第2部:資本の流通過程
第1篇:資本の諸変態とそれらの循環
第2章:生産資本の循環

第1節
単純再生産



G'を追跡する

生産資本循環の一般的定式は、P…W'―G'―W…P。このなかには、流通過程W'―G'―Wが含まれている。このうち、販売局面であるW'―G'は、第1章で考察された貨幣資本循環過程では最終局面として現われていたものだ。第2章での考察対象である生産資本循環では、W'―G'は、このあとに循環を継続させている購買局面G'―Wに補足される局面となっている。貨幣資本循環過程では追跡されることのなかったG'の軌跡が、どのように描かれるかが、生産資本循環過程では決定的となる。

G'に含まれているGとg(剰余価値)とがその軌道を一緒に進み続けるか、それとも異なる軌道を描くかは、さしあたり、それ以上考察する必要はなかった。この考察は、われわれが〔循環G…G'の〕第一の循環をその更新においてさらに追跡したとすれば、その場合にのみ必要になったであろう。しかし、生産資本の循環では、この点が決定されなければならない。というのは、すでに生産資本の第一の循環の規定がこの点に依存するからであり、また、この循環ではW'―G'が、G―Wによって補足されなければならない第一の流通局面として現われるからである。定式が単純再生産を表わすか拡大された規模での再生産を表わすかは、この〔点の〕決定にかかっている。すなわち、その決定しだいで、循環の性格は変化する。[70]

この第2章第1節では、定式が単純再生産過程をとるケース、Gとgとが異なる軌道を描くケースが考察される。

W'WGWPm,A
G'
wgw

G'―Wを分析する

剰余価値の軌跡g―w

単純再生産を表わす循環過程では、資本価値を表わすWと対応する貨幣資本部分Gは産業資本循環のなかで流通を続けるが、剰余価値gは、その全部が資本家の個人的消費に、すなわち一般的商品流通にはいり込み産業資本の循環からはぬけ出てゆく。

g―wという局面は、資本家の個人的消費のための購買をしめす。ここでgは、資本家家族の生活諸手段を贖うための支払手段として機能するから、日常の消費に予定された手持ち貨幣または蓄蔵貨幣の形態で存在する。「というのは、流通を中断された貨幣は蓄蔵貨幣形態にあるから」(第1部第1篇第3章貨幣または商品流通、第3節貨幣、a蓄蔵貨幣の形成参照)である。

この貨幣の果たす、流通手段――蓄蔵貨幣としての一時的形態をも含む――としての機能は、貨幣形態にある資本Gの流通にははいり込まない。[71]

W'―G'の“逐次的”実現

これまでは、紡績産業における商品生産物である“糸”など、「分割可能な」商品が取り扱われてきた。だから、例えば、第1章第3節のなかで示されたように、綿糸商品W'に含まれている「綿糸商品価値の構成部分」(生産資本Pの価値と生産過程で新たに付加された剰余価値)を、「綿糸商品の比率部分」で表現してみる、というようなことが、糸という「自立的商品要素」でもって表わしえた。

これが、分割不可能な商品、例えば、綿糸の生産手段である精紡機など機械工場の商品生産物などの場合や、あるいは家屋商品の場合だと、「商品価値の構成部分」を「商品の比率的部分」で表わそうとすれば、まったく観念的にしか表わしえない。機械、あるいは家屋は、そのある特定部分だけでは、使用効果もなければ商品価値もないからだ。しかし、総量全体が販売されつくし、その商品生産物全部が貨幣形態に転化してしまうことを前提にすれば、「商品価値の構成部分」をその「商品の比率部分」で表わしえることから、完成途上にある機械装置や家屋商品なども、W'―G'という転化局面の逐次的実現のある段階だと考えることもできる。

分割しえない連続的な諸商品体の場合には、実際には価値の構成諸部分が観念的にそれぞれ切り離される。たとえば、大部分が信用で経営されるロンドンの建築業では、家屋の建築がさまざまな段階にあるのに応じて、建築業者は前貸しを受ける。これらの段階は、いずれも一軒の家屋ではなく、できつつある将来の一家屋の現実に実存する一構成部分にすぎない。すなわち、その現実性にもかかわらず全家屋の観念的な切れはしにすぎないが、それでもなお、追加前貸しの担保として役立つためには十分に現実的である。[73]

