第1部:資本の生産過程

第7篇:資本の蓄積過程

第23章:資本主義的蓄積の一般的法則

第3節
相対的過剰人口または産業予備軍の累進的生産



ここまで、第1節では、量的拡大として現われる資本蓄積が、第2節では、資本構成の持続的変動という質的変化のなかで、不変的構成部分の不断の増加、すなわち、資本の可変的構成部分の累進的相対的減少をともないながら行なわれる資本蓄積が、それぞれ考察された。

これらの考察から、必然的に導かれるのは、

労働にたいする需要は、総資本の大きさに比べて相対的に低落し、しかも総資本の大きさの増大にともなって累加的に低落する[658]

という結論である。

確かに総資本の増大につれて、……この総資本に合体される労働力も増加しはするが、しかし、それは絶えず減少する比率で増加する。[658]

「資本主義的生産様式に固有な人口法則」

本格的な資本主義的生産様式の発展のもとでは、社会全体の富の増大の速度よりも、労働生産性の発展によって生じる、資本構成の変動の速度のほうが、大きい。

蓄積と集中とが発展するとともに、不変的構成部分を形成する追加資本である生産諸手段における技術革新が、以前から機能している「原資本」の技術革新を誘引する。そして、この傾向とならんで、可変的構成部分の相対的減少も累進的にすすむ。

これらの条件によって、つぎのような、重層的な変化が生じる。すなわち、ますます生産諸手段が増大し、それに対応するために、より多くの労働者を確保しようとする傾向もますます大きくなるが、しかし、それ以上に、以前よりも比較的少ない労働者でより大きな生産性を発揮する生産諸手段を拡張しようとする傾向が、より速く進行する。

可変的構成部分のこうした相対的減少は、他面では逆に、可変資本または労働者人口の雇用手段の増大よりもつねにいっそう急速な労働者人口の絶対的増大のように見える。むしろ資本主義的蓄積が、しかもこの蓄積の活力の大きさに比例して、相対的な、すなわち資本の中位の増殖欲求にとって余分な、それゆえ過剰または余剰な労働者人口を絶えず生産するのである。[658]

すでに機能しつつある社会資本の大きさおよびその増大度につれ、生産規模の拡大および動かされている労働者数の拡大につれ、彼らの労働の生産力の発展につれ、富のあらゆる泉のより広く豊かな流れにつれ、資本による労働者のより大きな吸引が労働者のより大きな反発と結びついている規模もまた広がり、資本の有機的構成と資本の技術的構成とにおける変動の速度が増し、ときには同時に、ときには交互に、この変動にとらえられる生産部面の範囲がふくらむ。したがって労働者人口は、それ自身によって生み出される資本の蓄積につれて、それ自身の相対的過剰化の手段をますます大規模に生み出す。[659-660]

「産業予備軍」の形成は「資本主義的生産様式の実存条件」

産業予備軍……資本の変転する増殖欲求のために、現実的人口増加の制限にかかわりなくいつでも使える搾取可能な人間材料[661]

資本主義的生産にとっては、人口の自然的増加によって提供される、利用可能な労働力の分量だけでは決して十分でない。この生産は、それが自由に活動するには、この自然的制限にかかわりのない産業予備軍を必要とする。[664]

資本の蓄積・集中と、それにともなう労働生産性の増大によって、

などがすすむ。

これらの条件によって、

機械設備、運輸手段などが、きわめて大きな規模で、追加生産手段への剰余生産物のきわめて急速な転化を可能にする。……社会的富の大量が、……旧来の産業部門に、……新たに開発された部門に、熱狂的に殺到する。[661]

資本の伸縮性というそもそもの性格が、資本主義的生産の発展におうじて、ますます、より集中的に、より大規模に、より突発的に、大量の労働人口を、特定の生産部面にもとめるようになる。

すべてこのような場合には、大量の人間が、突然に、しかも他の部面での生産規模に損害を与えることなく、決定的な部面に投げ込まれうるのでなければならない。[661]

その人間材料を、資本主義的生産様式の発展によって、ますます増大する「過剰労働人口」が保証する。

「本来的資本主義的生産様式」、近代的産業に特徴的な、経済的循環形態、

すなわち、比較的小さな変動によって中断されながら、中位の活気、全力をあげての生産、恐慌、および停滞の諸期間からなる……循環という形態[661]

この形態そのものが、「過剰労働人口」の再生産と、「吸収」、さらなる再形成という、「過剰労働人口」そのものの不断の転化にもとづいている。さらにまた、この産業循環の形態が、過剰人口を再生産する。

