◎高木久史著『戦国日本の生態系』(講談社選書メチエ)
タイトルが気に入ってアマゾンのワンクリをクリックして買った。まず「序章 生存戦略、生態系、生業――越前国極西部」で、本書全体を貫く主題がまとめられている。この「序章」はとりわけ、『森林に何が起きているのか』を取り上げたときに、私めが映画『ジュラシック・パーク』に言及しつつ説明した見方とほぼ同じことが二点ほど書かれていて興味深かった。
一つは、@われわれが普段言うところの「自然」とは、純然たる{生/なま}の自然を意味するのではなく、人の手が加わった自然であるという点。もう一つは、A生態系には人間も内在的なアクターとして包摂されているという点。
『戦国日本の生態系』に即して、それについて改めて説明する前に、一点述べておきたいことがある。それは戦後長く日本の歴史学が階級闘争史観(下剋上史観)に支配されてきたという点がまず指摘されていること。次のようにある。「戦国日本、すなわちおおまかには一五世紀後半から一六世紀あたりの時代を題材にした著作、とくにエンターテインメント的な創作では、信長や秀吉といった英雄たちの伝説的な政治史・軍事史的イベントばかりが(しばしば過剰に脚色されて)語られがちだ。これに対して庶民は、英雄たちを主語とする物語の中で、往々にして、客体・受け身の存在として描かれる。(…)このようなイメージが成立したのは、二〇世紀の第3四半期ごろまでの研究の主流が、戦国時代を含む中世日本における庶民と行政権力との関係を階級闘争すなわち対立の構造で解釈し、財などを一方的に搾取・抑圧{される/傍点}(抑圧に立ち向かうこともある)人民と搾取し抑圧する支配者、との文脈で語ってきたことが影響しているのかもしれない(4〜5頁)」。
同様なことは呉座氏が『応仁の乱』(中公新書)で述べていたし、確か倉本氏だったか他の歴史家も述べていた。しかもその傾向が現在でもある程度続いているとあった。ちなみに二〇世紀の第3四半期を超えてもそのような傾向があったことは個人的な体験としても覚えている。それはピカピカの大学一年生だった私めが西洋史の講座を取ったとき、担当教授(ドイツ史が専門の望田幸男氏)が、最初の講義でいきなり「講座派」がどうしたとか「労農派」がどうしたとか話し始めたこと。当時の私めは最初それらが何を意味しているのかまったくわからなかったけど、やがて日本におけるマルクス主義者の対立する二つの学派であることがわかって、「何で西洋史の講義でいきなりそんなことを話すのだろうか?」と訝ったことを覚えている。当時は本書の著者や呉座氏が批判しているような事情もよく知らなかったし、あまり気にも留めていなかったけど、今となっては、その種の、イデオロギー的な結論を先に決めておいて、そこからそれに都合のよい事象をチェリーピッキングするような、いわばトップダウンの見方は、イデオロギーの拡散には都合がよくても、歴史としてはあかんと思っている。
ところで「歴史修正主義」というレッテルをやたらに貼りたがる御仁がいるけど、その種のもともとイデオロギー的に解釈された歴史が広くまかり通っていたのであれば、先にあった言説のほうが事実に基づかないイデオロギー的な、すなわち歴史修正主義的な空想の産物であることが多く、軌道を修正しないことにはどうにもならない。まさか歴史は、何であれ先に言ったもの勝ちではないだろうし。その種のレッテルを貼るのなら、少なくともまずその定義をしておくべきでしょうね。どんなレッテルもそうだけど、定義を予め提示しておかなければ、暗黙的な意味合い(コノテーション)を自在にスライドさせて自分に都合よく使えるしね。歴史家E・H・カーの「歴史とは現在と過去との絶え間ない対話である」という言葉を忘れないようにしましょう。
いずれにしても、メチエ本の著者も従来の歴史学のあり方に疑問を抱いているようで、その状態を軌道修正するために「生態系」という概念を導入して、トップダウンではなくボトムアップに、庶民の生活を出発点にして戦国時代の歴史像を描き上げていくという戦略を導入している。ちなみに「生態系」は、基本的には地域的に成立するものなので(気候、植生、土壌などの自然条件や、慣習、産業、法などの文化条件が異なれば生態系も変わることは言うまでもない)、著者はまず越前国極西部という一地域社会に焦点を絞ることで、そこからボトムアップに戦国時代の全貌を類推しようとしている。
