第1部:資本の生産過程

第7篇:資本の蓄積過程

第23章:資本主義的蓄積の一般的法則

第1節
資本の構成が不変な場合における、蓄積にともなう労働力需要の増大



資本の構成

「資本の構成が不変な場合」とは、どのようなケースを言うのだろうか。

まず、マルクスは言う。

資本の構成は二重の意味に解されなければならない。[640]

資本の価値構成

価値の面から見れば、この構成は、資本が不変資本すなわち生産手段の価値と、可変資本すなわち労働力の価値、労賃の総額とに分割される比率によって規定される。[640]

資本の技術的構成

生産過程で機能している素材の面から見れば、どの資本も生産手段と生きた労働力とに分かれるのであり、この場合の資本の構成は、一方で充用される生産手段の総量と、他方ではその充用に必要な労働量との、比率によって規定される。[640]

資本の有機的構成

この両者〔資本の価値構成と資本の技術的構成〕のあいだには緊密な相互関連がある。この関連を表現するために、私は、資本の技術的構成によって規定され技術的構成の変化を〔自己のうちに〕反映する限りでの資本の価値構成を、資本の有機的構成と名づける。簡単に資本の構成と言う場合には、つねに資本の有機的構成と解すべきである。[640]

社会的資本の構成

一定の生産部門に投下される多数の個別資本は、それぞれ多かれ少なかれ互いに異なる構成をもっている。これら諸資本の個別的構成の平均が、この生産部門の総資本の構成となる。最後に、すべての生産諸部門の平均的構成の総平均が、一国の社会的資本の構成となるのであり、以下では結局この社会的資本の構成のみが問題にされる。[640-1]

資本の構成が不変であるということとは

「資本の構成が不変な場合」とは、すなわち、充用される生産手段の総量と、その充用に必要な労働量との比率が、一定であり、そのために、資本が不変資本(生産手段の価値)と、可変資本(労働力の価値、労賃の総額)とに分割される比率が、一定である場合のことである。

他の事情が不変であるとともに、資本の構成も不変のままである――すなわち、一定量の生産手段または不変資本が運動させられるためにはつねに同じ量の労働力を必要とする――と想定すれば、明らかに労働にたいする需要と労働者の生活維持元本とは資本に比例して増加し、資本が急速に増加すればするほどそれだけ急速に増加する。[641]

すなわち、マルクスは、この節で、まず「労働者たちにとってもっとも有利な蓄積条件」([645])を想定したうえで、「資本の増大が労働者階級の運命におよぼす影響」([640])について考察をすすめているわけだ。

労働の需要と労働元本とが資本に比例して増加する

資本の増大は、資本の可変的構成部分、すなわち労働力に転換される構成部分の増加を含む。追加資本に転化される剰余価値の一部は、つねに可変資本、または追加的労働元本に再転化されなければならない。……資本は年々剰余価値を生産し、そのうちの一部分は年々原資本につけ加えられる……また、この増加分そのものは、すでに機能している資本の大きさが増大するのにともなって年々増加する……たとえば……新市場・新投資領域の開拓のような、致富衝動の特別な刺激のもとでは、蓄積の規模は、資本と収入とへの剰余価値または剰余生産物の分割の単なる変化によって、突然に拡大しうる[641]

このような前提のもとでは、

資本の蓄積欲求が労働力または労働者数の増加をしのぎ、労働者にたいする需要がその供給をしのぎ、それゆえ労賃が騰貴することがありうる。それどころか、上の前提がそのまま持続する場合には、……毎年、前年よりも多くの労働者が就業させられるのであるから、遅かれ早かれ、蓄積の欲求が労働の普通の供給を超えて増大しはじめる時点、したがって賃金上昇が起こる時点が到来せざるをえない[641]

とはいえ、賃労働者が維持され増殖される事情が有利になるか不利になるかということは、資本主義的生産の基本的性格をなんら変えるものではない。……蓄積は、拡大された規模での資本関係を――一方の極にはより多くの資本家またはより大きな資本家を、他方の極にはより多くの賃労働者を――再生産する。……資本の蓄積はプロレタリアートの増加である。[641-2]

労働者層の増大傾向を保証する方法

第22章第2節でマルクスが指摘していたように、古典派経済学の人びとは、「資本の蓄積はプロレタリアートの増加である」という認識に到達していた。彼らの理解をより忠実に表現すれば、むしろ、「プロレタリアートの増加は資本の蓄積の必要条件である」という命題になるかもしれない。

