第1部:資本の生産過程

第4篇:相対的剰余価値の生産

第13章:機械設備と大工業

第7節
機械経営の発展にともなう労働者の反発と吸引。綿業恐慌



「就業労働者数の相対的減少は、その絶対的増加と両立する」

資本主義的生産様式を永遠に存続するものと前提する経済学者たちにとっても、機械経営が労働者たちに及ぼす影響のおぞましさは明白であったし、少しでも理性的にその実態に相対するものは、その改善を志向もする。

では、彼らがこぞって出す切り札は、なにか? 機械設備は、その採用期および発展期の恐怖ののちには、労働奴隷を最終的には減少させないで、結局はこれを増加させる、ということである![471]

すなわち、経済学者たちは次のように展望しているというのだ。労働者の奴隷状態をつくり出している失業者群は、一定期間ののちには――それは短いかもしれないし相当長いかもしれないが――より多くの労働需要が発生することによって、また労働現場にもどることができると。

マルクスは、この考え方を指して、“失業期の恐怖を味わっていた労働者が、奴隷状態で搾り取られる工場現場で苦役の恐怖を味わうことで、「事は成れり」と喜んでいる”と皮肉っている。そして、失業者群がはたして資本主義的機械経営の発展自体で解決されるのか、と問題提起をしている。

マルクスはこの節で、これまでの節で考察してきた、機械経営が「過剰人口」を増大させる傾向――すなわち就業労働者数を減少させる傾向と、機械経営がそれまでの生産様式を駆逐していくなかで就業労働者総数を増大させる傾向とについて、それらの一見相反する傾向が両立しうるということを検証している。

就業労働者数の相対的減少と絶対的減少が結びついている事例

確かに、すでに二、三の実例、たとえばイギリスの梳毛糸工場や絹工場において明らかにされたように、工場諸部門の異常な拡張は、一定の発展度に達すると、使用された労働者数の相対的減少だけではなく絶対的減少とも結びついていることがありうる。[471]

この事例はすでにこの章の第3節のC項「労働の強化」で挙げられていたものである。第3節Cの事例では、とくに1856年と1862年のあいだの変化が著しい。工場の機械設備が増加する一方で就業人員が減少している。

就業労働者数の見かけ上の増加

経験的に与えられた場合においては、就業工場労働者の増加は、しばしばただ外見的なものにすぎない。すなわち、その増加は、すでに機械経営を土台とする工場の拡張によるものではなくて、副次的諸部門の漸次的併合によるものである。[472]

この部分では、マルクスは就業労働者総数の減少傾向についての検証を行なっている。その事業部門自体の拡張によって就業労働者数を増加させた綿業工場にたいして、この事業部門と関連する繊維工業の諸部門――じゅうたん、リボン、亜麻などの事業部門では、機械経営の導入によって、機械経営工場における就業労働者数は増加したものの、それまで手工業的マニュファクチュア的工場で就業していた労働者の多くを排出した。また、多くの機械経営工場では、就業労働者のなかの女性や児童、年少者の比率が高められた(このことはすでに第3節のC項「労働の強化」で指摘されていた)。

これらの工場労働者の増加は、就業労働者の総数における減少の表現にすぎなかった。[472]

総資本の構成の変化と総資本の絶対的増大

このように機械経営によって、それまでの手工業的マニュファクチュア的工場から、多くの労働者が機械設備と置き換えられ、工場の外に投げ出されることになるし、その傾向はますます強められる。しかし――とマルクスは続ける――それにもかかわらず、機械経営の進展は、そのはき出された労働者数よりも多くの労働者を工場に吸収する。

ここでマルクスは、第6節で検証された、総資本の構成比の変化をもう一度検証している。手工業的マニュファクチュア的経営のもとでの不変資本部分よりも、機械経営のもとでの不変資本部分の構成比の方が大きくなる。可変資本部分である賃銀には、より小さい比率で構成された資本部分があてられることになるから、その分だけ労働者が解雇されることになる。