この近代的産業の運動形態は、人類のこれまでのどの社会形態にも見られなかったし、さらには、資本主義的生産の初期にさえ見られなかった。

*〔……「……機械制工業が、国内の全生産に優勢な影響力をおよぼすほどに深く根をおろすようになった時点、機械制工業によって外国貿易が国内商業を追い抜きはじめた時点、世界市場が新世界で、アジアとオーストラリアで、つぎつぎに広大な領域を併合して、絶えず再生産される循環が始まった……」〕[662]

10ヵ年の循環とその周期的諸局面――これらの諸局面は、そのうえ、蓄積の進行につれて、ますます急速に継起する不規則な諸振動と交差する[666]

この近代的産業の運動形態に、不可欠の存在が、「過剰労働人口」であり「産業予備軍」である。

生産規模の突然かつ飛躍的な膨脹は、その突然な収縮の前提である。後者がまた前者を引き起こすが、しかし前者は、利用可能な人間材料なくしては、すなわち人口の絶対的増大にかかわりのない労働者の増加なくしては、不可能である。この増加は、労働者の一部を絶えず「遊離させる」単純な過程により、就業労働者数を生産増加に比べて減少させる諸方法により、つくり出される。[662]

さらに、

相対的過剰人口の生産、または労働者の遊離は、……不変資本部分に比べての可変資本部分の比率的減少よりも、いっそう急速に進行する。[665]

というのも、これまでの想定では、「可変資本の増減と就業労働者数の増減が照応する」とされてきたが、

一方では、より大きな可変資本が、より多くの労働者を徴募することなしにより多くの労働を流動させ、他方では、同じ大きさの可変資本が、同じ量の労働力でより多くの労働を流動させ、そして最後に、より高級な労働力の駆逐によってより低級な労働力をより多く流動させる[665]

ことが、可能であるし、蓄積が進むにつれて、この傾向も増大するからである(この過程は、とくに第4篇第13章「機械と大工業」のなかでその具体的事例が詳細に考察されている)。

なぜなら、まず第1に、

可変資本によって指揮される労働者数が不変であれば、または減少しさえしても、個々の労働者がより多くの労働を提供し、それゆえ、彼の労賃が増大する場合には……可変資本の増大は、労働増加の指標とはなっても、就業労働者増加の指標とはならない。[664]

そして、第2に、

どの資本家も、一定分量の労働を、より多くの労働者……からではなく、より少ない労働者からしぼり出すことに、絶対的関心をいだいている。……生産規模が大きくなればなるほど、それだけこの動機が決定的となる。この動機の重みは、資本の蓄積につれて増大する。[664]

そして、第3に、

労働の生産力が増大するにつれて、資本は自己の労働者需要よりも自己の労働の供給〔労働の生産力増大、労働日の延長、労働強化などによる労働供給量――フランス語版〕をより急速に増加させるということによって修正される。労働者階級の就業部分の過度労働は、彼らの予備軍隊列を膨脹させるが、その逆に、この予備軍隊列がその競争によって就業者に加える圧迫の増加は、就業者に過度労働と資本の命令への服従を強制する。労働者階級の一部分の過度労働による、他の部分の強制的怠惰への突き落とし、およびその逆のこと〔強制的怠惰が逆に他の部分の過度労働への突き落としを招くこと〕は、個々の資本家の致富手段となり、しかも同時に、社会的蓄積の進行に照応する規模で産業予備軍の生産を速める。[665-6]

「カローシ」「長時間過密労働」と完全実質的な失業増加傾向との併存

わが日本国の21世紀初頭の労働者をめぐる現状を目の当たりにしつつ、マルクスが引用している、19世紀中葉に書かれた『工場監督官報告書』〔1863年10月31日〕の内容を読むと、自分がいま、いったいどの時代にいるのか、タイムスリップしたような錯覚を感じる。

注(83) 1863年の綿花飢饉の中……、ブラックバーン〔マンチェスター北北西の都市〕の綿糸精紡工たちのあるパンフレットには、過度労働……に反対する激しい非難が見いだされる。「怠惰を強制されてはいるが、自分たちの家族を養うために、また自分たちの仲間を過度労働による早死から救うために、一部の時間でもすすんで働きたがっている者が何百人もいるにもかかわらず、この工場では成年工が、1日あたり12ないし13時間、労働することを要求されてきた」。……「……過度労働の犠牲者は、過度労働によって強制的怠惰に突き落とされた人々と同じく、不当と感じている。この地域には、もし労働が公正に配分されさえすれば、すべての者を部分的に就業させるのに十分なだけの、やるべき仕事がある。われわれは、他の者が仕事がないために慈善にすがって露命をつなぐことを余儀なくされているのに、一部の者に過度労働させることをやめて、少なくともこんにちの事態が続く限りは全般的に短時間労働にするよう雇い主に求めているのであって、これは正当な要求にすぎない」……[666]