すなわち、資本の蓄積のためには、「プロレタリアート」の増加を保証する必要がある、という経済学研究が発達したようだ。

1696年……ジョン・ベラーズ……「……一人の労働者もいなければ、富者が労働者にならなければならないであろう。そして労働者は人々を富裕にするのであるから、労働者が多ければ多いほど、ますます富者も多くなるであろう。……」【『産業高等専門学校設立の提案』、2ページ】[642]

……バーナード・ド・マンドヴィル……「……貧民の大部分が決してのらくらでなく、しかも彼らの得る収入を絶えず支出することは、すべての富裕な諸国民の利益である。……働く者を勤勉にしうる唯一のものは適度な労賃である。少なすぎる労賃は、彼の気質しだいでは、彼を意気消沈させたりやけにならせたりするし、多すぎる労賃は、彼を横着にし怠惰にする……もっとも確実な富は勤勉な貧民がおびただしくいることにあるということが明らかになる。……社会」(もちろん非労働者から成り立っている社会)「を幸福にし、人民そのものをみじめな状態で満足させるには、大多数の者がいつまでも無知であり、貧しくあることが必要である。知識はわれわれの願望を拡大して何倍にもするのであって、人の願望するものが少なければ少ないほど、それだけ彼の欲求もより容易に満たされうる」。【『蜜蜂物語』、第5版、ロンドン、1727年、注釈、212、213、328ページ】[643]

まあ、言いたい放題のことを言ってくれたものである。

マルクスは、このような「分析結果」にたいして、つぎのように指摘している。

蓄積過程そのものの機構が、資本とともに「勤勉な貧民」――すなわち自分の労働力を、増大する資本の増大する価値増殖力に転化させ、まさにそうすることによって資本家のうちに人格化されている自分自身の生産物へのみずからの従属関係を永久化させざるを得ない賃労働者――の総数を増加させる[643]

マルクスが「アダム・スミスの弟子のなかで、18世紀中になにがしか重要な仕事をしたただ一人の人」と評価している、サー.F.M.イーデン(Sir Frederic Morton Eden 1766-1809)は、著書のなかでつぎのように述べている。

「私たちの地域は欲求を充足するために労働を必要としており、それゆえ少なくとも社会の一部分はたゆまず労働しなければならない。……若干の人々は、労働しないにもかかわらず、この勤勉の生産物を支配することができる。……彼らは市民的諸制度のまったくの創造物なのである。……これらの制度は、人が労働によらなくとも労働の果実を取得できるということを承認している……独立の財産をもつ人々がその財産を得たのは、ほとんどまったく……他人の労働のおかげであり、彼ら自身の能力……のおかげではない。富者を貧者から区別するものは、土地と貨幣の所有ではなく、労働にたいする支配権である。……」【『貧民の状態、またはイギリスの労働階級の歴史』、第1巻、第1部、第1章、1、2ページ、および序言、XXページ】[643-4]

マルクスが注(73)で指摘しているように、イーデンは、「法律を物質的生産諸関係の産物と見るのではなく、その逆に生産諸関係を法律の産物とみなしている」[644]。しかし、彼は、資本家階級と労働者階級の従属関係を、的確にとらえていた。

労働者の消費元本の増加

これまで想定された、労働者たちにとってもっとも有利な蓄積条件のもとでは、資本への彼らの従属関係は、……資本の増大にともなっていっそう内包的となるのではなく、いっそう外延的となっていくにすぎない。……ますます膨脹し、ますます多く追加資本に転化されていく労働者たち自身の剰余生産物のうち、ますます大きな部分が支払手段の形態で彼らの手に還流していき、その結果、彼らは自分の享受の範囲を拡大し、自分の衣服や家具などの消費元本を比較的十分に準備し、わずかながらの積立金をつくることができる。しかし衣食や待遇が改善され“特有財産”が増えても奴隷の従属関係と搾取とがなくならないのと同じように、賃銀労働のそれもなくなりはしない。資本の蓄積の結果としての労働の価格の騰貴は、実際には、賃労働者がみずからすでに鍛え上げた金の鎖の長さと重さが、いくらかその張りのゆるみを許す、ということを意味するにすぎない。[645-6]

