第1部:資本の生産過程

第6篇:労賃

第20章
労賃の国民的相違



賃銀の国際比較を行なううえでの理論的前提

国民的諸労賃の比較にあたっては、労働力の価値の大きさの変動を規定するすべての契機――すなわち自然的な、および歴史的に発展してきた、第一次的生活必要品の価格と範囲、労働者の教育費、婦人労働および児童労働の役割、労働の生産性、労働の外延的および内包的大きさ――が、考慮されなければならない。[583]

中位の労働強度は、国々によって変動する。それは、ある国ではより大きいが、他の国ではより小さい。したがって、これらの国民的諸平均は段階状をなし、その度量単位は世界的労働の平均単位である。したがって強度の高い国民的労働は、強度の低いそれに比べて、同じ時間内に、より多くの貨幣で表現されるより多くの価値を生産する。

……世界市場では、より生産的な国民的労働は、このより生産的な国民が競争によってその商品の販売価格をその価値にまで引き下げることを余儀なくされない限り、やはり、強度のより大きい国民的労働として計算される[584]

名目賃銀、実質賃銀、相対賃銀

異なる国々で同じ労働時間内に生産される同種の商品の異なる分量は、不等な国際的価値をもち、これらの価値は、異なる価格で、すなわち国際的価値に応じてそれぞれ異なる貨幣額で表現される。したがって貨幣の相対価値は、資本主義的生産様式のより発展した国民のもとでは、発展の低い国民のもとでよりも小さいであろう。したがって、名目的労賃、すなわち貨幣で表現された労働力の等価物も、やはり、第一の国民のもとでは、第二の国民のもとでよりも高いであろう、ということになる――しかしこのことは、現実の労賃、すなわち労働者の自由な処分にゆだねられる生活手段についても同じように言えるということには決してならない。

しかし、異なる諸国における貨幣価値のこの相対的相違を度外視しても、次のことがしばしば見いだされるであろう――すなわち、日賃銀、週賃銀などは、第一の国民のもとでは、第二の国民のもとでよりも高いが、相対的労働価格、すなわち剰余価値や生産物価値との割合から見た労働価格は、第二の国民のもとでは第一の国民のもとでよりも高いということである。[584]

イギリスの諸会社は、東ヨーロッパでもアジアでも、鉄道建設を請け負った場合には、その土地の労働者とともに、一定数のイギリス人労働者を使用している。こうして、実際の必要に迫られて、労働の強度における国民的相違を考慮せざるをえなかったが、会社にとっては、このことは、なんの損害ももたらさなかった。これらの会社の経験の教えるところでは、賃銀の高さは、多かれ少なかれ中位の労働強度に照応するとはいえ、相対的な労働価格(生産物と比較しての)は、概して正反対の方向に動く。[586-7]

ケアリの賃銀理論にたいする批判

H.ケアリは、彼のもっとも初期の経済学的著作の一つである『賃銀率にかんする試論』において、異なる国民的労賃は、国民的労働日の生産性の程度に正比例することを証明し、この国際的関係から、労賃は一般に労働の生産性に応じて騰落するという結論を引き出そうとしている。剰余価値の生産にかんするわれわれの全分析は、この推論の愚かしさを証明している[587]

「剰余価値の生産にかんする分析」は、第2篇第4章第3節から第3篇、第4篇、第5篇、そして、第6篇のこれまでの章で、行なわれている。そのなかで、「労賃は労働の生産性に応じて変動する」という賃銀論の誤りが、すでに検証されている。

この章では、労賃を国際比較する場合、世界市場における価値法則が国内での働き方とはまた別の独自の働き方をすることを考慮しなければならないという指摘があった([584])。ある国とある国との、労働生産性の違いは、「より生産的な国民が競争によってその商品の販売価格をその価値にまで引き下げることを余儀なくされない限り」、労働強度の違いとして計算されることになるということ。

ケアリ(Henry Cahrles Carey [1793-1879])は、この現象を見て、それを一般的傾向として国内における労賃の法則的傾向として結論づけたのだろう。ただし、ケアリの誤りの深さは、マルクスが縷々指摘しているように、彼の出した結論を裏付けるような事実だけを取り上げたうえに、結論と反するような事実に対しては、結論と矛盾するような例外を設けて、帳尻を合わせているところにある([587-8])。



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