第1部:資本の生産過程

第7篇:資本の蓄積過程

第21章
単純再生産



第7篇の序論

本来、この21章の前に、序論的なひとまとまりの叙述がある。訳注によれば、フランス語版でははっきりと「序論」と見出しがあるとのこと。第7篇“資本の蓄積過程”で論じられる内容についての理論的前提が述べられている。

「資本の蓄積」とは

なお、注によれば、マルクスに先んじて、すでに「資本の蓄積」というカテゴリーは存在していた。注にはマルサスの著作からの引用があり(注(21))、本文にも、

剰余価値を資本として用いること、あるいは剰余価値を資本に再転化することは、資本の蓄積と呼ばれる。[605]

とある。

資本の流通過程について

ある貨幣額が生産手段と労働力とに転化することは、資本として機能すべき価値分量が行なう第1の運動である。この運動は市場で、すなわち流通部面で行なわれる。[589]

第3篇第6章“不変資本と可変資本”参照。価値移転や価値増殖は生産過程で行なわれるにしろ、まず、商品市場でもって、生産手段と労働力が贖われなければならない。

運動の第2の局面である生産過程は、生産手段が商品に転化されると同時に完了するが、この商品の価値はその構成諸部分の価値を超えており、したがって最初に前貸しされた資本に剰余価値を加えたものを含んでいる。これらの商品は、それからふたたび流通部面に投げ込まれなければならない。これらの商品を売り、それらの価値を貨幣に表現し、この貨幣をあらためて資本に転化する……。いつも同じ継起的な諸局面を通過するこの循環は、資本の流通を形成する。[589]

蓄積の第一の条件は、資本家が自分の商品を売り、それで得た貨幣の大部分を資本に再転化するということをすでになし終えていることである。以下では、資本がその流通過程を正常に通過することが前提されている。この過程のより詳しい分析は第二部で行なわれる。[589]

剰余価値が資本に転化されるためには、まず、剰余価値を生産するべき条件が前提されなければならないし、剰余価値が実際に生産されていなければならない。

剰余価値の転化形態について

剰余価値を生産する資本家……は、なるほどこの剰余価値の最初の取得者ではあるが、決してその最後の所有者ではない。彼はあとで、社会的生産全体のなかで他の諸機能を果たす資本家たちや、土地所有者などと、この剰余価値を分け合わなければならない。それゆえ、剰余価値はさまざまな部分に分かれる。剰余価値の諸断片はさまざまな部類の人々の手にはいって、利潤、利子、商業利得、地代などのような、相互に自立したさまざまな形態を受け取る。剰余価値のこれらの転化形態は、第三部ではじめて取り扱うことができる。[589]

剰余価値が資本に転化される際、実際には、剰余価値が「利潤、利子、商業利得、地代などのような、相互に自立したさまざまな形態」に転化されているという前提が存在する。

現段階で「資本の蓄積過程」を取り扱ううえでの理論的前提

ここではわれわれは、一方で、商品を生産する資本家が商品をその価値どおりに売るものと想定し、商品市場への彼の復帰については、流通部面で資本に付着する新しい諸形態についても、またそれら諸形態のなかに包み込まれている再生産の具体的諸条件についても、さらに詳しく述べることはしない。他方、われわれは、資本主義的生産者を全剰余価値の所有者であるとみなすことにしよう。……したがってわれわれは、さしあたり蓄積を抽象的に、すなわち直接的生産過程の単なる契機として考察する。[590]

剰余価値がどのようにして資本に転化されるのか。この運動の本質を探るためには、資本の運動の局面におうじて生じるさまざまな現象の背後にある、運動の太い軌跡を見つめなければならない。

剰余価値の分割と流通の媒介運動とは、蓄積過程の単純な基本形態をあいまいにする。[590]

この点で、ここでマルクスが前提していることは、資本の蓄積過程の実際を無視するということではけっしてない。

蓄積が行なわれる限り、資本家は生産した商品の販売と、それによって得た貨幣の資本への再転化とに成功しているのである。さらに、剰余価値がさまざまな部分に分解されるということは、剰余価値の本性を変えるものではないし、また剰余価値が蓄積の要素となるために必要な諸条件を変えるものでもない。……われわれが蓄積の叙述において想定していることは、蓄積の現実の過程においても想定されている。[590]