労働価格の騰貴の限界

剰余価値の生産または貨殖が、この〔資本主義的〕生産様式の絶対的法則である。労働力は、それが生産手段を資本として維持し、それ自身の価値を資本として再生産し、不払労働の形で追加資本の源泉を提供する限りでのみ、販売されうる。したがって、労働力の販売の諸条件は、労働者にとって有利であると不利であるとを問わず、労働力の不断の再販売の必然性と、資本としての富の不断の拡大再生産とを含んでいる。……

……労賃は、その本性から、労働者の側での一定分量の不払労働の提供をつねに条件としている。労働の価格下落をともなう労賃の騰貴などはまったく別として、労賃の増加は、せいぜい、労働者が提供しなければならない不払労働の量的減少を意味するだけである。この減少は、それが制度そのものを脅かす点までは決して進みえない。[647]

労働価格の騰貴が継続する場合

労働価格の騰貴が、資本の蓄積の進行をさまたげないかぎり、それは継続する。

「利潤が減少する場合でさえも、資本は増加する。それは以前よりも急速にさえ増加する。……大資本は、利潤が小さい場合でさえ、大きな利潤をともなう小資本よりも、一般に、いっそう急速に増加する」【A.スミス『諸国民の富』、第1巻、189ページ】[647]

この場合には、

不払労働が減少しても、資本支配の拡大は決してさまたげられない

労働力または労働者人口の絶対的または比例的増大の減退が資本を過剰にするのではなく、逆に、資本の増加こそが搾取されうる労働力を不足にする[648]

労働価格の騰貴によって資本の蓄積が衰える場合

蓄積が減少すれば、資本主義的生産過程のしくみそのものが、この減少の原因となっている、「一時的な」障害を取りのぞく。「労働価格は、ふたたび資本の価値増殖欲求に照応する水準にまで低下する」。

この水準が、いまや賃銀増加の始まるまえに標準なものとみなされていた水準よりも、以下であろうと以上であろうと、または等しかろうと、論外である。[648]

この場合には、

労働力または労働者人口の絶対的または比例的増大の増進が資本を不足にするのではなく、逆に、資本の減少こそが搾取されうる労働力――またはむしろその価格――を過剰にする。[648]

資本の大きさと労働人口の関係――その本質

上記の二つのケースから、見かけ上「資本の大きさと労働人口との関係」のように表われる現象について、つぎのことが言える。

資本の蓄積におけるこの絶対的運動が、搾取されうる労働力の総量における相対的運動として反映するのであり、それゆえ、この労働力の総量の独自な運動に起因するかのように見えるのである。数学的な表現を用いれば、蓄積の大きさは独立変数であり、賃銀の大きさは従属変数であって、その逆ではない。[648]

資本、蓄積、および賃金率の関係〔フランス語版と英語版では「資本の蓄積と賃金率との関係」〕は、資本に転化された不払労働と、追加資本の運動に必要な追加労働との関係以外のなにものでもない……。したがってそれは、一方では資本の大きさと、他方では労働者人口の数という、互いに独立する二つの大きさのあいだの関係では決してなく、むしろ結局は、同じ労働者人口の不払労働と支払労働との関係にすぎない。[649]

すなわち、「資本の大きさと労働人口」あるいは「資本の蓄積と労賃」の相関関係の内実は、つぎの通りである。

もし、……不払労働の量が、支払労働の異常な追加によらなければ資本に転化されえないほど急速に増大するならば、賃銀が上昇し、そして他のいっさいの事情が不変ならば、不払労働がそれに比例して減少する。しかし、この減少が、資本を養う剰余労働がもはや標準的な量で提供されなくなる点に接触するやいなや、一つの反作用が生じる――すなわち、収入のうちの資本化される部分が減少し、蓄積が衰え、賃銀の騰貴運動は反撃を受ける。したがって労働価格の高騰は、資本主義制度の基礎を侵害しないだけでなく、より拡大された規模でのこの制度の再生産を保証しもする限界のうちに閉じ込められ続ける。[649]

自然法則にまで神秘化されている資本主義的蓄積の法則は、実際には、資本主義的蓄積の本性が、資本関係の不断の再生産、およびその絶えず拡大する規模での再生産に重大な脅威を与えかねないような、労働の搾取度のあらゆる減少または労働価格のあらゆる騰貴を排除することを、表現するにすぎない。[649]

資本主義的生産様式においては、このような傾向以外の傾向はありえない。なぜなら、

労働者が現存価値の増殖欲求のために存在するのであって、その逆に対象的富が労働者の発達欲求のために存在するのではない[649]

からである。



Copyright 2005 Kyawa, All Rights Reserved.