道・鎌倉街道探索日記

◆◆◆◆ 花園・荒川・お茶々が井戸  ◆◆◆◆

川端の宝篋印塔

花園橋の北側、県道の道端に「川端の宝篋印塔」と呼ばれる下の写真の小さな粗堂があります。その中に二つの石塔があります。この石塔は付近の金井家の井戸から出土したものだと伝えています。尚この付近には大沢家に鎌倉から室町時代にかけての板碑45基が所在しているといわれます。

花園橋付近の宝篋印塔粗堂

川端の宝篋印塔は下の写真の二つの石塔ですが、バラバラ状態の宝篋印塔部材を二つの石塔に積み上げたものです。この塔は江戸時代に金井家宅地の井戸を掘ったとき出土したもので、3基あり延文3年(1358)銘2基と応永5年(1398)銘1基です。それぞれ残欠部があり、その残欠部を求めて、県道工事の折りに町教育委員会により発掘を行ったものの、残念ながら残欠部を見つけることができなかったそうです。

花園橋付近の宝篋印塔

下の写真は県道の花園橋から見た荒川北岸です。河岸段丘の縁の中を西に向かう道がおわかり頂けるものと思います。この写真の辺りの集落を川端集落といい、上の写真で紹介した宝篋印塔や室町時代頃と思われる板碑などが残っています。また集落には戦国期に鉢形北条氏の配下にあった荒川集の頭領を勤めた家柄の旧家などもあることから、この集落が比較的早くから成立していたことがうかがわれます。河岸の道は川端集落の西の外れ、「入の堂跡」と呼ばれる地点で現在の旧国道沿い小前田宿へ向かう道と分岐し、河岸の道が鎌倉街道と伝わり、小前田に向かう道は江戸時代の川越・児玉往還であったといいます。

荒川北岸を西に向かう道

花園橋から荒川の左岸(北岸)を西に向かう道筋は荒川の氾濫等により、昔のままの街道跡と認められる道筋は確認できていません。下の写真のような小道もところどころに見られますが、果たして街道跡の道なのか判断は難しいようです。それでも往時の街道風景を想像しながら歩いて行きます。ホームページ作者には河岸を西に向かったという街道のルートは、直線的に短距離で進む鎌倉街道の特徴から考えると多少の疑問も残ります。

花園町荒川左岸の小道

「お茶々が井戸」と呼ばれる井戸のあるところの荒川には、下の写真に見られるような大きな岩があり、ここも渡し場であった可能性が考えられそうです。この地点で川を渡り、寄居町小園の松岸寺下から上小園に至り、赤浜や今市方面に向かうルートがあったと『花園町史』にはあるようですが、明確な道筋や伝承は確認できていないようです。現在川の右岸には「川と水と人々のくらしのかかわり」をテーマとした、「さいたま川の博物館」があります。

お茶々の井戸の先の荒川

お茶々が井戸

下の写真は荒川岸にある「お茶々が井戸」を撮影したものです。昔ここに一軒の茶屋があり、「茶々」と呼ばれる美しい娘がいて、お茶の接待をしたので「お茶々が井戸」といわれるようになったと伝えられています。しかし古文書によれば、この茶店には「ちょう」という客あしらいの上手な美しい娘がいて、街道筋で大評判となり繁盛したので、「お茶屋の井戸」と呼ばれたとの記録もあるそうです。井戸はあまり深くはありませんが、どんな干天でも枯渇したことがなく、この水を汲みほすと雨を招くといわれ、干害に苦しむ年には雨乞いのために村人が総出で水を汲み出したとのことです。現在は味気ないコンクリートの井戸枠があるのみです。

お茶々の井戸

 

オリジナルを重視するため、鎌倉街道上道(埼玉編)の作成当初の市町村銘そのままにしています。 平成27年の鎌倉街道上道が通る市町村は、以下のとおり変更(合併)されています。

花園町→深谷市  川本町→深谷市  児玉町→本庄市

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