社会的生産過程は同時に再生産過程である

生産過程は、その社会的形態がどのようなものであっても、継続的でなければならない……あらゆる社会的生産過程は、その恒常的な連関のなかで、またその更新の絶えざる流れのなかで考察すれば、それは同時に再生産過程である。[591]

まずマルクスは、生産過程の継続ということが、資本主義的生産過程に限らない、人類社会の歴史で一般的なものであることを指摘する。

生産を継続するためには、生産物のうち一定部分を、引き続く生産のための材料として確保し、補填しなければならない。一般に、あらゆる社会において、生産手段のための生産物は、生活のために消費されるべき生産物とは別に、当初からつぎの生産のための物資として生産される。

それは最初から生産的消費に予定されているのであり、その大部分はおのずから個人的消費にまったく不適当な現物形態で実存する。[591]

資本主義的生産様式のもとでは、この再生産過程は、資本の再生産過程として現われる。

資本主義的生産様式のもとでは、労働過程が価値増殖過程のための一手段としてのみ現われるのと同じように、再生産も、前貸価値を資本、すなわち自己増殖する価値として再生産するための一手段としてのみ現われる。[591]

マルクスが注(1)([592])に引用しているように、この「自己増殖する価値」の「周期的増加分」が、シスモンディの目には「資本から生じる収入」と映った。資本が「自己増殖する価値」として機能するうえで不可欠な、人間の労働、労働力への投資と消費にかんして、彼は、「社会秩序のもとでは、富は他人の労働によって自分を再生産する力を得ている」([592])として、ア・プリオリで考察無用の大前提としている。いずれにしても、シスモンディがこの現象形態の背後にある本質に到達していないにしろ、現象形態としては、たしかに、

資本価値の周期的な増加分、あるいは過程のなかにある〔活動の状態にある〕資本の周期的果実としては、剰余価値は資本から生じる収入という形態をとる。[592]

剰余価値――これをわれわれはしばらく資本家の消費元本にすぎないものとみなす[592]

この収入が資本家にとって消費元本としてのみ役立つとすれば、あるいは、周期的に獲得されるのと同じように周期的に消費されるとすれば、他の事情が変わらなければ単純再生産が行なわれる。[592]

単純再生産過程における可変資本

賃銀は「前貸し」資本

これまでの叙述のなかで、不変資本・可変資本をめぐって、「前貸し」されるものという強調がたびたび行なわれてきた。この章で、「資本の生産過程の繰り返し・継続」自体が考察されるに及んで、この「前貸し」される資本ということの意味が、よりはっきりとうきぼりになる。

単純再生産は同じ規模での生産過程の単なる繰り返しであるとはいえ、この単なる繰り返しあるいは継続は、この過程にある新しい性格を刻印する、あるいはむしろその過程が単なる孤立的な過程の経過であるかのような外観上の性格を消滅させる。[592]

生産過程は、労働力を一定期間購買することから始められるのであり、この開始は、労働〔力〕の販売期限が切れるごとに、したがって一定の生産期間、たとえば週や月などが経過するごとに、絶えず更新される。しかし、労働者は、彼の労働力が働いて自分自身の価値と剰余価値とを商品のなかに実現させたあとで、はじめて支払われる。したがって彼は、剰余価値……と同じように〔のほかに――フランス語版〕、彼自身への支払元本である可変資本を、それが労賃の形態で彼のもとに還流してくる以前に生産しているのであって、彼はこの元本を絶えず再生産する限りでのみ仕事を与えられる。[592]

労賃の形態で絶えず労働者のもとに還流するものは、労働者自身によって絶えず再生産される生産物の一部分である。資本家は労働者に商品価値を、確かに貨幣で支払う。しかし、この貨幣はただ労働生産物の転化した形態にすぎない。労働者が生産手段の一部分を生産物の転化しているあいだに、彼の以前の生産物の一部分が貨幣に再転化される。きょう、あるいは今後半年間の彼の労働は、その前の週あるいはその前の半年間の彼の労働で支払われる。[592-3]

貨幣形態が生み出す幻想は、個々の資本家や個々の労働者の代わりに資本家階級や労働者階級が考察されれば、ただちに消えてなくなる。[593]

