第1部:資本の生産過程
第4篇:相対的剰余価値の生産
第13章:機械設備と大工業
前節で保留されていた問題
工場の編成された機械体系……この客観的有機体に人間材料がどのように合体されるか[416]
が、この節で考察される。
さきに第7章で、児童労働をめぐるおぞましい弁明を行ない、これまでもたびたび登場していた化学者、アンドルー・ユア博士の、愕然とするほどの「自動化工場賛美」が引用される。このなかでマルクスはたいへん興味深い指摘を行なっている。機械設備が資本主義的でない充用のされ方をする場合と、資本主義的充用の場合との比較、という考察である。この節のなかで、後半部分でも、マルクスはつぎのようにのべている。
社会的生産過程の発展による生産性の増大と、社会的生産過程の資本主義的利用による生産性の増大とを、区別しなければならない。[445]
ユア博士の「自動化工場賛美」――まったくあきれてしまうほどのその心酔ぶりはつぎのマルクスの引用部分に典型的に現われている。
「これらの大きな作業場では、仁愛な蒸気の権力が自分のまわりに無数の家来を集めている」(179)ユア『工場の哲学』〔ロンドン、1835年〕、18ページ[442]
「仁愛な蒸気の権力」とは恐れ入った。有能な化学者であり技術者でもあるユア博士であるが、科学技術への自信過剰のあまり、それが資本主義的に充用されたときの労働者および社会全体に与える負の影響すら、美化してとらえてしまったのだろうか。いずれにせよ、ここで重要なのは、マルクスが批判的に取り上げたユア博士の叙述のなかに、機械設備のもつ二つの側面が、現われていたことである。マルクスはそれを、つぎのようにのべている。
ユア博士は、この自動化工場を、一方では、
「一つの中心力(原動力)によって間断なく作動させられる一つの生産的機械体系を、熟練と勤勉とをもって担当する、成年・未成年のさまざまな等級の労働者の協業」
であると記述し、他方では、
「一つの同じ対象を生産するために絶えず協調して働く無数の機械的器官および自己意識のある器官――その結果、これらすべての器官が自己制御的な一つの動力に従属する――から構成されている一つの巨大な自動装置」
であると記述している。
これらの二つの表現は、決して同じではない。第一の表現では、結合された総労働者または社会的労働体が支配的な主体として現われ、機械的自動装置は客体として現われている。第二の表現では、自動装置そのものが主体であって、労働者はただ意識のある諸器官として自動装置の意識のない諸器官に付属させられているだけで、後者とともに中心的動力に従属させられている。第一の表現は、大規模な機械設備のありとあらゆる充用にあてはまり、第二の表現は、それの資本主義的充用を、それゆえ近代的工場制度を特徴づけている。[441-2]
マルクスは、ユア博士の叙述のなかに、彼の認識の狭さと浅さによるものではあるが、はからずも指摘している「資本主義的でない機械設備の労働過程における充用の特徴」を見てとったのである。ユア博士の「第一の表現」がそれであるが、「結合された総労働者または社会的労働体が支配的な主体として」機械設備に相対する労働過程――ここには、マルクスの展望する、「ポスト資本主義社会」における労働過程の在りようが示されているのではないだろうか。
ユア博士の浅薄さにたいする批判として、マルクスは、ここで指摘されている「第一の表現」をめぐって、機械設備の資本主義的充用のさいには、「成年・未成年のさまざまな等級の労働者の協業」は、むしろ労働の均等化、平準化の傾向に駆逐され、年齢や性別などの生物的区別が主要なものとして現われるとして批判的に指摘している。
マニュファクチュアの編制された群に代わって、主要労働者と少数の助手との連関が現われる。本質的区別は、現実に道具機について働いている労働者(これに原動機の見張りまたは給炭を行なう何人かの労働者が加わる)と、これら機械労働者の単なる下働き(ほとんど児童ばかりである)との区別である。この下働きのうちには、多かれ少なかれ、すべての「フィーダー」(機械に労働材料を供給するだけの者)が数えられる。[443]
なお、このなかでマルクスは、法的には「労働者」の範疇から除外されていながら、議会への統計報告には工場労働者として含まれている部類の人員をあげ(技師、機械専門工、指物職など)、
機械設備全体の管理とその不断の修理とに従事している数的には取るに足りない人員……比較的高級な、一部は科学的教養のある、一部は手工業的な、労働者部類であり、工場労働者の範囲外のもの[443]
と分別している。
大工業経営工場のなかでは、等級的区別は現われないが、機械設備にもとづく協業という性格上、さまざまな労働工程で稼動するさまざまな作業機、伝動機、原動機などに応じて、さまざまな種類の労働者の配置が必要となる。ただし、
機械経営は、同じ労働者に同じ職能を持続的に担当させることによって、この配分をマニュファクチュア式に固定化するという必要をなくしてしまう。工場の全運動が、労働者からでなく、機械から出発するのであるから、労働過程を中断することなしに、絶えず人員交替が行なわれうる。……単なる下働きの職務は、工場では、一部は、機械によって置き換えられうるものであり、一部は、それがまったく単純なために、この苦役を担わせられる人員をいつでもすぐに交替させることを可能にする。[444]
この「部分労働への固定化からの解放」は、すぐあとにマルクスが指摘するように、資本主義的機械経営においては、単純に反映しない。しかし、マニュファクチュア的な「部分労働への地域的人的骨化」という傾向が、機械経営においては「技術的に」打破されるという点は、重要である。