ここで引用されているブラックパーンの精紡工たちの要求は、現代日本の労働者の要求とも重なり合うものでもあるだろう。

なお、マルクスは、この精紡工たちの要求が、一地域の工場のみの要求ではありえないこと、また、一部の経済学者が、賃上げ要求をともなう当時の労働争議(なんとストライキである)にたいして、

注(83)……「この王国における怠惰のもう1つの原因は、労働者の数が十分でないことである。〔……〕製品にたいするなんらかの異常な需要によって労働量が不足になるや、いつでも、労働者たちは自分の貫禄を感じ、雇い主たちにもそれを感じさせようとする。……この連中の根性は実に堕落していて、こうした場合、一日中怠けることにより雇い主たちを困らせるために、いくつかの労働者集団が団結したほどである」(『工場および商業にかんする一論』、27、28ページ)[666]

と攻撃しているのに関して、つぎのように指摘している。

あすにでも全般的に労働が合理的な程度に制限され、労働者階級のさまざまな層にたいして労働が年齢と性とにふさわしく等級別に再配分されるならば、現在の規模で国民的生産を継続していくには、現存の労働者人口では全体的に不十分であろう。現在「不生産的」な労働者の大多数が「生産的」な労働者に転化されなければならないであろう。[666]

第3篇第8章第4篇第13章で告発されている、児童労働や女性労働の過酷な実態の詳細を読めば、誤解のしようがないと思われるが、ここで、「年齢と性とにふさわしい等級別の労働配分」と言われている内容は、けっして、労働配分における年齢差別や性差別を意味しているのではない。むしろ、児童の発育、女性の母性機能を保証した労働配分、を意味しているところである。

労賃の運動は何によって規定されるか

マルクスのこれまでの考察によれば、

一般に、労賃の一般的運動は、……労働者人口の絶対数の運動によってではなく、労働者階級が現役軍と予備軍とに分解する比率の変動によって、……規定されている。[666]

すなわち、

近代的産業にとっては、労働の需要供給を資本の膨脹と収縮によって、したがって資本のそのときどきの増殖欲求に従って規制する――その結果、あるときは資本が膨脹するために労働市場が相対的に供給不足として現われ、あるときは資本が収縮するために労働市場が供給過剰として現われる[666]

この分析と考察は、当時の経済学のなかにあった定式の誤りを批判するものとなっている。当時のいわゆる「経済学的つくり話」([668])というのは、「労働の需要供給の運動が、資本の増殖欲求によって規制されている」、ととらえるのではなく、「資本の運動が、労働人口数の運動に依存している」、ととらえる誤りである。

これは経済学的ドグマである。このドグマに従えば、資本蓄積の結果、労賃が騰貴する。労賃の高騰は労働者人口の急速な増加に拍車をかけ、そしてこの増加は、労働市場が供給過剰となるまで、したがって資本が労働者供給に比べて不足になるまで、続く。労賃が低下する、するとこんどはメダルの裏の面が現われる。労賃の低落によって労働者人口はしだいに減少していき、その結果、労働者人口に比べて資本がふたたび過剰となるか、それともまた、他の人々が説明するように、労賃の低落とそれに照応する労働者の搾取の増大がふたたび蓄積を速め、他方では同時に賃銀の低落が労働者階級の増大を阻止する。こうしてふたたび、労働供給が労働需要よりも少なくなり、賃銀が騰貴するなどの状態が生じてくる。[667]

マルクスは、この誤りについて、これは、総労働力と社会的総資本との関係を規制する法則と、労働者人口が特殊な生産諸部門に配分される法則とを、混同していると指摘し、この「混同」の「理由」をつぎのように述べている。

ここで経済学者は、「どこで、またどのようにして」賃銀の増加につれて労働者が絶対的に増加し、労働者のこの絶対的な増加につれて賃銀が減少するかを見てとっていると信じているが、実際には彼は、ある特殊な生産部面の労働市場の局部的振動を見ているにすぎず、資本の欲求の変動に応じての、資本のさまざまな投下部面への労働者人口の配分という現象を見ているにすぎない。[668]

