第1部:資本の生産過程
第7篇:資本の蓄積過程
第23章:資本主義的蓄積の一般的法則
この節の見出しについて、訳注に断り書きがある。
*〔これまでの諸章では、すべて「集中」と訳出したこの語 Konzentration は、フランス語版およびドイツ語第3版以降の Zentralisation (資本の「集中」)の新たな概念規定と区別して、以下の諸章では「集積」と訳出する。なお、本節の表題は、フランス語版では「蓄積の進行中における資本構成の継起的変化、および労働力と交換される資本部分の相対的減少」と改められている〕[650]
フランス語版で改められた見出しの方が、ぐんと分かりやすい。「集積」と「集中」についてだが、本節を読みすすめてゆけば、ちがいが分かってくることになっているはず。
マルクスが引用しているように、古典派経済学の人びとは、「蓄積の持続的増大と速度が、労賃の騰貴を引き起こす」ととらえてきた。(A.スミス『諸国民の富』、第1篇、第8章)
たしかに、マルクスも、前節で、そのケースを考察したのであったが、注意すべきは、前節での考察の前提が、「資本の構成が不変である場合」だったことである。それでもなおかつ、「労賃の騰貴」には、資本主義的生産様式ゆえの「限界点」があることも、前節でマルクスは指摘した。
さらに、マルクスが本節で指摘するように、その前提は「特殊的局面」においてのみ適用可能だが、「蓄積の持続的増大とこの増大の速度」は、「この(特殊的)局面を超えて進む」([650])。「蓄積の持続的増大と加速」そのものが、「可変資本部分の相対的減少」をもたらす段階にいたるのである。
資本主義制度の一般的基礎がひとたび与えられれば、蓄積の経過中に、社会的労働の生産性の発展が蓄積のもっとも強力な槓杆となる時点が必ず現われてくる。[650]
この現象そのものについては、古典派経済学は、きちんと認識していた。ただし、それが、どのような資本構成の変化をもたらすか、ということに関しては、研究をすすめなかった。
A.スミスは言う――「賃銀を高めるのと同じ原因、すなわち資本の増加は、労働の生産諸能力を増進させ、比較的少量の労働が比較的多量の生産物をつくり出せるようにする」(『諸国民の富』、第1巻、エディンバラ、1814年、142ページ)。[650]
いったい、労働の生産性の増大、すなわち、労働の生産力の増大によって、「資本構成の変化」が生じるのは、なぜなのか。どのような理由、あるいは、過程から生じるのか。
労働の社会的生産性の度合いは、1人の労働者が所定の時間内に労働力の同じ緊張度をもって生産物に転化する生産諸手段の相対的な量的大きさで表現される。……一方の生産諸手段の増大は労働の生産性の増大の結果であり、他方の生産諸手段の増大は労働の生産性の増大の条件である。……しかし、条件であろうと結果であろうと、生産諸手段に合体される労働力に比べての生産諸手段の量的大きさの増大は、労働の生産性の増大を表現する。したがって……〔労働の生産性〕の増加は、労働によって運動させられる生産諸手段の総量に比べての労働総量の減少のうちに……現われる。[650-1]
「労働の強度の増大」と、「労働の生産性の増大」とのちがいについて、以前、私自身、理解を深めた(第1部第5篇第15章第1節)。上記引用部分のなかで、「1人の労働者が所定の時間内に労働力の同じ緊張度をもって生産物に転化する」という叙述部分は、「労働の強化」の度合いが一定である前提のもとで労働者が生産過程にはいり込む場合をさす。
労働生産性の増大は、生産ラインを形成する、生産諸手段それ自体の生産性を同時に増大させるわけだが、このことに関連して、マルクスの記述のなかに、わかりやすい説明がある。
たとえば、マニュファクチュア的分業と機械の使用にともなって、同じ時間内により多くの原料が加工され、したがってより多量の原料および補助材料が労働過程にはいり込む。これは、労働の生産性の増大の結果である。他面では、使用される機械、役畜、鉱物性肥料、排水管などの総量は、労働の生産性の増大の条件である。建物、溶鉱炉、輸送手段などに集積される生産諸手段の総量も同様である。[650-1]
ここで「……輸送手段などに集積される生産諸手段の総量……」と使用されている「集積」という訳語は、本節のはじめに断り書きがしてあったように、これまで「集中」と訳されていた語彙である。
古典派経済学の人びとが見落としていた点、すなわち、「資本の蓄積の増大」が、必然的に「資本構成」そのものの変化を生じさせるということが、考察される。