さきに第12章第3節「分業とマニュファクチュア」のなかで「部分労働者の等級的区分」について考察されている箇所で、分業がもたらす労働者への影響について分析されていた。分業が発展すればするほど、その内容は無内容なものとなっていくから、その労働過程に拘束されているあいだは、労働者は彼の人間的能力の全面的な発現をはばまれることになる。マニュファクチュア経営においては、その分業が人的地域的固定化と分かちがたく結びついているために、かの節でマルクスが指摘したように、
部分労働者の一面性が、またその不完全性さえもが、かれが全体労働者の分肢となる場合、完全性となる。[370]
機械経営は、この部分労働による分業を人間生理の限界をこえて無内容なものに「進化」させていくと同時に、分業の人的地域的固定化を、技術的には排除する。そうすることで、労働者1人あたりが「苦役」に拘束される時間を短くすることが可能になる。機械経営の技術的可能性自体は、マニュファクチュア時代までには経験されなかった、労働者の人間能力の全面的発現を可能にする時間的可能性を開くものとなる。
しかし、マルクスが指摘するように
この場合にも、社会的生産過程の発展による生産性の増大と、社会的生産過程の資本主義的利用による生産性の増大とを、区別しなければならない。[445]
マニュファクチュア的伝統を引きずりながら発展してきた工場機械経営においては、それ自体が切り開く技術的可能性、時間的可能性は、人件費の相対的縮小という傾向に反映する。そして、労働者をますます無内容になっていく部分機械付属労働に固定化する。
部分道具を扱う終生的専門が、部分機械に仕える終生的専門になる。機械は、労働者そのものを幼少時から部分機械の部分に転化させるために悪用される。こうして労働者自身の再生産に必要な費用がいちじるしく減らされるだけでなく、同時に、工場全体への、すなわち資本家への、労働者のどうしようもない従属が、完成される。[445]
労働過程であるだけでなく、同時に資本の価値増殖過程でもある限り、すべての資本主義的生産にとっては、労働者が労働条件を使用するのではなく、逆に、労働条件が労働者を使用するということが共通しているが、しかしこの転倒は、機械とともにはじめて技術的な一目瞭然の現実性をもつものになる。……内容を抜き取られた個別的機械労働者の細目的熟練は、機械体系の中に体化しこの体系とともに「雇い主」の権力を形成している科学や巨大な自然諸力や社会的集団労働の前では、取るに足りない些細事として消えうせる。[446]
こうなると、ますます無内容になっていく部分機械の付属労働に縛りつけられる労働者の苦役は、ますます絶えがたいものになっていかざるをえない。
「同じ機械的過程が絶えず繰り返される果てしない労働苦のたまらない単調さは、シシュフォスの苦労にも似ている。この労働の重荷は、シシュフォスのあの岩のように、繰り返し疲れ切った労働者の上にもどり落ちてくる」。(186)F.エンゲルス『イギリスにおける労働者階級の状態』、217ページ[445]
マニュファクチャ経営における部分労働への人的骨化の「伝統」が、資本のもとにおける機械経営においては、その編制された工場機械設備に応じた労働者の従属に発展する。
労働手段の画一的な運動への労働者の技術的従属と、男女両性および種々さまざまな年齢の諸個人からなる労働体の独自な構成とは、一つの兵営的規律をつくり出し、この規律が、完全な工場体制に仕上がっていき、また、すでにまえに述べた監督労働を、したがって同時に手工労働者と労働監督者とへの――すなわち産業兵卒と産業下仕官とへの――労働者の分割を、完全に発展させる。[447]
この労働者の管理体制の確立によって、工場作業場でどのようなことが行なわれていたかは、第8章でも詳細に述べられていたが、この節でマルクスが引用している、F.エンゲルスの『イギリスにおける労働者階級の状態』で報告されている、「いっさいの自由が、法律的にも事実的にもなくなる」(190)[447]実態は、現代日本の労働災害をめぐる司法判断を彷彿とさせる。
機械経営は、その生産手段の集中度の大きさによって、手工業的経営とくらべて生産手段の「節約」の度合いも増大している。単なる協業においても、生産手段の「節約」は手工業的分散型生産様式に比較してより効果的に行なわれるが、大工業的協業においては、生産手段のより大規模な集中と機械設備体系の確立、発展によって、労働過程における生産手段の「節約」はますます徹底される。
このこと自体は、その社会において、より効率的効果的に生産手段が労働過程に入り込むことになるから、自然界に存在する資源の活用と同時に、それに働きかける労働の効率性と保全・維持という点でも、それまでの生産様式では実現されえなかった新しい可能性を切り開くことになる。
ただし、同時にこの生産様式は、資本の本性にもとづいて発展しているから、工場内あるいは作業場内において徹底して行なわれる生産手段の節約は、市場経済の強制法則によって、社会的分業の効率性という観点では、はなはだ非効率的に反映する。その調整は同じく市場経済の法則にもとづいて、「疾風怒濤の」混乱と生産物の破壊・破棄をともなって貫徹されることになる。また、市場経済の強制法則は、工場内の徹底した生産手段の節約を、商品価格を引き下げつつ利潤を引き上げるという、資本の精神にのっとって行なわせることになる。この際、機械体系に従属させられている労働者、ほんらい「死んだ労働」に命を吹き込み、彼らなしでは工場製品が完成されず、工場経営にはなくてはならない存在であるはずの労働者の労働環境は、生存可能条件ギリギリまで「節約」されることになる。
工場制度のなかではじめて温室的に成熟した社会的生産手段の節約は、資本の手のなかでは、同時に、労働中の労働者の生存諸条件、すなわち空間、空気、光の組織的強奪、また労働者の慰安設備については論外としても、生産過程での人命に危険な、または健康に有害な諸事情にたいする人的保護手段の組織的強奪となる。フリエが工場を「緩和された徒刑場」と呼んでいるのは、不当であろうか?[449-450]