実際の資本の運動過程では、たとえば機械商品や家屋生産中に売買契約が破棄されることは十分ありうるし、完成された機械や家屋の売買契約中に、買い手が契約を破棄せざるを得ないことも十分ありうる。しかし、ここでは、そういうケースはとりあえず、考察条件から除外されている。生産される商品は、そのすべてが順調に完売されることが前提だ。

これまでの例にそって、紡績業者による「単純再生産」循環の流通過程部分を、「綿糸商品価値の構成部分」(生産資本Pの価値と生産過程で新たに付加された剰余価値)を「綿糸商品の比率部分」で表現し、かつ、貨幣価値とを対比させて示すと、つぎのようになる(p=ポンド〔重量〕、ps=ポンド・スターリング〔貨幣額〕、c=不変資本、v=可変資本、m=剰余価値)。

W'(10,000p)W{7,440p(c)+1,000p(v)}G(372ps+50ps)WPm,A
G'(500ps)
w{1,560p(m)}g(78ps)w

機械や家屋などの場合も、糸などの場合も、いずれにしろ、生産物総量、商品全部の販売が順調に完遂されることを想定するならば、次のように言う事ができる。すなわち、資本家は、生産物総量を逐次販売し、その諸部分に含まれる不変資本価値cプラス可変資本価値vの総額を逐次、実現していくとともに、剰余価値m要素を逐次、収入とすることができる、と。

機械の場合には、gがその特殊な流通にはいり込むことができるまえに、この商品総体が、商品資本が、機械が、全部販売されていなければならない。これに反して、資本家が8440ポンドの糸を販売すれば、残りの1560ポンドの販売は、剰余価値の完全に分離された流通を、w(1560ポンドの糸)―g(78ポンド・スターリング)―w(消費物品)という形態で表わすであろう。しかし、1万ポンドの糸生産物のどの個々の部分の価値諸要素も、総生産物の場合と同様に、生産物の諸部分で表わすことができる。……資本家は、1万ポンドを逐次販売し、その逐次の諸部分に含まれる剰余価値要素を逐次消費し、そうすることによってやはり逐次にc+vの総額を実現していくこともできるであろう。しかし、この操作も、やはり結局は、1万ポンドが全部販売されること、したがってまた8440ポンドの販売によってcとvとの価値が補填されることを想定する……。[72]

G'―Wの運動の分岐はW'―G'の実現による

W'―G'によって、W'ですでに実現されている剰余価値も生産資本Pからすっかり移転された資本価値も、貨幣形態を獲得する。W'では、単に商品の価格というそれらの価値の観念的な表現をもつにすぎなかった資本価値と剰余価値とが、自立的並存的な形態、「分離しうる実存」[72]を獲得する。

Wとwとの流通、資本価値と剰余価値との流通は、W'のG'への転化ののちに分裂する。[72]

資本価値と剰余価値とが、別々の循環経路をたどることが可能なのは、W'がG'という「貨幣額として自立的な形態」を獲得したからだ。

また、G'―Wが、G―Wとg―wとに分岐することから、この局面に補足されるW'―G'もそれに関連させて、W―Gとw―gとして表わすことができる。すなわち、W'―G'―Wは、W―G―Wとw―g―wという異なる流通として表わすことができる。

さらに、gが資本家の収入となる度合いに応じて、G―Wの軌道を描く資本価値が変化することになる。この第1節で想定されているのは、g(78ポンド・スターリング)がすべて資本家の収入となり、したがって、G(422ポンド・スターリング)はW'のうちのWと等しい資本価値として循環を継続するというケースであるが、

剰余価値の一部分が収入として支出されない……か、または全然分離しないならば、資本価値の循環の完了以前に、まだその循環の内部にあるうちに、資本価値そのものに一つの変化が起こる。われわれの例では、生産資本の価値は422ポンド・スターリングに等しかった。したがって、資本が、たとえば480ポンド・スターリングまたは500ポンド・スターリングとしてG―Wを続行するとすれば、資本は最初の価値よりも58ポンド・スターリングまたは78ポンド・スターリングだけ大きい価値としてその後の循環の諸段階を経過する。このことが同時に資本の価値構成の変化と結びついていることもありうる。[73]