ただし、総資本自体が大きくなれば、構成比は小さくなっても、可変資本にあてられる構成部分の絶対的大きさは以前の経営様式と同じか、それよりも大きくなりうる。

(単位:ポンド・スターリング)総資本不変資本可変資本
機械経営以前[A]500(100%)200(40%)300(60%)
機械経営以前[C]2,000(100%)800(40%)1,200(60%)
機械経営[A]500(100%)400(80%)100(20%)
機械経営[B]1,500(100%)1,200(80%)300(20%)
機械経営[C]2,000(100%)1,600(80%)400(20%)

ここでは、生産手段価値や労働力価値の変動がないという前提で、可変資本の構成比率が比較されている。

たとえば労働者1人あたり1ポンド・スターリングずつ、支出されるとしよう。……使用資本が……2000ポンド・スターリングに増加すれば、400人の労働者が、したがってもとの経営様式の場合より1/3だけ多くのものが就業させられる。使用労働者数は、絶対的には100人だけ増加したが、相対的には、すなわち投下された総資本にたいする割合では、800人だけ減少した。なぜなら、2000ポンド・スターリングの資本は、もとの経営様式では400人の労働者ではなく、1200人の労働者を就業させたであろうから。こうして、就業労働者数の相対的減少は、その絶対的増加と両立する。[473]

機械設備や原料からなる不変資本部分は、機械経営の発展とともに増大し、それにともなって可変資本部分は減少する。この機械経営の発展、改良は、これまでの手工業的マニュファクチュア的経営にくらべて頻度が高いから、不変資本部分の構成比の増大も格段に速度をはやめる。

しかし、この絶え間ない変動も、また、休止点によって、さらに、与えられた技術的基盤の上における単に量的な拡張によって、絶えず中断されている。それとともに、就業労働者の数は増加する。[473]

ここで言われる「休止点」とはどういう状態をさしているのだろうか。“恐慌”あるいは“停滞期”のことなのだろうか。また「与えられた技術的基盤の上における単に量的な拡張によ」る中断とは、どういう状態のことなのだろうか。

機械経営の拡張傾向の巨大さと世界市場への依存性

われわれの理論的叙述そのものがまだ説きおよんでいない純事実的諸関係に、部分的にふれておこう。[474]

マルクス自身がこのように断わっているように、この段落で概略的に展開されている機械経営の拡張と世界市場との関連については、たぶん第1部第7篇で具体的に考察されるものと思われる。

この叙述をめぐってマルクス本人と編者エンゲルスの、アメリカ合衆国に関する注がある。当時、「工業を主とする生産地」であったイギリス本国の植民地であったアメリカ合衆国は、「農業を主とする生産地に転化させ」られていた[475]。

(234)合衆国の経済的発展は、それ自身ヨーロッパ、とりわけイギリスの、大工業の産物である。合衆国は、そのこんにちの姿(1866年)においても、相変わらずヨーロッパの植民地とみなさなければならない。{第4版のために。――その後、合衆国は世界第2の工業国へと発展したが、それで植民地的性格をまったく失ったわけではない。――F.エンゲルス}[475]

その後、第1次世界大戦によるヨーロッパ全土の荒廃により、本土が直接戦火を受けなかったアメリカ合衆国が、ヨーロッパの植民地的位置から経済的にも完全にぬけだすことになる。

労働者の反発と吸引

工場制度の巨大な飛躍的な拡張可能性と世界市場への工場制度の依存性とは、必然的に、熱病的な生産とそれに続く市場の過充をつくり出すが、この市場の収縮とともに麻痺が現われる。産業の生活は、中位の活気、繁栄、過剰生産、恐慌、停滞という諸時期の位置系列に転化する。機械経営が労働者の就業に、それとともにその生活状態に押しつける不確実性と不安定性とは、産業循環の諸時期のこのような変動にともなう正常なものとなる。[476]

