘していることを彼が一ミリも理解していない点にある。つまり彼は、未来の自国の安寧と繁栄を確保したいのなら、一度自国の枠を超えて、国際的な事象に対処する必要があるということを理解すべきなのですね。
また世界政府のようなトップダウンの組織ではなく、国連のようなボトムアップの連邦的組織に依拠して著者の言う「新しい社会主義」を実現すべきとする次のような見解にも100パーセント同意する。「世界政府は、異なる国家や文化を超越して地球全体を統治する政治組織を指す。確かに世界政府は、戦争の終結、永続的な平和、グローバルな課題への効果的な対応などを実現する理想的な理念として、アルベルト・アインシュタインのような一部の有識者から提唱されることがあった。しかしそれは現実的な理念ではない。主権の喪失、文化的多様性の脅威、中央集権化による権力の乱用など、多くの災いを引き起こしかねないからだ。¶そのため、国連のような、世界中の国が参加する国際機関が、権力ではなく道徳的権威を持つようにして、国際秩序を発展させ維持していく方向性が重要になる。権力的な世界政府ではなく、国連のような国際機関が、知識、専門性、道徳的品位に基づいて、世界市民に自発的に従うように権威付けられることが、現実的な理想とされる(149〜50頁)」。オストロムの8つの原則にスケーラビリティを付与して、グローバルコモンズに適用するには、ボトムアップのアプローチを取らざるを得ないことは容易に推測できる。
ただ言うは易し行なうは難しで、問題は具体的なインプリメンテーション(実装)にある。著者は「7 新たな提案:新しい社会主義」で気候変動問題を取り上げて次のように述べている。「COPは各世界市民に、自分自身が支払いを約束できる炭素税の上限を表明させる。つまり、COPと世界市民の一人一人が、直接的にコミュニケーションできる環境にある。各国政府は炭素税を自国民から徴収するとともに、COPと市民の便宜を図る仲介役を務める。(…)各国政府はCOPに対して、自国民の表明内容をまとめた自国民の一律の炭素税の上限を表明するのではなく、自国民から個別に炭素税の上限を聞き出して、国民一人一人の炭素税の上限のリストを表明する。COPは各国の国民に対して一律の炭素税の約束を課すのではなく、世界市民ごとに異なる個別的な炭素税を設定して、それを約束させるとする(175頁)」。確かにこの節の冒頭に「仮想的な状況」と前置きされているとはいえ、私めにはあまりにも非現実的な議論にしか思えない。「COPは各世界市民に、自分自身が支払いを約束できる炭素税の上限を表明させる」って、そんなことが可能であるとはとても思えない。まるで所得税の確定申告みたいに響くが、と〜しろ〜の個々の世界市民がどうやって炭素税の計算をするのだろうか? 炭素税を課すのなら、各消費財に対して、専門家が炭素排出量を見積もって税率を決めるしか方法はないような気がする。各人に、そんな見積もりができるはずはないと思うぞ。著者はおそらく、オストラムの8つの原則のうちの「3 利用者の参加:共有資源の管理に関わる全てのステークホルダーが、管理ルールの変更に参加し、合意形成に影響を与えることができる(24頁)」を、スケーラビリティを考慮せずにそのままグローバルコモンズに適用しようとして、このような提案に至ったのかもしれない。
オストロムの「利用者の参加」を著者が意識しているであろうことは、少しあとで述べられている次の記述からもわかる。「SDGsが掲げる「誰一人取り残さない」基本方針は、単に恩恵の平等だけでなく、参加へのインセンティブをも含意すると捉えられる。「誰一人取り残さない」方針は、南北対立を超えて、世界市民全員が積極的にCO2排出削減やサステナビリティの実現に参加する社会システムの設計を強く奨励するものである(189頁)」。「誰一人取り残さない」という言明それ自体がきわめて理想的に響く。それについては、現実世界では人の命がかかわる医療にさえ、トリアージュという言葉があることを思い出してみればよい。しかし著者は、それだけでなくそれを「恩恵の平等」だけでなく、個々人の不安定なモチベーションに大きく関わる「参加へのインセンティブ」にまで拡張しようとしている。オストロムの提起する原則「利用者の参加」は、それが小中規模の共同体になら適用できても、グローバルコモンズにそのまま適用することはきわめて困難なはず。つまりスケーラビリティが大きな問題にならざるを得ない。この点は前述のとおり著者自身が指摘している。だからこのスケーラビリティに関する問題に対する根本的な解決法を提示しない限り、著者の提案は現実世界には適用不可能な絵に描いた餅にならざるを得ない。残念ながら著者は、断言はしていても、少なくともこの新書本のなかではそのような解決法が提示されているとは思えない。ちなみに著者は、175頁の提言に関して「これは手間のかかる作業だろう。非現実的にも思われよう。しかし、情報ネットワークの進展を鑑みると、実現の余地は十分にあると考えていい(176頁)」と、自信満々に述べているけど、「ほんまでっかああああ?」と言いたくなる。まるで世界規模で直接民主制を実現しようと主張するのと同じ程度に非現実的に思える。そもそも炭素税の決定には、高度な専門的知識が必要とされるだろうから、オストラムの「利用者の参加」をそのままグローバルコモンズに適用することには、相当な無理があるように思える。