資本家の収入の流通w―g―w

資本家の収入の流通を表わすw―g―wにおいて、剰余生産物wは商品資本W'の構成部分であり、w―gではWとともにW'の一部分として資本価値の循環にむすびつけられている。

だから、産業資本循環過程における資本の大きさの度合いに応じて、価値増殖過程の結果である商品資本W'が増大し、資本家の収入gが増大することは、まったく妨げられない。また一方、循環の停滞やなんらかの撹乱が生じ、販売W'―G'が完遂できなかった場合にはw―gの実現も不完全となり、資本家の私的消費g―wは制限されるか、まったく不可能になる。資本家の私的生活が維持継続されなければ、生産資本の循環の継続自体が困難になる。

W'は最初から商品資本として登場する。そして、全過程の目的である致富(価値増殖)は、剰余価値の(したがってまた資本の)大きさにつれて資本家の消費が増大することを決して排除するものではなく、まさしくそれを包含する。

……wは、資本家にとって少しも費用のかからなかった商品価値であり、剰余労働の体現であり、それゆえもともと商品資本W'の構成部分として舞台に登場する……。したがって、このwそのものは、すでにその実存の点で過程進行中の資本価値の循環に結びつけられており、もしこの循環が停滞するかまたはなんらかのやり方で撹乱されるならば、wの消費が制限されるかまたはまったく停止するだけでなく、それと同時に、wと置き換えられる商品系列の販路もそうなってしまう。W'―G'が失敗するかまたはW'の一部分しか売れない場合でも、同じことである。

すでに見たように、資本家の収入の流通としてのw―g―wは、ただwがW'――商品資本という機能形態にある資本――の価値部分である限りでのみ、資本流通にはいり込む。しかし資本家の収入の流通は、〔wが〕g―wによって自立化されるやいなや、したがってw―g―wという全体的形態では、資本家によって前貸しされた資本の運動にははいり込まない――それはこの運動から出てくるのではあるが。資本家の収入の流通が、前貸しされた資本の運動と連関するのは、資本の実存が資本家の実存を前提とし、しかも資本家の実存が資本家の剰余価値の消費によって条件づけられる限りにおいてである。[74]

資本価値の流通W―G―W

売り手である紡績業者(資本家)によって流通に投じられた糸商品W'が貨幣に転換する――販売されることで、W'の資本としての機能は完了するし、資本の流通は達成される。

一方、この販売W'―G'は、買い手にとっては購買G―Wである。この買い手は、ここから先、この糸商品を原材料として別の生産過程に投入するつもりで購入した、別の個別資本循環を形成する資本家の場合もあれば、そうでない場合もある。ここでマルクスが例示しているのは「商人」――買った商品を必要としている他人に売るつもりの買い手――である。商品Wは、さきの紡績業者の手を離れた後、買い手である新たな売り手――「商人」が新たな買い手を見つけるまでのあいだ、「引き続き商品として一般的流通の範囲内にとどまる」。商人にとっての販売が、いまだ達成されていない段階でも、資本循環における販売は達成されている。

買い手が「この糸商品を原材料として別の生産過程に投入するつもりで購入した、別の個別資本循環を形成する資本家の場合」も、紡績業者にとっての販売はすでに達成されている。糸を買った、例えば織布業者が、いまだ糸を布として製品化できないでいたとしても、紡績業者の資本循環における流通局面は一応達成されている。

一般的流通の内部では、W'、たとえば糸は、商品としてのみ機能する。しかし、資本の流通の契機としては、W'は、商品資本として、すなわち資本価値が身につけたり脱ぎすてたりする姿態として、機能する。糸は、商人に販売されたあとは、糸を生産物とする資本の循環過程からは離れるが、それにもかかわらず、引き続き商品として一般的流通の範囲内にとどまる。同じ商品量の流通は、それが紡績業者の資本の自立的循環における契機をなさなくなっているにもかかわらず、持続する。それゆえ、資本家によって流通に投じられた商品量の現実の最終的変態であるW―G、この商品量の消費への終局的脱落は、この商品量が彼の商品資本として機能するさいの姿態からは、時間的にも空間的にもまったく分離されることがありうる。資本の流通では達成されているのと同じ変態が、一般的流通の部面でこれからなお達成されるべきものであり続ける。[74-75]