「市場の過充」が「市場の収縮、麻痺」に転換する契機について、また、経済の「中位の活気、繁栄、過剰生産、恐慌、停滞」という周期がなぜ発生するのかについては、ここではくわしくふれられていない。これらもまた第1部第7篇で考察されるのだろうか。いずれにしろ、ここでは、「繁栄期」をのぞいて実際に行なわれた、賃金切り下げ傾向が告発されている。

(235)……――産業の不況期さえも工場主たちは利用して、過度の賃銀切り下げにより、すなわち労働者の最低生活必需品の直接的な略奪によって、法外な利潤を得ている。……――「私が、工場主からも労働者からも得た報告によると、疑いもなく、賃銀は、外国の生産者との競争あるいはその他の事情によって余儀なくされたよりも、さらに大幅に切り下げられた。……賃銀の切り下げは、需要の刺激に必要とされるよりも大きい。実際において、多くの種類のリボンの場合、賃銀の切り下げにともなって製品価格がいくらかでも引き下げられたことは一度もない」(『児童労働調査委員会、第5次報告書。1866年』、114ページ、第1号におけるF.D.ロンジの報告)。[476]

この賃銀切り下げ傾向は、機械経営を導入する速度が、不況期においてますます高まるということと相まって、商品価格を引き下げようとする経営者たちの傾向によって高められていく。

繁栄期をのぞいて、資本家のあいだには、市場における個人的分け前をめぐるきわめて激しい闘争が荒れ狂う。この分け前は、生産物の安さに正比例する。このため、労働力に取って代わる改良された機械設備と新生産方法とを使用する競争が生じるほかに、労賃を労働力の価値以下に強力的に押し下げることによって商品を安くしようと努力する一時点が、そのつどに現われる。[476]

マルクスはすでに「就業労働者数の相対的減少は、その絶対的増加と両立する」ことを検証しているが、就業労働者の絶対数が増加するためには、彼らが就業する生産ラインに投下される総資本が、就業労働者数が増加する割合よりもはるかに大きい割合で増加しなければならない。しかし、投下される総資本の増加割合が急速に大きくなる期間は限られている。このことは先にマルクスが「産業循環の傾向」として指摘していた。

産業の生活は、中位の活気、繁栄、過剰生産、恐慌、停滞という諸時期の一系列に転化する。[476]

機械設備そのものの改良によって、同程度の投資で以前よりも生産力を上げることが可能になれば、総資本のうちの可変資本部分の比率は相対的に小さくなりうる。また、就業労働者の絶対数が大きくなるということは、同一の労働者がふたたび工場にもどるということを意味しない。

このように労働者は不断に、反発されたり吸引されたり、あっちにやられたりこっちにやられたりするのであって、しかも、徴募されるものの性、年齢、および熟練さは絶えず変動する。[477]

マルクスは過去十数年間のイギリス綿工業をめぐる歴史を概観して、この指摘を裏付けている。[477-9]

