第1部:資本の生産過程

第4篇:相対的剰余価値の生産

第13章:機械設備と大工業

第6節
機械によって駆逐された労働者にかんする補償説



「補償説」とは

一連のブルジョア経済学者たちは、いずれも、労働者たちを駆逐するすべての機械設備が、いつの場合も同時にまた必然的に、まったく同じ労働者たちを就業させるのに十分な資本を遊離させる、と主張している。[461]

これが、この節の表題になっている「補償説」である。しかし、彼らは単に「可変資本を遊離させる」という主張をしているのではない、ということを、マルクスは指摘している。

ある資本家が、たとえば壁紙製造所で、100人の労働者を1人あたり年30ポンド・スターリングで使用するとしよう。したがって、彼が年々支出する可変資本は3000ポンド・スターリングになる。彼は50人の労働者を解雇して、1500ポンド・スターリングかかる機械設備で残りの50人を働かせるとしよう。簡単にするために、建物、石炭などは、度外視する。さらに、年々消費される原料は、これまでと同じく3000ポンド・スターリングかかると仮定する。この変態によって、なんらかの資本が「遊離」されているだろうか? もとの経営様式では、6000ポンド・スターリングの支出総額は、半分は不変資本、半分は可変資本から成り立っていた。それがいまでは、4500ポンド・スターリング(3000ポンド・スターリングは原料に、1500ポンド・スターリングは機械設備に)の不変資本と、1500ポンド・スターリングの可変資本からなっている。可変資本部分、すなわち生きた労働力に転換される資本部分は、総資本の半分ではなく、わずかに1/4をなすにすぎない。ここで生じているのは、資本の遊離ではなく、労働力と交換されることをやめる一形態に資本が拘束されること、すなわち可変資本から不変資本への転化である。[461-2]

(単位:ポンド・スターリング)支出総額不変資本可変資本
機械導入前6,0003,0003,000
機械導入後6,0003,000+1,5001,500

マルクスはためしに別のケースも想定している。50人を解雇し導入した機械設備の費用が、1500ポンド・スターリングより少ない場合、たとえば1000ポンド・スターリングだったとすればどうだろうか。差額は500ポンド・スターリング。たしかに遊離されるであろうこの500ポンド・スターリングは、1人あたりの年賃金が30ポンド・スターリングで変わらなければ約16人の労働者の年賃金に相当する。しかし、

500ポンド・スターリングは、資本に転化されるためには、ふたたび一部が固定資本に転化されなければならず、したがって一部しか労働力に転化されえない[462]

すなわち、500ポンド・スターリングは、その一部が、原料の費用として投資されなければならないから、とても16人もの労働者の人件費にあてる部分はでてこないのである。上記の例でいえば、6000ポンド・スターリングの50%、3000ポンド・スターリングが原料の費用としてあてられるから、500ポンド・スターリングのうち同じ比率で不変資本部分を算出すると、250ポンド・スターリング。機械設備の費用にあてられた資本部分比率は、機械設備にかかる費用がすでに支払われることが前提になっているから、この際算入する必要はないだろう。残りの250ポンド・スターリングが可変資本部分にあてることが可能である。1人あたりの年賃金が30ポンド・スターリングのままだとすると、約8人の労働者の年賃金に相当する。

同様にマルクスは、「新しい機械設備の製作」が雇用を拡大すると仮定した場合についても検証している。

機械設備の製作は、せいぜいのところ、機械設備の使用が駆逐するよりも少ない労働者しか雇用しない。解雇された壁紙製造工の労賃だけを表わしていた1500ポンド・スターリングの金額は、いまでは機械設備の姿態で、(1)機械設備の生産に必要な生産手段の価値、(2)機械設備を製作する機械工の労賃、(3)その「雇い主」の手におちる剰余価値、を表わしている。

「一連のブルジョア経済学者たち」の主張はつまるところ次のようになる。たしかに解雇された50人の労働者は、工場主からは「自由」になった。しかし、同時に、これまで50人の労働者に支払われる1500ポンド・スターリングによって購入されていたさまざまな生活手段は、いまは50人の労働者たちに購入されることはない。だから

機械設備は労働者を生活諸手段から遊離させるという単純な決して新しくない事実が、経済学的には、機械設備は生活手段を、労働者のために遊離させる、あるいは労働者を使用するための資本に転化させる、ということになる。……