分離した流通は商品流通形態として現われる

w―g―wとW―G―Wの2つの流通は、ともにその形態からみれば、商品流通に属する流通形態として現われる。この形態では、最初と最後に使用価値は異なるが同価値の商品が現われる。この形態的特徴が、マルクスが指摘するような“錯覚”をもたらす。すなわち、資本主義の社会での資本家の役割は、その社会全体に必要なさまざまな使用価値をもつ商品を生産し、その社会に流通させ供給することであるというものだ。

双方の流通……も、一般的形態から見れば商品流通に属する(それゆえまた両極間の価値の差を示さない)ので、俗流経済学がそうしているように、資本主義的生産過程を、諸商品、すなわちなんらかの種類の消費に予定された諸使用価値の単なる生産と解し、資本家がそれらの商品を生産するのは、それらを他の使用価値をもつ諸商品と置き換えるため、または、俗流経済学でまちがって言われているように、それらをこれと交換するため、でしかないとすることは、安易なことである。[73-74]

この“錯覚”が想定しているように資本主義的生産が行なわれるのであれば、“過剰生産”という現象は起こりようがないということになる。しかし、実際には、資本主義社会は、過剰生産による恐慌をこれまでに幾度も経験している。資本主義的生産の目的は、使用価値の生産とその供給ではなく、剰余価値の生産でありその取得である。

形態上、錯覚を呼び起こしやすいこの流通過程が、一般商品流通循環過程の局面であると同時に資本の循環過程の局面でもあり、それら二重の性格をもっていることを、マルクスは指摘している。

一般的流通は、社会的資本のさまざまな自立的断片の循環のからみ合い、すなわち個別諸資本の〔循環の〕総体をも、資本として市場に投じられなかった――言い換えれば個人的消費にはいり込む――価値の流通をも、同じように包括する。[75]

G―Wを分析する

資本価値の流通の第二局面G―Wでは、Gは最初の資本価値と同じ大きさで現われる。その機能は、“貨幣資本の生産諸手段と労働力とへの転化”だ。資本価値の流通の明細な形態は、W―G―W<Pm,Aと表わされる。

第二局面G―Wでは、資本価値G=P(ここ〔P…P〕で産業資本の循環を開始する生産資本の価値)が、剰余価値から解き放されて、したがって貨幣資本の循環の第一段階G―Wにおけると同じ価値の大きさで、ふたたび現存する。位置の相違にもかかわらず、商品資本がいま転化した貨幣資本の機能は、同じものである。すなわち、PmとAとへの、生産諸手段と労働力とへの、貨幣資本の転化である。

したがって資本価値は、商品資本の機能であるW'―G'では、w―gと同時にW―Gの局面をすでに経過し、いまや補足局面G―W<Pm,Aにはいる。すなわち、資本価値の総流通はW―G―W<Pm,Aである。[75]

G―W<Pm,Aにおける貨幣資本Gの機能

過去の労働とともに未来の労働を表わす

まずここでは、雇用G―Aが分析される。

貨幣資本は、ここでははじめから、資本価値の最初の形態でも終結の形態でもない形態として実存する。というのは、局面W―Gを終結させる局面G―Wは、もう一度貨幣形態を脱ぎ捨てることによってのみ達成されうるからである。それゆえ、G―Wのうちの同時にG―Aでもある部分も、もはや労働力の購買のための単なる貨幣前貸しとしてではなく、労働力によって創造された商品価値の一部分をなす50ポンド・スターリングの価値をもつ1000ポンドの糸が、貨幣形態で労働力に前貸しされる、そういう前貸しとして現われる。ここで労働者に前貸しされる貨幣は、労働者自身によって生産された商品価値の一つの価値部分が転化した等価形態にすぎない。また、それゆえにこそ、G―Wという行為は、それがG―Aである限りでは、決して貨幣形態にある商品を使用形態にある商品によって置き換えるだけのことではなく、一般的商品流通そのものから独立した他の諸要素を含むのである。[76]

W'自体は、生産過程Pにおける産物であり、G'はW'の転化形態であるから、総貨幣額G'は、過去の労働の貨幣表現だといえる。

Gが、市場にある実存する諸商品と交換される限りでは、これもまた一つの形態(貨幣)から他の形態(商品)への過去の労働の転換である。[76]