マルクスは、反証事例として、イギリス農業地域で生じた、絶対的価格では「飢餓賃銀」というべき、一時的な賃銀の上昇をめぐる現象を例示している。農業労働者の賃銀が、1849年から1859年のあいだに、わずかばかり上昇した。これは、穀物価格の低落と同時に生じたものだったが、この賃銀上昇にたいしての反作用として現われたのは、当時の経済学者が期待したような現象ではなかった。

ところで、借地農場経営者たちはなにをしたか? 彼らは、……このすばらしい支払いの結果として農業労働者が増加し、彼らの賃銀がふたたび低落せざるをえなくなるまで、待ったであろうか? 彼らはより多くの機械を導入したのであり、たちまちのうちに労働者が、借地農場経営者たちにとってさえ満足な程度にふたたび「過剰」になった。いまや、以前よりも「より多くの資本」が、しかもより生産的な形態で、農業に投下された。そのため、労働にたいする需要な、相対的にだけでなく、絶対的にも減少した。[667-8]

いわゆる「補償説」と相対的過剰人口が及ぼす作用の実際

本節のなかで、マルクスが第4篇第13章第6節で考察した「補償説」について言及している部分がある。いわゆる「補償説」とは、

労働者たちを駆逐するすべての機械設備が、いつの場合も同時にまた必然的に、まったく同じ労働者たちを就業させるのに十分な資本を遊離させる[461]

という主張であるが、この主張の誤りは、すでに第13章第6節で指摘されていたように、

新機械設備の採用または旧機械設備の拡張などによって、可変資本の一部が不変資本に転化される場合、資本を「拘束」し、まさにそうすることによって労働者を「遊離させる」この操作を、……その逆に、それは労働者のために資本を遊離させるものと解釈していること[668]

にあった。本節の当該部分では、この問題がより詳細に批判的に分析される。

労働者から「遊離される」可変資本部分が、

機械が市場に投げ出したのと同じ数の労働者を市場から救い出すのに、ちょうど十分な大きさで……ある限り、一般的労働需要にたいする影響はゼロであろう。もしその資本がより少数の労働者を就業させるならば、過剰労働者の数が増大し、もしより多数の労働者を就業させるならば、一般的労働需要は、その就業者が「遊離労働者」を超える分だけ増大する。[669]

すなわち、資本主義的生産の機構は、資本の絶対的増大が、それに照応する一般的労働需要の増加をともなうことのないように配慮する。……労働にたいする需要は資本の増大と同一ではないし、労働の供給は労働者階級の増大と同一ではないのであり、したがって相互に独立する二つの力能が互いに作用し合うのではない。[669]

本節で考察されている「相対的過剰人口」あるいは「産業予備軍」が及ぼす、労働の需要供給法則への影響について、マルクスは、つぎのように指摘している。

相対的過剰人口は、労働の需要供給の法則が運動する場の背景である。相対的過剰人口は、この法則の作用範囲を、資本の搾取欲および支配欲に絶対的に適合する限界内に押し込める。[668]

資本の蓄積が、一方では労働にたいする需要を増大させるとすれば、他方では労働者の「遊離」によって労働者の供給を増加させるが、それと同時に、失業者の圧迫が就業者により多くの労働を流動させるよう強制し、したがってある程度、労働供給を労働者供給から独立させる。この基盤の上における労働の需要供給の法則の運動は、資本の専制支配を完成する。[669]

資本の蓄積の進行による、この労働者人口の需要供給運動は、資本の蓄積の進行自身が分離を進行させる、「産業予備軍」と「現役軍」とが、協同し連帯し、総労働者人口、すなわち労働者階級が自分たちの生命と生活とに及ぼす影響を「打破または弱化」するために自分たち自身を組織し、行動することによって、「資本の専制支配」を完成する傾向ではない運動へと、変化する。

それゆえ、……彼らが“労働組合”などによって就業者と失業者とのあいだの計画的協力を組織しようとつとめるやいなや、資本とそのへつらい者である経済学者は、「永遠の」、いわば「聖なる」需要供給法則の侵害についてがなりたてる。……他方では、……「聖なる」需要供給法則に反抗し、強制手段によってこの法則を矯正しようと努める。[669-670]

したがって、こういうことになる。資本の蓄積の進行は、この資本蓄積の進行そのものによって、ますます「相対的過剰労働人口」を生みだし、増大させるが、同時に、この「相対的過剰人口」をふくむ総労働者人口の「結合」を促進し――ただし、そのためには、資本主義的生産の内部における、彼ら自身の位置と役割についての「秘密」を、彼らが「発見」しなければならないのであるが――、すなわち労働者階級と資本家階級とのあいだの利害の対立をますます先鋭化させてゆく。



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