この理論によれば、1500ポンド・スターリングの価値のある生活手段は、50人の解雇された壁紙労働者の労働によって価値増殖された資本であった。したがって、この資本は、この50人が休暇をとるとすぐにその仕事を失ってしまい、上記の50人がふたたびそれを生産的に消費できるような新たな「投資口」をみつけるまでは、落ち着くところがない。したがって、機械設備によって駆逐された労働者の苦悩は、この世の富と同じように、一時的なものである。[463]

「補償説」にたいする反証

この「ブルジョア経済学者たち」の「補償説」には「すりかえ」がある、とマルクスは指摘する。ここであげられている1500ポンド・スターリングという「遊離された」貨幣価値を詳しく考察してみよう。

1500ポンド・スターリングの金額の生活手段は、解雇された労働者50人の手から「遊離された」のである。50人の労働者にとって、それらの生活手段は商品として相対している。50人の労働者は、1500ポンド・スターリングに相当する金額の生活諸手段にたいしては、消費者として相対しているのみである。

一方、工場主が可変資本部分から不変資本部分へ転換した1500ポンド・スターリングは、機械設備を導入するまでは100人の労働者によって生産されていた壁紙生産とその販売によって、工場主が取得した貨幣のうちの一部である。剰余価値率が100%とすると、機械設備導入前、年あたり6000ポンド・スターリング(原料その他に3000ポンド・スターリング、人件費に3000ポンド・スターリング)を投資する壁紙工場の年総売上は9000ポンド・スターリング(総資本6000ポンド・スターリング+剰余価値3000ポンド・スターリング)。この100人の労働者のうち機械設備と引き換えに解雇された50人分の人件費が1500ポンド・スターリングであった。この1500ポンド・スターリングは、50人の労働者にとって、壁紙として相対していたわけでも、生活手段として相対していたわけでもない。工場主の投資する資本の一部分として、賃金として貨幣形態で彼らの生活諸手段のための「購買手段」として相対していたものである。

機械設備が彼らを購買手段から「遊離」させたという事情は、彼らを購買者から非購買者に転化させる。それゆえ、それらの商品にたいする需要は、減少する。“ただそれだけのことだ”。もしこの需要の減少が、他の方面からの需要の増加によってつぐなわれないならば、それらの商品の市場価格は下落する。そのことが、かなり長くまたかなり大規模に続くならば、それらの商品の生産に従事している労働者の移動が生じる。これまで生活必需品を生産していた資本の一部分は、ほかの形態で再生産される。市場価格が下落し、そして資本が移動しているあいだは、生活必需品の生産に従事している労働者たちも、彼らの賃銀の一部分から「遊離」される。こうして、あの弁護論者氏は、機械設備が労働者を生活手段から遊離することによって、同時にこの生活手段を労働者を使用する資本に転化することを証明するどころか、その反対に、お定まりの需要供給の法則によって、機械設備は、それが採用される生産部門においてだけでなく、採用されない生産諸部門においても、労働者を街頭に投げ出す、ということを証明する。[463-4]

マルクスはつぎに、この章の第2節でマルクス自身がすでに指摘していた視点で考察を深めている。

社会的生産過程の発展による生産性の増大と、社会的生産過程の資本主義的利用による生産性の増大とを、区別しなければならない。[445]

すなわち、機械設備による生産力向上効果そのものは、労働者から生活手段を切り離すものではないということ。機械設備の充用による矛盾は、その資本主義的充用から生じるということ。

機械設備は、それがとらえる部門の生産物を安くし、また増加させるのであって、他の産業諸部門で生産される生活手段の総量をさしあたり変化させない。したがって、機械設備の採用のあとも、社会は、非労働者によって消費される年間生産物の莫大な部分をまったく度外視しても、排除された労働者のためにこれまでと同量またはより多量の生活手段をもっている。……機械設備の資本主義的使用と不可分な矛盾や敵対関係は実存しない。なぜなら、それらは、機械設備そのものから生じるのではなく、その資本主義的使用から生じるからだ![464-5]

さきの「補償説」のような理論は、このことに目をつむっているのである。マルクスはその欺瞞にたいして、ディケンズ(Charles Dickens)の『オリヴァ・ツイスト(Oliver Twist)』に登場する「ビル・サイクス(Bill Sikes)」の言葉を使って皮肉たっぷりに、しかし本質をついた批判を行なっている。[465-6]

機械経営がもたらす雇用の増加

さらにマルクスは検証をつづける。

機械設備は、それが採用される労働諸部門においては、必然的に労働者を駆逐するとはいえ、他の労働諸部門においては雇用の増加を呼び起こすことがありうる。しかしこの作用は、いわゆる補償説とはなにも共通するものをもたない。[466]