賃銀は労働元本の特殊的現象形態

可変資本は、労働者が彼の自己維持と再生産とのために必要とし、どのような社会的生産体制のもとでもつねにみずから生産し再生産しなければならない生活手段の元本、あるいは労働元本の特殊な歴史的現象形態にすぎない。労働元本が彼の労働の支払手段の形態で絶えず彼のもとに流れてくるのは、彼自身の生産物が絶えず資本の形態で彼のもとから遠ざかるからにすぎない。[593]

マルクスはこのことを、夫役労働と比較しながら説明している。決定的な違いは、生産手段が彼、直接労働者の所有であるのか、そうではないのか、にある([593-4])。

ただし、このちがいは、労働元本の再生産過程の外観には、なんら影響しない。

他の事情が変わらなければ、彼は相変わらず週に6日間、3日は自分自身のために、3日はいまでは賃雇い主に転化してしまったもとの夫役領主のために、労働するであろう。彼は相変わらず、生産手段を生産手段として消費し、その価値を生産物に移転するであろう。生産物の一定部分は相変わらず再生産にはいり込むであろう。[593-4]

しかし、夫役労働が賃労働の形態の形態をとるのと同様に、夫役農民によってこれまでどおり生産され再生産される労働元本も、もとの夫役領主が彼に前貸しする資本という形態をとる。[594]

単純再生産過程における総資本

再生産周期数

ここでは、追加投資は想定されていない。1000ポンド・スターリングの投資によって生産された1200ポンド・スターリングの価値生産物の販売によって、資本家氏のポケットには 1000+200 ポンド・スターリングが還流してくるが、資本家氏は(いかなる手段によるかは分からないが)資本家氏の家族の生活諸手段費用として、年々200ポンド・スターリングを消費するから、次の年に投資できるのは、前の年と変わらず1000ポンド・スターリングである。

1000ポンド・スターリングの資本で周期的に、たとえば年々生産される剰余価値が200ポンド・スターリングであり、この剰余価値が年々消費されるとすれば、同じ過程が5年間繰り返されたのちには、消費された剰余価値の総額は 5×200 であり、最初に前貸しされた1000ポンド・スターリングの資本価値に等しいということは明らかである。[594]

一般的に言えば、前貸しされた資本価値を年々消費される剰余価値で割れば、最初の前貸資本が資本家によって消費し尽くされ、それゆえ消えうせてしまうまでに経過する年数、あるいは再生産周期の数が出てくる。……一定の年数が経過したのちには、彼が所有する資本価値は同じ年数のあいだに等価なしで取得した剰余価値の総額に等しく、彼が消費した価値額は最初の資本価値に等しい。……この資本の価値は、ただ彼が無償で取得した剰余価値の総額を表わしているにすぎない。彼のもとの資本の価値はもう一原子も存続していない。[594-5]

単純再生産は、長かろうと短かろうと、ある期間ののちには、どの資本をも蓄積された資本または資本化された剰余価値に必然的に転化させる。……つまり貨幣形態であろうとなかろうと他人の不払労働の体化物となるのである。[595]

資本関係の再生産

労働生産物と労働そのものとの分離、客体的な労働諸条件と主体的な労働力との分離が資本主義的生産様式の事実上与えられた基礎であり、出発点であった。[595]

第4章“貨幣の資本への転化”第3節“労働力の購買と販売”参照。

しかし、はじめはただ出発点にすぎなかったものが、過程の単なる継続、単純再生産に媒介されて、資本主義的生産特有の成果として絶えず新たに生産され、永久化される。一方では、生産過程は絶えず素材的富を資本に転化させ、資本家のための価値増殖手段と消費手段に転化させる。他方では、労働者は絶えずこの過程から、そこにはいったままの姿で――富の人的源泉ではあるがこの富を自分のために実現するあらゆる手段を奪われたものとして――出てくる。[595]

資本家による労働力の消費

生産過程は同時に資本家による労働力の消費過程でもあるから、労働者の生産物は絶えず商品に転化されるだけでなく、資本に、すなわち価値を創造する力をしぼり取る価値に、人身を買う生活手段に、生産者を使用する生産手段に転化される。それゆえ、労働者自身は絶えず客体的な富を資本として、すなわち彼にとっては外的であって彼を支配し搾取する力として生産するのであり、そして資本家もまた絶えず労働力を、主体的な、それ自身の対象化および現実化の手段から切り離された、抽象的な、労働者の単なる生身のうちに実存する富の源泉として、簡単に言えば労働者を賃労働者として生産するのである。[596]

