第1部:資本の生産過程

第4篇:相対的剰余価値の生産

第13章:機械設備と大工業

第5節
労働者と機械との闘争



資本家と賃労働者とのあいだの闘争は、資本関係そのものとともに始まる。それは、全マニュファクチュア時代を通じて荒れ続ける。しかし機械の採用以後にはじめて、労働者は、資本の物質的な実存様式である労働手段そのものにたいしてたたかう。[451]

ここでいわれている「全マニュファクチュア時代」とは「16世紀中葉から18世紀最後の3分の1期にいたる」時代[356]。なにより機械設備が導入される段階にいたって、労働手段がはじめて、労働者から自立して労働者に相対することになる。

労働手段は、自動装置に転化することによって、労働過程そのもののあいだ、資本として、生きた労働力を支配し吸い尽くす死んだ労働として、労働者に相対する。生産過程の精神的諸力能が手の労働から分離すること、および、これらの力能が労働力にたいする資本の権力に転化することは、……機械を基礎として構築された大工業において完成される。[446]

労働手段が機械に転化される過程で、そのことによって職を失うことになる労働者たちの憎悪は、はじめ、機械設備そのものに向けられ、その「たたかい」の方法も、機械設備の物理的破壊、建設者や発明者の抹殺という形態をとった。

労働者が、機械設備をその資本主義的充用から区別し、それゆえ彼の攻撃を物質的生産手段そのものからその社会的利用形態に移すことを学ぶまでには、時間と経験が必要であった。[452]

マルクスは、その粗暴さが、技術的科学的進歩と時には相反する行動をよびおこしてきたことを後追いながらも、いったいなぜ労働者が、労働手段そのものにたいして「反逆」したか、その必然性を、マニュファクチュア時代の階級闘争と比較しながら考察を深めている。

マニュファクチュア内部における労賃をめぐる諸闘争は、マニュファクチュアを前提としているもので、決してマニュファクチュアの実存にたいして向けられているものではない。マニュファクチュアの形成にたいして反抗がなされる限りでは、それは、同職組合親方や特権都市から起こるのであって、賃労働者から起こるのではない。[452]

マニュファクチュア時代のあいだには、手工業的経営は、分解されたとはいえ、依然として基礎であった。新たな植民地市場〔の需要〕は、中世から引き継いだ比較的に少数の都市労働者によっては満たされえず、それと同時に本来的マニュファクチュアが、封建制の解体とともに土地から追放された農民にたいして、新しい生産諸領域の門戸を開いた。したがって当時は、作業場内における分業および協業においては、それらが就業労働者をより生産的にするというその積極面のほうがきわだっていた。[453]

ここでマルクスは、協業の発展が農業部門に適用された場合の「農業の変革」についてふれている。これはイギリスにおいては「囲い込み」という自作農民からの土地略奪という形態で知られるものである。このことは同時に農業における小生産者たちの没落をともなうもので、「多くの無為の者」(196)[454]の都市への集中という、大工業時代を準備する過程にもつながるものである。

協業と少数者の手中における労働手段の結合とは、それが農業に適用されると、多くの国々では大工業時代よりもずっと以前に、生産様式の、それゆえまた農村住民の生活条件および就業手段の、大きな突然の暴力的な革命を呼び起こす。しかし〔革命にともなう〕この闘争は、最初は、資本と賃労働とのあいだよりも、むしろ大土地所有者と小土地所有者とのあいだで演じられる。他面、労働者が、羊、馬などの労働手段によって駆逐される限りでは、直接的な暴力行為が、この場合まず第一に産業革命の前提をなす。まず労働者が土地から追い出され、それから羊がやってくる。イギリスにおけるような大規模な土地略奪は、まず大農業にこの略奪を利用する舞台を提供する。そのためこの農業の変革は、その当初においては、むしろ政治革命の外観をもつ。[453-4]