機械によって生産される製品の総分量は、それまで手工業的マニュファクチュア的な労働によって生産されていた製品の総分量よりもはるかに多くなる。すなわち、これまで手工業的マニュファクチュア的工場で生産されていた製品よりも数多くの製品が、それまでの工場で生産にたずさわっていた労働者数より少ない労働者によって生産されるようになる。

生産される製品の総分量は多くなっているわけだから、その製品を生産するために必要な原料の生産量もそれに応じて増加されなければならない。原料の増加する比率は生産される製品総分量の増加に比例する。

労働手段――「建物、石炭、機械など」[466]については、それらの消耗を補填する労働の増加する限界が、機械設備の生産力に依存しているため、その増え方はさまざまに変動する。

労働手段そのもの、機械設備や石炭などの生産に、あるいは労働の増加が必要となるかもしれないが、この増加は、機械設備の使用によって生じた労働の減少よりも小さいに違いない。そうでなければ、機械生産物は、手工生産物と同じように高価であるか、またはより高価であるだろう。……建物、石炭、機械などのような消耗された労働手段について言えば、それらの生産に必要な追加的労働が増加しうる限界は、機械生産物の総量と、同数の労働者によって生産されうる手工生産物の総量との差につれて、変動する。[466]

したがって、ある産業部門における機械経営の拡張とともに、まず、その部門に生産手段を供給する他の諸部門の生産が上昇する。[466]

このことはたしかにその部門における就業労働者数を増加させる傾向を生じるだろう。しかし、この傾向も、さまざまな要因から、さまざまに変動しうる。まず、労働日の長さ、労働強化の度合い、そしてその生産部門に投資される資本の構成比率(不変資本と可変資本の比率)、さらにまた、その生産部門に機械経営システムが導入される度合いによっても、事情はおおいに異なってくる。

炭鉱や金属鉱山で働くように宣告された人間の数は、イギリスの機械制度の進歩とともに、恐ろしくふくれ上がった――もっともその増加も、最近数十年間には鉱山用の新機械設備の使用によって緩慢になっている。新しい種類の労働者が機械とともに生まれる、すなわち機械の生産者である。すでに述べたように、機械経営がこの生産部門そのものをも、ますます大きな規模で支配下におく。さらに原料について言えば、たとえば、綿紡績業の嵐のような進展が、合衆国の綿花栽培およびそれとともにアフリカの奴隷貿易を温室的に促進しただけでなく、同時に黒人飼育をいわゆる境界奴隷制諸州の主要事業にしたことは、少しも疑う余地がない。1790年に最初の奴隷人口調査が合衆国で行なわれたとき、その数は69万7000人であったが、それにたいして1861年には約400万人になった。他方、機械性羊毛工場の勃興が、耕地をしだいに牧羊地に転化させるとともに、農村労働者の大量追放と「過剰化」を呼び起こしたことも、同じように確かである。アイルランドでは、1845年以来ほとんど半減した人口を、アイルランドの地主とイングランドの羊毛工場主諸氏との要望に正確に照応する程度にまで、さらにいっそう削減しようとする過程が、なおこの瞬間にも行なわれている。[467]

上記引用部分で、マルクスは、「機械経営の拡張のもとにある産業部門に生産手段を供給する他の産業部門の生産の上昇」の数々の事例を、たいへんリアルに網羅している。なかでもこれまで知識がなく、そのおぞましさに戦慄したのは、アメリカ合衆国の内乱勃発まで続いていた、南部諸州と北部諸州とのあいだの「境界奴隷制諸州」における「黒人奴隷の飼育」(!)。『資本論』第1部フランス語版の注へのマルクス自身の付記によれば、

(219)……*〔……――「……これらの州は、輸出用に飼育した黒人を家畜のように南部諸州に売っていた」〕[467]

協業の発展とともに、社会的労働分業もより発展する。労働対象である原料は、いくつもの工場に分かれた、いくつもの労働過程を通過して、最終的な形態へといたる。このような通過過程のなかの、ある途中段階に機械経営がはいり込む場合にも、まだ機械設備が導入されていない作業場に機械経営による製品がはいり込むことになるので、その作業場における労働材料が急増することになり、労働需要も増加することになる。マルクスは、その具体例をあげている。

たとえば、機械紡績業は紡糸をたいへん安くまたたいへん豊富に供給したので、手織工は、さしあたりは、支出を増すことなしに十分な時間働くことができた。こうして彼らの収入は増えた。それゆえ、綿織物業への人間の流入が起こった――それは、たとえばイングランドでジェニー紡績機、スロッスル紡績機、ミュール紡績機によって生み出された80万人の綿織物工が、ついにふたたび蒸気織機によって滅ぼされるまで続いた。こうして、機械で生産された衣服材料が豊富になるとともに、裁縫工、仕立女工、縫物女工などの数が、ミシンが出現するまで増加する。[468]