ここでマルクスは、「購買G―Wという行為にとっては、Gが、将来生産されるはずの、まだ市場に現われていない商品の転化形態を表わすことがありうる」という点について考察している。

販売W―Gと、その「補足行為」である購買G―Wとのあいだには、時間的ギャップがあるのが一般的であること。すなわち、生産諸手段の購入(G―Pm)において、それらの商品が生産される前に購買されることがあるのと同様に、雇用G―Aの場合、労働者にとってこれはA―Gであり、労働者の収入の軌跡としてはA―G―Wとなるが、この貨幣で購入される予定の生活諸手段は、生産途中かまだ生産されていない諸商品である場合が一般的であること。

この貨幣は、労働者たちの過去の労働の貨幣形態であるだけでなく、同時に、いままさに実現中かまたは将来実現するはずの、現在または将来の労働にたいする指図証券でもある。労働者は、この貨幣で、次週にはじめてつくられる上着を買うかもしれない。腐らせないためには生産されたそのときにほとんどすぐ消費されなければならない非常に多くの必要生活諸手段〔パン、ミルク等々〕については、ことにそう言える。このように労働者は、自分の労賃の支払いとして受け取る貨幣で、彼自身または他の労働者の将来の労働の転化〔された〕形態を受け取る資本家は、労働者に彼の過去の労働の一部分を与えることによって、労働者に労働者自身の将来の労働にたいする指図証券を与える。まさに労働者自身の現在または将来の労働が在庫――まだ現存しない――を形成するのであり、彼の過去の労働にたいする支払いがこの在庫でなされる。ここでは、在庫形成という観念はまったく消えうせる。[77]

ここでふれられている「在庫形成」については、この後の章、第6章流通費、第2節保管費のなか([138-151])で考察されている。

生産物は、それが商品資本として定在するあいだ、またはそれが市場に滞留するあいだ、すなわちそれが出てくる生産過程とそれがはいり込む消費過程との合間にあるあいだは、商品在庫を形成する。……形態転化W'―G'での滞留は、資本の循環のなかで行なわれなければならない現実の素材変換をも、生産資本としての資本の機能続行をも、さまたげる。他方、G―Wにとっては、市場における絶え間ない商品の現存、すなわち商品在庫は、再生産過程の流れの条件として、また新資本または追加資本の投下の条件として、現われる。[139-140]

生産諸手段としての商品在庫の形成は、上記引用のように行なわれるだろうが、労働力という商品については、このような「在庫形成という観念はまったく消えうせる」。労働力の再生産、労働者の生活の継続を保証する労賃そのものが、労働者の過去の労働の一部分である。

流通手段、支払手段

貨幣資本としての資本の定在は、この運動では、消えうせる〔一時的な〕契機でしかない。言い換えれば、貨幣資本は、運動によどみがない限り、それが購買手段として役立つ場合には流通手段としてのみ現われる。それは、資本家たちがともに互いに購買し合い、それゆえ支払い差額だけを決済しなくてはならない場合には、本来の支払手段として現われる。[77]

ここで、「第1部第1篇第3章貨幣または商品流通」の「第2節流通手段」と「第3節貨幣」のノートを確認してみる。

第1部での考察では、貨幣を介在させることで、商品生産物の交換過程が販売と購買とに分離するということ、この分離による商品流通の発展と矛盾の拡大、"恐慌の可能性"が指摘されていた。貨幣資本の流通手段としての機能の指摘は、資本流通過程における“恐慌の可能性”の拡大・発展の根拠の指摘とも読み取れる。

さらに、流通手段として機能する貨幣資本Gが、支払手段として機能するのは必然であって、一般的商品流通と同様に、債権債務の関係を、売買する両者と取り結ぶ。第1部で考察・分析された支払手段としての貨幣の機能、そしてその機能の矛盾を、貨幣資本Gも帯びている。

商品資本の生産資本への再転化を媒介する

貨幣資本の機能は……WをAとPmとによって置き換えること、すなわち生産資本の結果である……商品生産物を、……それの生産諸要素によって置き換えること、したがって資本価値が商品としてのそれの形態からこの商品の形成諸要素に再転化することを、媒介するだけである。すなわち、結局、貨幣資本の機能は、商品資本の生産資本への再転化を媒介するだけである。[77]

