道・鎌倉街道探索日記

◆◆◆◆◆◆ 鉢形城跡・正龍寺  ◆◆◆◆◆◆

鉢形城跡

鉢形城跡は戦国時代の城跡で国指定史跡になっています。この城跡については多くの専門家の方々がホームページを作成していますので城の遺構などの詳しい解説はそれらを参考されるのも良いと思われます。そこでホームページ作者としては、鎌倉街道との関連と、城主であった北条氏邦という武将について少し説明してみたいと思います。

鉢形城は源氏の始祖にあたる源経基が平将門の乱の時に築城したとか、或いは畠山重忠が築城したとも伝えられているようですが、それらは伝説によるところと考えられ、城郭の形式から文明8年(1476)に関東管領山内上杉家の長尾景春が築城したというのが有力な説となっています。

正喜橋近くの鉢形城跡碑

長尾景春は山内上杉家の執事である長尾景信の子でした。主君の上杉顕定が景春の弟の忠景を執事としたことを不服として文明8年に鉢形城に拠って反乱を起こしたのです。景春は古河公方足利成氏と同盟し、山内・扇谷両上杉氏と優勢に戦っていきますが、扇谷上杉氏の執事である太田資長(道灌)に拠点をつぎつぎと落とされていきます。やがて古河公方は同盟を破棄して太田資長に鉢形城攻撃を命じます。文明10年7月に鉢形城は陥落し、景春は秩父へ逃げ延びました。その後鉢形城は上杉顕定が入り上杉家の持ち城となったのでした。鉢形城は管領上杉氏を中心とした北武蔵の重要な拠点であったといえます。

鉢形城と鎌倉街道上道の関連についての資料は、ホームページ作者が調べたものの中にはこれといったものは見あたりませんでしたが、地理的にも歴史的にも鉢形城と鎌倉街道上道は関連付けて調べることが重要であると思われるのです。鉢形城が築かれたといわれる文明8年頃の歴史はどのような時代であったのか調べてみました。

鉢形城跡三の丸付近

この当事、都では管領細川勝元・畠山政長(東軍)、山名持豊・畠山義就(西軍)の対立が激化し応仁元年(1467)に応仁の乱が勃発しています。将軍の権威は失われ、京の都は焼け野原となり、11年後の文明9年(1477)までこの乱は続いていました。関東では文明3年に古河公方と堀越公方が対立しています。世は正に戦乱の時代です。この頃には相模の鎌倉は政治の中心から離れていました。関東では鎌倉を中心として、街道が各地と繋いでいた時代ではなくなっていたのです。 そう考えると鉢形城と鎌倉街道上道は地理的位置関係から繋がりが無いようにも思われます。

ところで鉢形城は寄居町の荒川右岸に何故あるのでしょうか。地形的に荒川と深沢川に挟まれ天然の要害であるからといえばその通りだと思うのですが、あえて鎌倉街道上道との関連を見てゆくと、鎌倉街道上道の最も近いところから2キロほどしか離れていないところにあるわけです。

鉢形城跡二の丸付近

鉢形城が築城された時代は管領上杉氏が依然、鎌倉街道上道を盛んに利用していた時代と考えられます。ホームページ作者は鉢形城が上道に沿った地に築かれたものと考えたいわけです。支城の用土城や雉岡城は上道沿いにあり、上杉氏の拠点である上野の平井城へとも繋いでいます。また四津山城、杉山城、現在の遺構の菅谷館などは鉢形城と繋がりがあるものと思われます。また、後北条氏の時代にはこれまで利用されていた鎌倉街道で小田原とを繋いでいたと考えられるのです。

玉淀

下の写真は鉢形城跡の北に流れる荒川です。写真の川の右の崖上が鉢形城の本丸跡になります。写真の風景は「玉淀」と呼ばれる有名な景勝地です。ここで毎年4月の第2日曜日に寄居北条祭りがおこなわれ、鎧兜姿の武者に仮装した人達が大砲の砲声を鳴り響かせています。

城跡の北にある玉淀

河越夜戦後、上杉氏の勢力は衰え小田原北条氏の支配がこの地域にもおよぶようになります。当事この地域を治めていた藤田康邦は後北条氏に服従し、北条氏康の三男の氏邦を養子と迎え、娘の大福御前と結婚させます。天神山城と花園城を氏邦に与え、用土城に入り名前を用土新左衛門と改めたといいます。 氏邦は養子と迎えられたとき、まだ幼少年であったといわれ、根古屋城に在住しその後天神山城へ移転しますが、永禄年間に鉢形城に入城したといわれます。氏邦が入城した時に大規模な改修工事が行われ、現在の遺構の規模になったといわれます。鉢形城の構造は多郭形式の平山城です。西南の旧折原村が大手口で、東の旧鉢形村を搦手として、本丸、二の丸、三の丸、秩父曲輪、諏訪曲輪等があります。各曲輪は周囲が土塁と空堀に巡らされ独立した造りになっています。大手には寺町、侍屋敷、鉄砲鍛冶などの小路がめぐらされ、城下町が形成されていたといいます。鉢形城は小田原北条氏の北武蔵最大の支城となったのです。
天正6年(1578)に沼田城をめぐる事件として氏邦は義弟の重連を毒殺します。重連の弟信吉は氏邦を恨み武田氏、上杉氏に仕えます。

この当時、城の大手口とされる虎口が城の西側にあり、城からみて鎌倉街道上道の反対側で、研究者によっては築城当時の戦国時代には上道は主要路線から外れていたとする説もあるようです。そうすると鎌倉街道上道以外の別路線が当時に存在したことが想定され、「山辺の道」(現在のJR八高線に沿うような道)などが八王子や小田原と連絡した路線であったとする説などです。

正龍寺境内

天正18年(1590)に秀吉の小田原攻めが始まります。事の発端は北条氏政が、秀吉の上洛要求に応じなかったところに、氏邦の家臣の猪俣範直が沼田領の協定に違反して真田氏の名胡桃を押領したことから秀吉がついに立ち上がったのでした。鉢形城では3千5百人の軍勢で籠城し、前田利家、上杉景勝、本田忠勝、真田安房守等5万の大軍に防戦しますが、3ヶ月の戦いの末に落城します。 落城後、氏邦は家臣らと共に前田利家に預けられ金沢へ赴くのでしたが、捕らわれの身でありながらも厚偶されたといいます。一方で夫人の大福御前は正龍寺において、仏門に入っていたのですが、世をはかなんで自殺したと伝えます。 北条氏邦は戦国武将として知名度は低いと思われますが、鉢形城内の将兵を救出するために非難を覚悟で開城に応じた武将として、地元の人達から今でも思い募られているのです。

寄居市内の正龍寺には北条氏邦同夫人の墓と伝える宝篋印塔が藤田康邦同夫人の墓と並んであります。これら4基の宝篋印塔は戦国時代末期の領国支配と戦国大名の動静の一端を物語るもので、県指定史跡になっています。

正龍寺墓地にある北条氏邦と夫人の墓

追記・・・
ホームページ作成当時以降に鉢形城跡では大がかりな発掘調査が行われ、平成16年に鉢形城公園が整備されました。復元された堀、石積土塁、庭園、門と土塀、四阿などがあり、鉢形城歴史館も建てられ素晴らしい歴史公園となっています。

 

オリジナルを重視するため、鎌倉街道上道(埼玉編)の作成当初の市町村銘そのままにしています。 平成27年の鎌倉街道上道が通る市町村は、以下のとおり変更(合併)されています。

花園町→深谷市  川本町→深谷市  児玉町→本庄市

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