とはいえスケーラビリティを考慮してオストラムの8つの原則をグローバルコモンズに適用するにはどうすればよいかというインプリメンテーションの問題が解決できるのであれば、「社会主義」という言い方の妥当性は別として、次の著者の指摘には十分に納得できる。「新しい社会主義の理念は、中央集権的な、国家主義的な計画経済の着想の対極にある。新しい資本主義と新しい社会主義の共生は、分権的な市場メカニズムと、中央集権的な計画経済が共生する混合経済体制とは全く異なる。新しい社会主義は、世界政府のような中央集権的な統治や計画が機能しない状況における問題解決のための提案である。その仕組みはあくまで分権的な決定メカニズムである(190頁)」。
ところでこの新書本のアマページのコメの一つに、ここにある「新しい社会主義は、世界政府のような中央集権的な統治や計画が機能しない状況における問題解決のための提案である。その仕組みはあくまで分権的な決定メカニズムである」という記述と、前述した175頁にあるCOPの役割に関する記述が矛盾していると書かれている。だがこの評者は、著者が細心の注意を払って区別している、世界政府のようなトップダウンの組織と、COP(国連)のような連邦的なボトムアップの組織の相違がまるでわかっていないから、それが矛盾に思えてしまうんだべさと言わざるを得ない。この区別は本書を読むうえで(というか常識的にも)非常に重要なポイントになるので、この評者のような誤解をしないようにしましょうね。ただしこの評者の「期待して読んだ「新しい社会主義」の提案には、説得されませんでした」という感想は、私めも持った。ただその理由は、先に述べたように著者の提起する「新しい社会主義」という政策のインプリメーションに関する記述としては、著者の提案があまりにも非現実的だからなのですね。これについては別のアマコメ評者も、著者の「新しい社会主義」に関して「著者は自説に大変な自信をもっているようで、適切な解を提示したとご満悦なのだが、その理解は本書の記述だけでは困難だろう」と書いている。「ちょっと、ちょっと、いかにも大学の先生が考えそうなことでんな」と思われても仕方がない。
ということで著者は第4章を次のような言葉で締め括っている。「新しい社会主義は、(…)国際秩序、市場、国家、世界市民を有機的に結びつける対話の仕組みを構築するグローバルな設計制度である。新しい社会主義は、南北間の対立状態や、気候クラブのような階層的、集権的統治とは真逆である。ステレオタイプ化された社会主義の悪しきイメージとして定着している「国家主義的な計画経済」とも真逆である。そうではなく、新しい社会主義は相互に主権を尊重する多元的、分権的な統治を目指している。¶このアプローチは、階級闘争や共同所有といった概念を超え、より現実的で実行可能な方法で社会的公正と経済的平等を追求することを意図している。このような制度設計の提案は、国際社会が直面する複雑な課題に対して、新たな視角と解決策を提供するものである(190〜1頁)」。まあ左向きの岩波さんの本によく見られるように、非常に理念的な記述に思える。「より現実的で実行可能な方法で社会的公正と経済的平等を追求することを意図している」とあるけど、それがいかなる方法なのかは判然としない。もちろんそう言ったからといって、著者の基本的な見方が誤りだと言いたいのではない。その実践的な根拠が、少なくともこの新書本では不十分だと言いたいだけなのですね。いくつかアマコメ評をあげたけど(他にも同様の指摘をしているコメがいくつかある)、彼らの印象は私めも共有している。
最後の「第5章 社会的共通資本を超えて」では、宇沢弘文、ソースティン・ヴェブレン、カール・マルクス、アルフレッド・マーシャル、アダム・スミスらの見解が次々に紹介されている。読む人によっては、この最終章がいちばんおもしろいと思うのかもだけど、個別的になるのでここでは取り上げない。ということで、グローバルコモンズをめぐるサステナビリティの実現において、世界政府のようなトップダウンの権力組織ではなく、国連のようなボトムアップの連邦的組織が必要であると指摘している点、またオストロムの八つの原則を拡張して適用すべしと指摘している点は、大いに賛同できる。ただし後者に関して、その実践に伴われるスケーラビリティの問題をいかに解決できるのかに関して根拠を十分に示さないまま、自信満々に理念的な言説を展開している点は、この新書本の欠点として指摘せざるを得ない。アマコメ評者による指摘にも、みごとにそれが反映されているのだから。
※2024年9月20日