循環の正常な進行のための前提条件

W―G―Wは、資本の流通形態としては、機能的に規定された素材変換を含んでいる。W―G―Wという転換は、さらにWが商品分量W'の生産諸要素に等しいこと、また、これらの要素が互いにその最初の価値比率を保持することを条件とする。[78]

ここでマルクスは、「循環が正常に行なわれるための条件」として、諸商品がその価値どおりに購買されることと、諸商品が循環中に“なんらの価値変動もこうむらない”ことをあげている。「そうでなければ、過程は正常に進行しえない」[78]

マルクスは同時に、これらの想定条件が、実際の循環過程においては変動するものであることも言い添えていて、この“変数”条件を考慮にいれた考察は、後の章で行なわれると予告している。

実際には生産諸手段の価値は変動する。まさに資本主義的生産にとっては、資本主義的生産を特徴づける労働の生産性の持続的な変動のためだけによっても、価値比率の不断の変動は固有である。もっとあとで論究されるべき生産諸要因のこの価値変動については、ここではただそれを指摘しておくだけにする。[78]

循環に障害が生じる場合

生産諸要素の価値変動のほかに、再生産過程の循環が乱れるケースとしては、販売W―Gがうまくゆかない場合と、購買G―Wがうまくゆかない場合とが考えられる。

資本は、W'としては貨幣形態をとりたがり、また貨幣形態に蛹化されるやいなや、G'としては、貨幣形態を脱ぎ捨ててふたたび生産資本の形態に変態したがる。資本は、貨幣姿態にとどまっているあいだは、資本として機能せず、それゆえ価値増殖されない。資本は遊休する。Gは、ここでは流通手段として働く……。[78]

第二の変態G―Wが障害にぶつかれば(たとえば生産諸手段が市場になければ)、循環、すなわち再生産過程の流れは、中断されたままである――ちょうど、資本が商品資本の形態で動けないでいるのと同じように。しかし、次の点で区別される――すなわち、資本は、朽ちやすい商品形態にあるよりも貨幣形態にあるほうが長もちしうる。資本は、貨幣資本として機能しなくても、貨幣であることをやめはしない。しかし資本は、商品資本としてのその機能にあまりに長く止めおかれるならば、商品であることを、また、およそ使用価値であることを、やめる。第二に、資本は、貨幣形態にあれば、その最初の生産資本形態の代わりに、他の生産資本形態をとることもできるが、W'としてはまったく身動きできない。[78-79]

「長持ちしない」「他の生産資本形態をとることもできない」商品資本の停留は、売り手である事業者にとって、直面する目に見える危機であり、それを回避しようと躍起にさせる。販売が完遂されれば、とりあえず安心できる。購買が滞って再生産過程が中断する瞬間があって、手元に「遊休している資本価値」である貨幣資本を動かせずにいる方が、まだより増しと考えるからだ。なぜなら、まだ使うあてのないカネが手元にあれば、継続の見込みのない現在進行中の事業でなく、他の分野の事業に投資しなおすことも可能だからだ。

しかし、市場に商品(生産諸手段)が見つからない場合――購買のメドがたたない場合というのも、市場に「自社製品」の買い手が見つからない場合――販売のメドがたたない場合とは、また別の危険をはらんでいる。すなわち、市場に買い手ののぞんでいるような生産諸手段商品が、のぞむように存在しているかどうかは、買い手である事業者の都合ではなく、市場にそれら諸商品を供給するその他のさまざまな個別事業の成り行きによる、という「制約」を受けているからだ。

W'―G―Wは、その形態から見れば、W'にとってのみ、その再生産の契機である流通行為を含む。しかし、W'―G―Wが行なわれるためには、W'が転換されるWの現実の再生産が必要である。しかしこの再生産は、W'に表わされる個別資本の再生産過程の外部にある多くの再生産過程によって制約されている。[79]

単純再生産過程の明細な形態

G―W<Pm,Aの達成と同時に、Gは生産資本に、Pに、再転化されており、新たに循環が開始される。したがって、P…W'―G'―W…Pの明細な形態は次のようになる――