機械経営の発生自体が、社会的分業の一定の発達段階を前提としたものであるが、機械経営が社会的分業を推進する作用は、それまでの手工業的マニュファクチュア的経営よりも格段に大きい。なによりも、機械経営がとらえる、社会的分業の一過程あるいは一産業部門での生産力が、それまでの協業形態よりも格段に高度の増大をとげるからである。

機械経営が比較的に少ない労働者数によって供給する原料、半製品、労働用具などの総量が増加するのに応じて、これらの原料や半製品の加工は無数の亜種に分化し、したがって社会的生産諸部門の多様性が増加する。[468]

マルクスはここで2つの興味深い指摘を行なっている。

機械のもたらすもっとも直接的な結果は、剰余価値を増加させると同時に剰余価値が表現される生産物総量を増加させることであり、したがって、資本家階級がその取り巻き連中と一緒にくい尽くす資産とともに、この諸社会層そのものを増加させることである。彼らの富が増大し、第一次的生活手段の生産に必要な労働者数が絶えず相対的に減少する[468]

ここでマルクスが「取り巻き連中」と呼んでいるのがどこまでの階層のことを指しているのか定かではないが、さしあたり想定できるのは、「個人事業主」はもちろんであるが、そのほかに事業にたずさわる会社の役員や管理職員などであろうか。これらの「諸社会層」の増加という点が1つ。もう1つは、彼らの富が増大する一方で、「第一次的生活手段の生産」にたずさわる労働者が「相対的に減少する」という点。

ここでマルクスが「第一次的生活手段の生産」と呼んでいるのは、いったい何を指しているのか。よく「第1次産業」と一般に呼ばれているのは農林水産業であるが、それらの産業部門のことなのだろうか。しかし、ここまでの文脈から推察するかぎり、どうも「食生活」だけに言及されているわけではないようだ。確かなのは、それが、原料や機械ではないことである。原料や機械設備(あるいは機械を製作する機械)は決して消費財としては労働者に向きあっていないからだ。「生活するのに最低限必要な消費財」という意味だとすれば、それは社会的歴史的にさまざまに発展変化しうる。社会生活の水準がその社会全体として向上すればするほど、その消費財の質と量とは増大するからである。マルクスは、広義の意味で、つまり、「生活するのに最低限必要な消費財」という意味で、「第一次的生活手段」という言葉を使用したのだろうか。そのように考えると、その生産にたずさわる労働者の「相対的減少」ということと、つぎにつづく「奢侈品生産の成長」という指摘が、より深刻な意味合いを持ってくる。

すなわち、この節のさいごに触れられている「家内奴隷」階層の増大をめぐる記述の現代的意味だ。イギリスにおける「召使階層」については、歴史ドラマや映画のなかで私たちの目にふれているが、現代日本において、考察対象となるべき階層は、サービス産業――いわゆる第3次産業にたずさわる労働者の相対的増大である。次の段落でもマルクスは次のような指摘をしている。

労働者数の相対的な減少にともなって、生産諸手段および生活諸手段が増加することにより、運河、ドック、トンネル、橋などのように、その生産物が遠い将来においてのみ実を結ぶような産業部門において労働の拡大が引き起こされる。直接に機械にもとづくにせよ、あるいはまさにそれに照応する一般的な産業的変革にもとづくにせよ、まったく新しい生産諸部門が、それゆえ新しい労働分野が形成される。[469]

ここでマルクスは、20世紀から21世紀初頭の資本主義社会を予測して、サービス産業の隆盛について言及したわけではない。ここで具体的に指摘されているのはむしろ、世界市場における生産関係の結びつきの発展。それにともなう輸送業の発展としての鉄道、電信、船舶関連の産業の発展。そして社会資本を整備する上で必要となる土木業全般の進展である。

しかし、ここで注目したいのは、マルクスが機械経営の傾向として指摘している次の諸点である。

機械のもたらすもっとも直接的な結果は、剰余価値を増加させると同時に剰余価値が表現される生産物総量を増加させること[468]

労働者数の相対的な減少にともなって、生産諸手段および生活諸手段が増加する[469]

大工業の諸領域で異常に高められた生産力は、他のすべての生産領域における労働力の搾取の内包的および外延的増大を現実にともないながら、労働者階級のますます大きな部分を非生産的に使用することを……可能にする。[469]



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