では次に、おあずけにしていた生態系に関する著者の見方を見ていきましょう。「@われわれが言う自然とは純然たる{生/なま}の自然を意味するのはなく、人の手が加わった自然である」という点については次のようにある。「一つめは、戦国日本の人びとの目の前にあった自然は、完全な天然・原生ではなかったことである。彼らが利用したのは、それまで何世代にもわたって人間が生業を営む中でしばしば起こした、既存の生態系を破壊するできごと(生態学的には{攪乱/かくらん})によって生み出された、二次的自然である。¶二次的自然とはどういうものか。たとえば私たちが目にする山の多くは、木がたくさん茂り緑豊かで自然そのままのように見える。しかし歴史上は、現在にいたるまでにその山の木を、多くの人びとが用材(建築物や道具などをつくるための素材=マテリアル源)、あるいは燃材(エネルギー源)として採取してきた。また、人びとはそれら用途に適し、かつ再生しやすい樹種・個体を選んで、資源として再利用するために残そうと努め、その他の不要な樹種・個体を排除してきた。そうしたことが何世代にもわたって繰り返された結果、人間が好む形質を持つ樹種・個体は子孫(遺伝子)を残しやすくなり、逆に好まれない形質のものは少なくなっていった。そうして二次的自然ができる。これを人間化された生態系、と呼んでもよい(18〜9頁)」。
進化生物学では家畜化や栽培化という言葉が使われるけど、動物や植物のみならず、実はそもそも生態系全体が人間化されてきたことになる。その点の理解が足りない、「自然との調和・共生」などといったメディアお得意のスローガンは、本書では批判の対象にされる。それに関して第1章のまとめの部分に次のようにある。「現在ある社会は、歴史上の人びとによる資源の消費と、その再生産とがたまたま均衡した結果である。[「自然との調和・共生」を主張するメディアや一部の研究者は、]そのような、たまたま現在も存続している社会の過去をさかのぼって確認することができる人間の行動を寄せ集めて「自然との調和」「自然との共生」というラベルを後付けかつ願望的に貼っているだけである(106〜7頁)」。
要するに、自分のイデオロギーに沿わせるために、過去の地域的な現実を無視して歴史を都合よく逆向きに解釈し、その上あたかも楽園追放ナラティブのごとく過去をユートピアに見立てて現在を断罪しているということ(もちろんあとで述べる巨大資本によるアマゾン生態系の破壊など、現在には断罪されてしかるべき点が多々あるけど、断罪の仕方が間違っているということ)。
さて以上のことから必然的に「A生態系には人間も内在的なアクターとして含まれている」という結論が導かれる。次のようにある。「注意するべき点の二つめは、人間も、生態系を構成するプレイヤーの一つであることだ。「人間と自然とのかかわり」などのように「人間」と「自然」とを二分法的に示す表現は、科学技術で完全武装した人間がいわゆる自然とまったく別の世界に存在し、その上で自然と関係を持っているかのような錯覚を与えかねない。しかし先に述べたように、人間は生態系の中でその制約を受けて生きているし、すでにある生態系を攪乱し人間化して生きている(20頁)」。この言明は『森林に何が起きているのか』を取り上げたときに、『ジュラシック・パーク』に言及しつつ私めが書いたことと瓜二つだと言える。
著者は、さらに次のように続ける。「そもそも「自然」といっても一枚岩ではなく、ヒト以外の生物種・個体どうしでも緊張・対立関係があることも合わせて考えれば、人間と自然との「かかわり」のように二分法的かつ静態的にイメージされうる表現より、大きく見れば同じ系に属するヒトとヒト以外の要素との「相互作用」「交渉」などのように脱二分法的かつ動態的に表現するほうが適切だろう(20〜1頁)」。よって生態系は複雑系的なダイナミクスに照らして理解する必要があり、そのアクターの一つとして人間も含まれる考えるべきことになる。
そして著者は以上の主張をもとに、本書で以後検討する問いのおおまかな枠組みを次のように列挙している。「英雄物語に光があてられがちな戦国日本において、その生態系(社会−生態システム)の中で、庶民は生存戦略をどのように主体的に選択したのか、その具体的な現象である生業をどう主体的に選び、営んだのか。いいかえれば、生態系の一プレイヤーという立場において、生態系の恵みをどのように受け、生態系の制約や変動へどのように適応しようとしたのか。そしてその結果として選択した生存戦略・生業活動が、その個人が帰属する社会・生態系や、帰属する社会の外にある社会、そして戦国大名や織田・豊臣政権など行政権力(人びとにとって公共的なことがらを処理する権力体)とどう作用し合ったのか。その結果として、歴史はどう動いたのか(21頁)」。
ここで一つ説明が必要なのが本書のキータームの一つ「生業」だけど、次のようにある。「生業とは、庶民が生計を維持するための活動、などと定義される。英語でいうとsubsistence(またはsubsistent activity)であり、生存ギリギリを維持するための活動、という含意がある。文字どおり、生き(延び)るためのナリワイだ。生業史研究は、所与の生態系・環境の中で生き延びるために人びとがどう主体的に行動したのかという問題設定、つまり生存戦略論として語る傾向がある(17頁)」。