資本の技術的構成におけるこの変化、すなわち生産諸手段に生命力を与える労働力の総量に比べての生産諸手段の総量の増大は、資本の価値構成に、すなわち資本価値のうちの可変的構成部分を犠牲とする不変的構成部分の増加に反映する。たとえば、一資本のうち、……最初は50%が生産諸手段に、50%が労働力に投下されていたのに、のちには労働の生産性の度合いの発展につれて、80%が生産手段に、20%が労働力に投下される、などとなる。[651]
資本の価値構成の変化は、資本の技術的構成における変化を「近似的に」しか示さない。なぜなら、
労働の生産性が増大するにともない、労働により消費される生産諸手段の量が増加するだけでなく、その量に比べてその価値が低下するからである。[651]
……不変資本と可変資本との差の増大は、不変資本がそれに転化される生産手段の総量と、可変資本がそれに転化される労働力の総量との差の増大よりもはるかに小さい。[652]
蓄積の進行は、可変資本部分の相対的大きさを減少させるとしても、だからといって、可変資本部分の絶対的大きさの増加を排除するわけでは決してない。ある資本価値が、当初は50%の不変資本と50%の可変資本とに分かれ、のちには80%の不変資本と20%の可変資本とに分かれると仮定しよう。その間に、たとえば6000ポンド・スターリングの最初の資本が1万8000ポンド・スターリングに増大したとすれば、その可変部分も 1/5 だけ増大したことになる。それは3000ポンド・スターリングであったのに、いまでは3600ポンド・スターリングである。[652]
上記で引用した、例示の場合には、同時につぎのようなことが言える。
労働にたいする需要を20%増加するためには、以前には20%の資本増大で十分であったであろうが、いまでは最初の資本を3倍にすることがそのためには必要だということになる。[652]
したがって、増加する労働需要に対応できるだけの大きさの資本を投下できる資本家が、蓄積の進行に対応できるわけだ。
個々の商品生産者の手もとにおけるある一定の資本蓄積が、独自的資本主義的生産様式の前提をなす。[652]
ある一定程度の資本蓄積が独自的資本主義的生産様式の条件として現われるとすれば、逆作用としてこの生産様式が資本の蓄積の加速化を引き起こす。それゆえ、資本の蓄積にともなって独自的資本主義的生産様式が発展し、また独自的資本主義的生産様式にともなって資本の蓄積が発展する。[653]
これらの両方の経済的要因は、それらが相互に与え合う刺激に複比例して資本の技術的構成における変動を生み出し、この変動によって、可変的構成部分が不変的構成部分に比べてますます小さくなる。[653]
実際、蓄積の増大は、古典派経済学の人びとが展望したようには、「労賃の騰貴」を持続しなかった。
可変資本部分に比べての不変資本部分の増大の進行というこの法則は、(すでに以前に展開したように)商品価格の比較分析――同一国民におけるさまざまな経済的時代を比較するのでもよいし、同じ時代におけるさまざまな国民を比較するのでもよいが――によって、一歩ごとに証明される。[651]
それぞれの個別的資本は大なり小なりの生産諸手段の集積であり、その大小に応じて、大なり小なりの労働者軍を指揮する。それぞれの蓄積が新たな蓄積の手段となる。この蓄積は、資本として機能する富の総量の増加にともなって、個別資本家の手におけるこうした富の集積を拡大し、それゆえ、大規模生産と独自的資本主義的生産方法との基礎を拡大する。社会的資本の増大は、多数の個別的資本の増大を通じて行なわれる。[653]
直接に蓄積にもとづく、またはむしろ蓄積と同一物であるこの種の集積は、2つの点によって特徴づけられる。第1に――個別資本家の手のもとでの社会的生産諸手段の集積の増大は、他の事情が不変ならば、社会的富の増大の度合いによって制限されている。第2に――社会的資本のうちそれぞれ特殊的生産部面に住み着く部分は、互いに独立し、互いに競争する商品生産者として相対する多くの資本家のあいだに配分されている。……蓄積は、一方では生産諸手段と労働にたいする指揮との集積の増大として現われるとすれば、他方では多数の個別的資本の相互反発として現われる。[654]