PW'WGWPm,AP
G'
wgw

貨幣資本の生産資本への転化は、商品生産のための商品購買である。消費は、それがこの生産的消費である限りでのみ、資本そのものの循環にはいる。生産的消費の条件は、こうして消費される諸商品を媒介として剰余価値がつくられるということである。そしてこれは、生産者の生存を目的とする生産とは、またそうした目的をもつ商品生産とさえも、非常に異なるものである。このように剰余価値生産によって条件づけられた、商品による商品の置き換えは、生産物交換――貨幣によって媒介されるだけの――自体の場合とはまったく別ものである。それなのに、この事態は経済学者たちにより、〔両者を同一視することによって〕過剰生産というものがありえないということの証拠にされている。

[79-80]

ここでは、これまでの考察のまとめとして、原書ページ[73-74]で指摘されていた「俗流経済学」での見解にたいする批判が行なわれている。「資本主義的生産の目的は、使用価値の生産とその供給ではなく、剰余価値の生産でありその取得である」。

ではなぜ、「剰余価値の生産でありその取得である」資本の再生産過程が、過剰生産を生じさせるのか。第1部の貨幣・商品流通論において、恐慌の可能性を指摘していたマルクスは、これまでの考察をもとに、恐慌が現実に発生するにいたる過程を考察している。

恐慌の発生過程

個人的消費と資本の流通との関連

AおよびPmに転化されるGの生産的消費のほかに、この〔資本〕循環は、G―Aという第一の環を内含しており、この環は労働者にとってはA―G=W―Gである。労働者の消費を含む労働者の流通A―G―Wのうちでは、第一の環だけがG―Aの結果として資本の循環にはいる。第二の行為すなわちG―Wは、個別資本の流通から生じてくるのではあるが、個別資本の流通にははいらない。しかし、労働者階級の持続的な定在は資本家階級にとって必要であり、それゆえG―Wに媒介される労働者の消費もまた必要である。[80]

一般的商品流通と同じ形態をとる個人的消費は資本の循環過程からはぬけ出てしまうものだが、ここで指摘されている労働者の個人的消費も、さきに指摘されていた資本家の個人的消費と同様に、労働者と資本家の存在を持続し再生産するものだ。労働者と資本家の存在は、資本循環の前提条件だ。

“商人”の介在。「恐慌の考察にさいして重要な一点」

W'―G'という行為は、資本価値の循環の継続のために、また資本家による剰余価値の消費のために、W'が貨幣に転化され、販売された、ということだけを想定する。W'が購買されるのは、もちろん、その物品がある使用価値であり、したがって生産的または個人的ななんらかの種類の消費に役立つからにほかならない。しかし、W'が、たとえば糸を買った商人の手中にあってさらに流通するとしても、そのことはさしあたり、この糸を生産して商人に売った個別資本の循環の継続には、少しも関係はない。全過程はその進行を続け、またそれとともに、その進行によって条件づけられる資本家および労働者の個人的消費も進行を続ける。〔これは〕恐慌の考察にさいして重要な一点。

すなわち、W'は、販売され、貨幣に転化されしだい、労働過程の、それゆえまた再生産過程の、現実の諸要因に再転化されうる。それゆえ、W'が最終消費者によって購買されているか、それともふたたびそれを売るつもりの商人によって購買されているかは、直接には事態をなんら変えるものではない。資本主義的生産によってつくり出される商品総量の広がりは、この生産の規模とこの規模の不断の拡大への欲求とによって規定されるのであり、需要と供給との、充足されるべき諸欲求の、ある予定された範囲によって規定されるのではない。大量生産は、その直接の買い手としては、他の産業資本家たちのほかには、卸売商人しかもちえない。[80]

商品資本W'が、最終的消費者――その糸でもって布を生産するつもりの織布業者など――によって購入されるのか、それとも、商人によって購入されることで、「最終的消費者」にいたる流通が仲介され、商品が流通過程のなかにとどまっている状態にあるかというのは、商品資本W'の販売を遂行した製糸業者にとっては、あずかり知らぬことだ。販売が完遂されているかぎり、製糸業者の営業は中断されない。製糸業者にとっての資本循環は順調に継続しうるし、それにともない資本家はもとより労働者の生活も順調に継続しうる。

さらに、資本主義的生産のように、商品の大量生産が一般的である場合、「その直接の買い手としては、他の産業資本家たちのほかには、卸売商人しかもちえない」ことから、ここで指摘されている、商人の介在による経済活動は、資本主義的生産のもとでは一般的な傾向となる。