上記引用部分のさいごに述べてある「政治革命の外観」とは、具体的にはどのようなものだったのだろうか。とりあえず宿題。

第3節「労働者に及ぼす機械経営の直接的影響」で指摘されたように、機械設備の充用は「過剰人口」を生み出す。すなわち労働力の買い手がつかない労働力人口が生み出される。第3節では、「過剰人口」の作用について、「労働日の限界をとり払う」ことと、「労働強化」について指摘されていた。「労働力価値の低下」への作用をめぐっては、機械設備の充用が、補助的ではあれ児童労働・女性労働を労働力人口に引き入れ、労働力人口の増加をもたらすことで、1人当たりの労働力価値を低下させると指摘していた。この第5節のなかでは、さらに、機械設備の充用によって工場から放り出される労働者の一群が、市場において賃金(労働力価値の貨幣表現)を引き下げる作用をすることを指摘している。

労働者階級のうち、機械設備によってこのように余剰な人口に、すなわち資本の自己増殖にもはや直接に必要ではない人口に、転化された部分は、一方では、機械経営に反対する旧式な手工業的およびマニュファクチュア的経営の勝負にならない闘争のなかで没落し、他方では、はいり込みやすいあらゆる産業部門をあふれさせ、労働市場を氾濫させ、それゆえ労働力の価格をその価値以下に低下させる。[454]

受救貧民化した労働者にとっての大きな慰めといえば、一面では、彼らの苦悩がただ「一時的なもの」にすぎないということ、他面では、機械設備が徐々にしか一生産部面全体を征服しないことによりそれの破壊的作用の範囲と強度とが弱められるということであろう。一方の慰めは、他方の慰めをだめにする。機械が徐々に一生産部面をとらえていく場合には、機械は、それと競争する労働者層のなかに慢性的窮乏を生み出す。その推移が急激な場合には、機械は大量的かつ急性的に作用する。[454]

機械は絶えず新しい生産領域をとらえることによって、機械の「一時的」作用は、永続的である。[455]

労働手段が労働者を打ち殺す。[455]

資本主義的生産様式が一般に、労働者に相対する労働条件および労働生産物に与える、独立化され疎外された姿態は、こうして機械とともに完全な対立にまで発展する。それゆえに機械とともに、はじめて、労働手段にたいする労働者の粗暴な反逆が現われてくる。[455]

手工業的、マニュファクチュア的経営との競争によって、社会的にますます明らかになっていく、労働手段と労働者との対立。しかし、この対立は、さらに、大工業そのものの発展のなかで、すなわち「機械設備の絶え間のない改良および自動体系の発達」[455]によっても先鋭化する。

(202)第二版への追加。グレイト・ノーザン鉄道の機械部長A.スタロック氏は、機械(機関車など)製造について、次のように述べている――「費用の高くかかるイギリス人労働者の使用は、日々少なくなっている。生産は、改良された用具の使用によって増加され、そしてこの用具は、また、低級な種類の労働によって取り扱われる。……以前には、熟練労働が、当然に蒸気機関のあらゆる部品を生産した。いまでは、同じ部品が、熟練度は落ちるが、優秀な用具での労働によって生産される。……私がここで用具というのは、機械製作のさいに用いられる機械のことである」(『勅命鉄道委員会、証言記録』、第17862号および第17863号、ロンドン、1867年)。[457]

驚くべきことは、労働者にとって過酷な、この大工業の急速な発展期において、労働者のしたたかで法則的な抵抗が行なわれ、勝利すら手にしていたことである。

(207)……イギリスの工場主たちは……1867年はじめに……いつもの切り抜け策に訴え、労賃を5%だけ切り下げた。労働者は抵抗し、唯一の救済策は、時間短縮、すなわち1週あたり4日働くことだと、理論的にまったく正しい声明をした。かなり長い反抗ののち、産業指揮官を自称する連中は、あるところでは賃銀切り下げなしで、他のところでは5%の賃銀切り下げで、そうする決心をしなければならなかった。[457]

「賃金引き下げなしの労働時間短縮」――このスローガンがすでに19世紀中葉にかかげられており、労働者たちの果敢なたたかいがあったのだ。

さて、これまでのマルクスの例示のなかにたびたび登場してきた「アメリカ南北戦争」による綿業恐慌。このくわしい経済的政治的事情については知識がないのだが、少なくともうかがえるのは、アメリカ南部諸州における大規模な綿花生産が、この内戦によって打撃をうけたことにともなって、イギリスへの綿花供給が減少したのではないか、ということだ。原料供給の減少は、綿業工業にとっては大打撃である。