多数の個別的資本への社会的総資本のこのような分裂、または、社会的総資本の小部分の相互反発にたいしては、それらの小部分の吸引が反作用する。これはもはや、蓄積と同一物であるところの、生産諸手段と労働にたいする指揮との単純な集積ではない。それは、すでに形成されている諸資本の集積であり、これらの資本の個別的自立性の廃棄であり、資本家による資本家の収奪であり、群小の資本のより大きな少数の資本への転化である。[654]
この過程が最初の〔前述の〕過程から区別される点は、この過程が、すでに現存して機能しつつある諸資本の配分の変更のみを前提にしており、したがってこの過程の作用範囲が、社会的富の絶対的増大、または蓄積の絶対的限界によって制限されてはいない、ということである。一方において一人の人の手のもとで資本が膨脹して大きな総量となるのは、他方において多数の人の手のもとで資本が失われるからである。[654]
資本主義的生産および蓄積が発展するのと同じ度合いで、集中のもっとも強力な2つの槓杆である競争と信用も発展する。[655]
商品価格を安くし販売数を増大させようという事業主の志向は、競争をはげしくさせ、商品価格を安くしようとする傾向を加速する。商品価格を安くするということは、労働生産力を高めることによって実現されるが、「労働の生産性は生産の規模に依存する」([654])。したがって、競争の激化は、生産手段の規模がますます大きくなる傾向を生むから、
標準的な条件のもとで事業を営むのに必要な個別的資本の最小規模が増大する[654]
そうなれば、必然的に、大資本が有利になるから、比較的小さな資本は、まだ大資本の支配が完全ではない産業部面に寄り集まってくる。すると、その産業部面での競争がはげしくなるのであるが、
ここでは競争の激しさは、対抗する諸資本の数に正比例し、それらの資本の大きさに反比例する[655]
その産業部面において、結局は、一部の「勝利者」の手に資本が集中してゆくことになる。小資本は没落するか、または、大資本の支配が不完全か、あるいは、弱まっている、別の産業部面に向けてターゲットを変えることになる。新たに生まれてくる小資本も同様である。そして、またその産業部面で新たな競争の激化が生じ、資本の集中が進行する。この連関と過程のなかで、資本主義的生産はますます発展してゆくのであるが、それとともに、
一つのまったく新たな力である信用制度が形成され、それが、最初は蓄積の控え目な助手としてひそかに忍び込み、社会の表面に大小の量で散在している貨幣資力を、目に見えない糸で個々の資本家または結合資本家の手にかき集めるが、やがて競争戦における一つの新たな恐るべき武器となって、ついには諸資本集中のための巨大な社会的機構に転化する。[655]
ここで言われている「信用制度」について。ここではすでに、銀行を中心とした信用取扱業をふくめたものとして、使用されていると思われる。
集中は、産業資本家たちにたいしてその作業規模を拡張できるようにすることによって、蓄積の仕事を補完する。さて、この作業規模拡張という成果が、蓄積の結果であれ、集中の結果であれ、……その経済的作用は同じである。どこにおいても、産業設備のいっそうの拡張が、多数の者の全体労働をいっそう包括的に組織し、全体労働の物質的原動力をいっそう広範に発展させるための、すなわちばらばらな、慣行的に運営されている生産過程を、社会的に結合され科学的に配置された生産過程にますます変換していくための、出発点をなす。[656]
前章、第22章第3節で、マルクスはつぎのように、資本主義的生産様式の発展の人類史的意義を指摘していた。
価値増殖の狂信者として、彼は容赦なく人類を強制して、生産のために生産させ、それゆえ社会的生産諸力を発展させ、そしてまた各個人の完全で自由な発展を基本原理とする、より高度な社会形態の唯一の現実的土台となりうる物質的生産諸条件を創造させる。[618]
円形かららせんに移行する再生産による資本の漸次的増加である蓄積は、社会的資本の構成部分の量的群別を変更するだけでよい集中に比べれば、まったく緩慢なやり方であることは明らかである。……集中は、こうして蓄積の作用を高め促進すると同時に、資本の技術的構成における変革――資本の可変部分を犠牲にして不変部分を増加させ、それによって労働にたいする相対的需要を減少させる変革――を促進する。[656]
一方では、蓄積の進行中に形成される追加資本は、その大きさに比べればますます少数の労働者を吸引する。他方では、新たな構成で周期的に再生産される旧資本は、従来それが就業させていた労働者をますます多く反発する。[657]