労働者による生産手段の消費

生産そのものにおいて、彼はその労働によって生産手段を消費し、それを前貸資本の価値より大きい価値の生産物に転化させる。これは彼の生産的消費である。それは同時に、彼の労働力を買った資本家による彼の労働力の消費でもある。[596]

労働者による生活手段の消費

賃銀によって労働者が生活手段を購入することは、生産過程において生産手段を消費することとはまったく別の、個人的消費である。

しかし、この個人的消費を、資本の再生産過程のなかで考察すると、彼のこの消費行動が、彼の労働力の発揮を再生産し、資本の再生産の新たな契機となっていることが明らかになる。

資本家が自分の資本の一部分を労働力に転換すると、彼はそれによって自分の総資本を増殖する。彼には一石二鳥である。彼は、自分が労働者から受け取るものからだけでなく、自分が労働者に与えるものからも利益を得る。労働力と引き換えに譲渡される資本は生活手段に転化され、この生活手段の消費は、現存する労働者の筋肉、神経、骨、脳髄を再生産して、新しい労働者を生み出すために役立つ。それゆえ、労働者階級の個人的消費は、絶対に必要なものに限って言えば、資本が労働力と引き換えに譲渡された生活手段の、資本によって新たに搾取されうる労働力への再転化である。それは、資本にとってもっとも不可欠な生産手段である労働者そのものの生産および再生産である。[597]

見かけ上の「自由」、見えない軛

社会的観点から見れば、労働者階級は直接的な労働過程の外部でも、死んだ労働用具と同じように資本の付属物である。……個人的消費は、一方では彼ら自身の維持と再生産のために配慮し、他方では生活手段を消滅させることによって、彼らが絶えず労働市場に再出現するように配慮する。ローマの奴隷は鎖によって、賃労働者は見えない糸によって、その所有者につながれている。賃労働者の独立という外観は、個々の雇い主が絶えず替わることによって、また契約という“法的擬制”によって維持される。[599]

「見えない糸」が「目に見える軛」として社会的に露になることがある。

「居住地選択の自由」にたいする制限というのは、いわゆる社会主義を看板にしていた一部の国家の十八番のように言われているが、マルクスによれば、かつて、かのイギリスで、「自由な経済発展」の名のもとに、労働者の移住が法的に制限されていたという。

以前には資本は、自分にとって必要と思われた場合には、自由な労働者にたいする自分の所有権を強制法によって通用させた。たとえば、イギリスでは機械労働者の移住が1815年にいたるまで重刑をもって禁止されていた。[599]

1861年にアメリカ南北戦争が勃発し、綿業恐慌がイギリスを襲った。このとき綿業労働者の多くが失業し、新たな仕事を植民地ヨーロッパ大陸やアメリカ合衆国にもとめたときにも、議会は彼らの移住を、事実上阻止した。

彼らの移住は阻止された。彼らは綿業地域の「道徳的“労役場”」に閉じ込められ、そして相変わらず「ランカシャーの綿業主の強み」となっている。

注(16)議会は移民のために一文の支出も議決もしないで、労働者を生死の境で維持する権限、すなわち正常な賃銀を支払わないで彼らを搾取する権限を市当局に与える法律だけを議決した。これに反して、3年後に牛ペストが発生したときには、議会は乱暴にも議会の作法すら破って、百万長者である地主の損失を補償するためただちに数百万の支出を議決した。しかし、これらの地主の借地農場経営者はもともと肉価の騰貴によって損失をまぬがれていたのである。[602-3]

彼の経済的隷属は、彼自身の販売の周期的更新や、彼の個人的雇い主の交替や、労働〔力〕の市場価格の変動によって、媒介されると同時におおい隠されている。[603]

資本関係そのものが再生産される

したがって、資本主義的生産過程は、その連関のなかで考察すれば、すなわち再生産過程としては、商品だけを、剰余価値だけを生産するのではなく、資本関係そのものを、一方には資本家を、他方には賃労働者を生産し、再生産するのである。[604]



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