生産手段の節約効果を発揮する機械設備のさらなる発展は、このような経済的政治的にのっぴきならない外的な強制力によっても進展するものだ。アメリカ南北戦争という契機のなかでも

実際的経験の蓄積と機械的手段の既存の範囲と技術の絶え間のない進歩との結果である、機械制度の非常な弾力性[456]

は大いに発揮されたのだった。

マンチェスターの一工場主は、次のように説明している――

「われわれは、いまでは、75台の梳綿機の代わりに、わずか12台使っているだけであるが、それらは、以前よりも上質ではないにしても、同じように良質のものを同じ分量だけ生産している。……労賃の節減は1週あたり10ポンド・スターリング、綿屑の節減は10%にのぼる」と。

マンチェスターのある精紡工場では、

「運転速度の増大と、さまざまな“自動”工程の採用とによって、ある部門では労働人員の1/4が、他の部門では1/2以上が、排除された。他方、第二梳綿機に代わった精紡機は、これまで梳綿室で働いていた工員の数をおおいに減少させた」。[457]

マルクスは、アメリカの内乱期の影響のもとにすすめられた「機械の諸改良の総成果」を示すものとして、1856年、1861年、1868年それぞれの年の議会報告(『下院の要請にたいする報告』)にもとづく表を掲載している。そこからマルクスは、何をもって「機械の諸改良の総成果」と指摘しているか。

1861年から1868年までに、338の綿工場が消滅した。すなわち、より生産的でより大規模な機械が、より少数の資本家たちの手中に集中された。蒸気織機数は2万663台だけ減少したが、同時にその生産物は増加したので、その結果、いまや改良織機1台は、旧式織機1台よりも多く生産したことになる。最後に、紡錘数は161万2547錘だけ増加したが、他方、就業労働者数は5万505人だけ減少した。したがって、綿業恐慌が労働者をおとしいれた「一時的な」窮乏は、機械設備の急速で持続的な進歩によって増大させられ、固定された。[458-9]

機械設備の技術的発展の促進は、突発的な経済諸状況によるものだけではなく、よりあからさまに、労働者の示威活動にたいする資本の側の実際的な反撃として行なわれることがある。

機械設備は、つねに賃労働者を「過剰」にしようとする優勢な競争者として作用するだけではない。それは、資本によって、賃労働者に敵対的な力能として、声高くかつ意図的に、宣言されまた取り扱われる。それは、資本の専制に反対する周期的な労働者の蜂起、ストライキなどを打倒するためのもっとも強力な武器となる。[459]

蒸気ハンマーの発明者ネイズミスは、労働組合調査委員会における彼の供述のなかで、1851年の大規模な長期のストライキの結果彼が採用した機械設備の諸改良について、次のように報告している――

「われわれの現代的な機械的諸改良の顕著な特徴は、自動道具機の採用である。いまや機械労働者がなさなければならないことは、そしてどんな少年でもなしうることは、みずから働くことではなく、機械のみごとな作業を監視することである。……以前は私は、1人の機械工につき4人の少年を使用していた。これらの新しい機械的結合のおかげで、私は、成年男子工の数を1500人から750人に減らした。その結果は、私の利潤のいちじるしい増加であった」。[459]

労働争議やストライキなどの示威行動は、労働者の生活と生存をかけた、のっぴきならないたたかいであった。マルクスがこの後の一連の部分で紹介しているわれらがユア博士の陳腐な論理にもとづけば、「労働者たちの反抗が機械設備の発展をもたらす」という理屈も生まれてくる。しかし、同じくユア博士が「彼らの反抗さえなければ工場制度はずっと急速に発展した」といっているように、この理屈には脈絡も整合性もない。機械設備の発展自体は、資本主義的生産様式のもとで充用されるかぎり、ひたすら可変資本の大きさを相対的に小さくしながら剰余価値率を増加させる手段としてのみ意義をもつのである。この傾向が絶え間ない失業者群を形成するのは、この生産様式の宿命であって、その傾向にたいして労働者たちのたたかいによる社会的制限がなされないとすれば、ますます歯止めなく失業者を生み出すだけのことである。



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