『森林に何が起きているか』を取り上げた際、かつて「割り箸があああ!」と叫んでいた表面的なエコ主義者がいたという話をした。その手の主張が誤っているのは、生業として成り立っている林業は生態系と深く関わっており(つまり人間は生態系の一アクターであり)、したがってその林業が成り立たなくなれば、やがてそれを包含している生態系そのものも崩壊する可能性がある点を見逃していることにある。割り箸用の間伐材の売却で手に入る額はたかが知れているのかもしれないが、それは本質的な点ではなく、好もうと好むまいと割り箸製造それ自体が生態系の一部に組み込まれているという点が重要だということ。
確かに巨大資本が金儲けのためにアマゾンの木を大量に伐採して、アマゾンという巨大な生態系を、その生態系の外部から破壊していることは大問題だとしても、それと、生態系に内在し生業として成り立っている地域社会の林業はまったく異なる。その点をまるで理解せずに両者を一緒くたにしているのが、表面的なエコ主義者だと言える。
さて本書の話に戻るけど、このあとの第1〜4章では、越前国極西部という特定の地域社会を対象に、以上述べた主題が具体的に適用され、それに対する実証的な証拠があげられている。よって本書の大部分を占めるこの検証部分に関しては、専門家ではない私めがコメントできるたぐいのものではないので省略する。
残りはそれまでの議論をまとめた終章だけど、「さまざまな時間スケールの変化の集合としての歴史」という、現代の歴史教育の問題について述べた節は興味深かった。次のようにある。「以上のような[つまり本書でここまで説明してきたもののような]、歴史を解釈するときの、従来とは異なる枠組みを知ることは、私たちが一般的に認識している歴史の枠組みを強く規定している原因の一つである、歴史教育のありようを再定義することにもつながる。近年の日本史教科書の叙述スタイルは、各章の冒頭で国際環境について叙述するなど工夫してはいるが、その後の叙述で政治史→社会・生活・文化史の順に配置する構成は、だいたい共通している。そのことは、政治史(それも政策史ではなく英雄たちの政権交代史)こそが歴史の中で第一に学ぶべきもの、というスリコミを私たちに与える(260〜1頁)」。
なぜ政治史→社会・生活・文化史という構成の歴史観が浸透しているかというと、階級闘争史観のような特定のイデオロギーに基づくトップダウンの見方が、これまで横行していたからなのだろうと思う。トップダウンの見方は粒度を一つに限定した見方だと言える。つまり普遍的な粒度を一つだけ設けて、そこからすべてを説明しようとする。でも実際には、庶民の生活圏(生態系)という粒度が先にあって、それを基盤としてボトムアップに行政権力という粒度の異なる制度が成立していくと考えるべきだと思っている。だから行政権力といえども庶民の生活をないがしろにするわけにはいかない。さもなければ自分の足元を掘り崩すことになる。
このような「庶民と行政権力の相互依存」が従来ないがしろにされてきたのは、繰り返すとまさに階級闘争史観的なトップダウンの見方が当然のものとして通用していたからなんだろうと思う。ここで、それに関連して「グローバリズム」と「インターナショナリズム」の違いについて指摘しておく。
それら二つは同じではないどころかまったく異なる。「グローバリズム」は「世界は一つ」「国境のない世界」などの物言いからもわかるように粒度を一つしか想定しないのに対して、「インターナショナリズム」は少なくとも粒度を二つは想定する。「インターナショナル」とは「さまざまな国家のあいだの相互作用」という意味であり、まず「国家」ありきで、それを基盤として何らかの連邦的な統一体が成立すると想定する。だからこの本で著者が提起しているボトムアップの歴史観は、国際レベルにまで拡張すれば「インターナショナリズム」に類する見方であるのに対し、階級闘争史観は「グローバリズム」に基づく歴史観だと言えると思う。私めは基本的に、地域社会の多様性を無視した同質性の押しつけに他ならない「グローバリズム」は、ファシズムのレシピであり、だから歴史教育を「グローバリズム」で染め上げることほど危険なことはないと考えている。
著者もその考えを共有しているであろうことは次の記述からも類推できる。「「企業トップが学ぶべき織田信長の決断に見るリーダーシップ」よりも、「地球社会の一サブシステムである日本社会を、人口の圧倒的多数を占める庶民はどのように維持してきたのか、その経験を、地球社会で現在生きている一個人の行動にフィードバックする」ことを学校教育でもっと語ってよい、と筆者は考える(261頁)」。ちょっと我田引水的な引用に思えるかもだけど、著者の提言は「庶民が生活する地域社会→日本社会→地球社会(→個人)」という、複数の粒度の相互作用から構成されるボトムアップ歴史観の、そして「グローバリズム」ではなく「インターナショナリズム」の提起としてとらえることができる。
ということで、本書は単に歴史的事実を集めた本ではなく、まさに歴史の見方を塗り替えて(あえて言うまでもないけど、実証的な証拠に基づいているので悪い意味での歴史修正主義にはならない(これが言いたかったために最初のほうで歴史修正主義の話を出したわけ)、それに基づいて新たな角度から具体的な歴史を眺めようとする気宇壮大な本だという印象を受けた。
※2023年4月28日