再生産過程の進行が現実の需要から独立する

再生産過程は、そこで産出された商品が現実に個人的または生産的消費にはいり込んでいなくても、ある限界内では同じ規模または拡大された規模で進行しうる。商品の消費は、その商品を生み出した資本の循環には含まれていない。たとえば糸は販売されてしまえばすぐに、販売されたその糸がさしあたりどうなろうとも、糸で表わされた資本価値の循環は新たに始まりうる。生産物が販売される限り、資本主義的生産者の立場から見れば万事は規則正しく進行する。彼によって代表される資本価値のその循環は中断されない。[80-81]

再生産過程は、資本家や労働者の私的消費や他の産業資本による生産的消費に商品がはいり込んでいない場合でも、その循環を継続しうるし、再生産規模を拡大することさえありうる。

架空の需要にもとづく生産の拡大が実質的消費を拡大する

そして、もしこの循環過程が拡大されているならば――それは生産諸手段の生産的消費の拡大を含む――資本のこの再生産は、労働者の個人的消費(したがって需要)の拡大をともなうことがありうる――というのは、この過程は生産的消費によって準備され媒介されているからである。[81]

商品が本来的に消費されていなくても、資本家は彼の事業の拡大をはかることができる。したがって、事業の拡大にともない、生産諸手段の購入が拡大し、雇用が拡大しうる。これらの事業投資の拡大が、実質的な消費の拡大をもたらしうる。

生産規模の拡大による矛盾が市場にあらわれる

このようにして、剰余価値の生産、それとともに資本家の個人的消費もまた増大し、再生産過程全体は繁栄をきわめた状態にありうるが、それにもかかわらず、諸商品の一大部分は外観上消費にはいっているにすぎず、現実には売れずに転売人たちの手中に滞積し、したがって実際にまだ市場にある、ということがありうる。[81]

需要が架空のものであったことが明らかになり過熱する市場

そこで、商品の流れが商品の流れに続き、ついにはまえの流れは外観上消費によってのみ込まれているにすぎないということが明らかになる。諸商品資本が市場で互いに席を争奪し合う。あとから来た者は、売るために価格を下げて売る。まえのもろもろの流れがまだ現金化されていないのに、それらの支払期限が到来する。それらの持ち主たちは、支払不能を宣言せざるをえないか、または支払いをするためにどんな価格ででも売らざるをえない。この販売は、需要の現実の状態とはまったくなんのかかわりもない。それは、ただ、支払いを求める需要、商品を貨幣に転化する絶対的必要と、かかわりがあるだけである。[81]

恐慌の到来

そのときに、恐慌が勃発する。恐慌は、消費的需要の、個人的消費のための需要の、直接の減少においてではなく、資本と資本との交換の、資本の再生産過程の、減退において、目に見えるようになる。[81]

貨幣資本の滞留。蓄蔵貨幣

自発的な貨幣蓄蔵

貨幣資本として、生産資本への再転化を予定された資本価値として、Gは、その機能を果たすために商品PmおよびAに転換されるが――もしこれらの商品が異なる期限に購買または支払いされなければならないとすれば、したがってG―Wがつぎつぎに行なわれる一連の購買または支払いを表わすとすれば、Gの一部分はG―Wという行為を達成するが、他の一部分は貨幣状態にとどまっており、過程そのものの諸条件によって規定されたある時期になってはじめて、同時または順次のG―Wという行為に役立つ。この部分は、一定の時点に活動を開始してその機能を果たすために、しばらくのあいだ流通から引きあげられているだけである。その場合には、この部分のこの貯蔵は、それ自体、この部分の流通によって規定され、流通に予定された一機能である。その場合には、購買元本および支払元本としてのこの部分の定在、この部分の運動の一時停止、この部分の流通中断の状態は、貨幣が貨幣資本としての貨幣の諸機能の一つを果たしている状態である。[81]

非自発的な貨幣蓄蔵

流通過程の進行が障害にぶつかり、その結果Gが市場の状況などの外部の事情によってその機能G―Wを一時停止せざるをえなくなり、そのために長かれ短かれその貨幣状態にとどまるとすれば、これもまた貨幣の蓄蔵貨幣状態であり、この状態は単純な商品流通においても、W―GのG―Wへの移行が外部の事情によって中断されるとすぐに現われる。それは、非自発的な蓄蔵貨幣形成である。[82]



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