イギリス綿工業をめぐる歴史

1770-1815イギリス綿工業による機械設備と世界市場の独占。あいだに5年間の不況、沈滞期
1815-1821不況期
1822-1823繁栄期
1824労働者組織の設立や活動を禁止した団結禁止法の廃止。工場の全般的拡張
1825恐慌
1826綿業労働者の労働生活条件の悪化、暴動
1827小規模の好転
1828蒸気織機の増加。輸出の増加
1829輸出規模がこれまででもっとも大きくなる(とくに対インド輸出)
1830市場の過充、困窮
1831-1833持続的な不況。東インド会社の貿易独占権廃止
1834工場と機械設備の増加。労働力の不足。救貧法改定にともなう、農村から工場地域への児童を含む労働者の集中
1835大きな繁栄期。綿手織工の餓死
1836大きな繁栄期
1837-1838不況、恐慌
1839回復期
1840大不況。暴動の勃発と軍隊の干渉
1841-1842工場労働者の窮乏。穀物法撤廃のための大規模な首切り。反対運動の軍隊による弾圧
1843ひどい窮乏
1844回復
1845大繁栄
1846初期の持続的高揚期。続いて反動期。穀物法撤廃
1847恐慌。賃銀の大幅な切り下げ(10%ないしそれ以上)
1848持続的不況
1849回復
1850繁栄
1851物価下落、賃銀低下、ストライキの頻発
1852好転へ。ストライキ継続
1853輸出上昇。プレストンで8カ月にわたるストライキ、窮乏
1854繁栄、市場の過充
1855アメリカ合衆国、カナダ、東アジアなどから破産報告が殺到
1856大繁栄
1857恐慌
1858好転
1859大繁栄。工場増加
1860イギリス綿工業の絶頂期。インド、オーストラリアなどで供給過剰。英仏通商条約締結。工場および機械設備の膨大な増加
1861初期には前年からの高揚が継続。つづいて反動。アメリカ南北戦争、綿花飢饉
1862-1863完全な崩壊。綿業恐慌

綿業恐慌

この章に入ってから、レナド・ホーナーに代わって頻繁に登場するようになる工場監督官A.レッドグレイヴ(Alexander Redgrave 1818-1894)。彼の報告書の記述は、先の節でもよく引用されていたが、機械経営の実態が緻密な調査にもとづいて、機械設備の発展とそのもとでの労働者の実態の両面から、詳細に記述されているのが特徴的だ。マルクスは彼の調査報告にもとづいて綿業恐慌の実態を分析している。

興味深いのは、綿花飢饉による小規模工場の閉鎖、小規模経営者の破産によって、より大規模な工場経営者のもとにもうけが集中することになり、綿業恐慌が大規模工場主たちにとっては有利にはたらいたということである。当時、イギリスの綿工場の数は2,887。レッドグレイヴの管轄区域内にはそのうちの7割以上の工場があったという。うち25%の工場は「中小規模」工場で、20馬力未満の蒸気機械で操業していた。あとの75%は20馬力以上の蒸気機械設備で操業する比較的「大規模」な工場であった。中小規模の工場の多くは、1858年以降の好況期に操業が開始されたもので、そのほとんどが綿花飢饉による恐慌のなかで没落していったという。

彼らは工場主の数の1/3を占めていたとはいえ、彼らの工場は綿工業に投下された資本のうち比較にならないほどわずかの部分しか取り込んでいなかった。[480]

一方、綿業恐慌による生産ラインの状況は、

信頼できる評価によると、1862年10月に、紡錘の60.3%と織機の58%が休止していた。これは、この産業部門全体にかんするものであって、個々の地域ではもちろん非常に異なっていた。ほんのわずかな工場だけが完全操業しており(週60時間)、そのほかの工場は断続的に操業していた。[480]

この時期に“かろうじて”操業していた「ほんのわずかな工場」のなかで、労働者がどのような労働条件下におかれていたかは、レッドグレイヴの報告書で詳細に語られている。

アメリカの内乱によってアメリカ合衆国南部諸州で大規模に生産されていた良質な綿花が生産ラインにはいり込まなくなったために、粗悪な綿花が、それに代わってはいり込むことになった。そのため、それまで綿繊維精製のために添加されていた材質が、代用物に変えられた。粗悪な綿繊維は、それまでのものよりも短いから、作業場内の塵、埃はすさまじい量となった。労働条件はこれまで以上に悪化したにもかかわらず、機械設備はこれまでの綿繊維に適応させられていたために、再三に渡って故障をきたしたので、生産ラインは度々中断された。それにかかるコストは、すべて、「出来高賃金」に反映されたため、悪化した労働環境のもとで作業する従業員たちの賃金から差し引かれることになった。従業員たちの健康と賃金を犠牲にして、イギリスの綿工業の大規模工場は、綿業恐慌を乗り切ったのである。



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