第1部:資本の生産過程

第1篇:商品と貨幣

第1章:商品

第1節
商品の2つの要因――
使用価値と価値(価値の実体、価値の大きさ)



なぜ商品の分析からはじめるのか

私たちの社会では、“富”は「商品の集まり」として現われる。おのおのの商品は、私たちの社会全体の富の要素という姿・形をとる。私たちの社会を研究しようとすると、どうしても、商品を分析することが大前提となる。

使用価値

商品は、なにより、私たちのさまざまな欲求を満たす物――“有用物”だ。つまり、商品は、人間生活の必要を満たしたり便宜に役立ったりする適性をもっている。これを、その商品の「使用価値」という。

この使用価値は、空中に浮かんでいるのではなく、商品という実体なしには存在しえない。だから、商品体そのものが、使用価値なのだ。

商品の、この使用価値というものは、どんな社会にあっても、富を形作っている要素だけれども、私たちの社会では、同時に「交換価値」の素材でもある。

ある生産物の一定量と他の生産物の一定量との交換比率として、あるいは、ある使用価値が他の使用価値と交換される比率として現われるのが、交換価値だから、それは、その時々、その場所によってたえず変化するものだ。だから、交換価値というのは、なにか偶然的で、相対的なものに見える。商品に固有の価値などというものは、“形容矛盾”のように思えるが、はたして、事態の本質を探って行こう。

価値の実体

川上則道さんの『「資本論」の教室』(1997年8月15日初版、新日本出版社)のなかで紹介されている例(『新版カンボジア黙示録』井川和久さん著)によれば、1979年5月当時のカンボジアの村々では、白米が、マンゴー、雷魚、アメリカ製たばこなどと、一定の比率でもって交換されていたという。たとえば、マンゴー1個は白米(ミルク缶で)3缶、雷魚1匹は5缶、アメリカ製たばこ1本は半缶というふうに。この交換比率でゆくと、ミルク缶1杯の白米が、マンゴー3分の1個、雷魚5分の1匹、アメリカ製シガレット2本と交換されていたと言い換えることができる。

白米は、いろいろな交換価値をもっている。そして、マンゴー3分の1個、雷魚5分の1匹、アメリカ製たばこ2本は、どれもミルク缶1杯の白米の交換価値であり、互いに置き換えることができる。そして、たがいに等しい大きさの交換価値である。

白米とアメリカ製たばことの交換比率を等式に置き換えてみると

ミルク缶1杯の白米=2本のアメリカ製たばこ

という等式に表わすことができる。

この等式は、2つのまったくちがった物のなかに、同じ大きさの、ある共通のものが、確かにあるということをしめしている。だから、ミルク缶1杯の白米、2本のアメリカ製シガレットは、それぞれ、ある共通な第三のものに還元することができる。

さて、この共通な第三のものは、商品そのものがもっている自然的属性ではない。商品の物体としてのさまざまな属性が問題になるのは、それらが商品を有用なもの――使用価値にする限りでのことだが、さまざまな商品を交換するときには、ちがう使用価値をもつものどうしでしか交換は成立しえないからだ。ここでは、使用価値の差異は取り除かれていることになる。

商品から使用価値を度外視すれば、あとにのこるのは、その商品が労働による生産物であるということだけだ。しかし、商品交換の際、この労働生産物の使用価値を度外視するということは、同時に、その商品を使用価値にしている、“有用性”を生み出した労働の有用的性格をも度外視しているということになる。商品を生み出した労働の具体的すがたの区別も、ここでは取り除かれているのだ。

労働の具体的形態までもが取り除かれれば、あとにのこっているのは、たんに、この商品が、人間の労働力の支出によって生み出されたということだけである。

それらに残っているものは、同じまぼろしのような対象性以外のなにものでもなく、区別のない人間的労働の、すなわちその支出の形態にはかかわりのない人間的労働力の支出の、単なる凝固体以外のなにものでもない。これらの物が表わしているのは、もはやただ、これらの物の生産に人間的労働力が支出されており、人間的労働が体積されているということだけである。これらの物に共通な、この社会的実体の結晶として、これらの物は、価値――商品価値である。[52]

商品の交換関係、あるいは、交換価値に表われている“ある共通物”は、商品の価値だ。この「価値」は、さしあたり、ここでは、交換価値とは区別して考察される。

価値の大きさ

ある使用価値である商品が価値をもつのは、それが抽象的な人間労働の結晶であるからにほかならない。その価値の大きさは、価値を形づくっている労働の量によってはかられる。労働の量は、それが継続される時間によってはかられ、“時間”とか“日数”とかの一定の時間部分を度量基準としている。

この労働時間は、社会的に平均された労働量として作用する。だから、ある人が怠けたり、未熟だったりして、商品の完成に他の人より多くの時間を必要とするからといって、彼の商品がそれだけ価値が大きくなるわけではない。ある商品を生産するために、その社会で平均的に必要な労働時間の量によって、その商品の価値が規定される。社会的に必要な労働時間とは、その時々の社会的標準的な生産条件と、労働の熟練および強度の社会的平均度とで規定される。

労働時間は、労働の生産力が変われば、それにつれて変わる。労働の生産力は、労働者の熟練の平均度、科学の発展や技術革新、生産ラインの社会的な結びつき具合、生産手段の規模、さらには自然環境によっても規定される。

一般的に言えば、労働の生産力が大きければ大きいほど、ある物品の生産に必要とされる労働時間はそれだけ小さく、それに結晶化される労働量はそれだけ小さく、その価値はそれだけ小さい。逆に、労働の生産力が小さければ小さいほど、ある物品の生産に必要な労働時間はそれだけ大きく、その価値はそれだけ大きい。すなわち、一商品の価値の大きさは、その商品に実現される労働の分量に正比例し、その労働の生産力に反比例して、変動する。[55]



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