道・鎌倉街道探索日記

◆◆◆◆◆◆ 寄居・赤浜の渡し  ◆◆◆◆◆◆

赤浜の渡し

寄居町赤浜の荒川岸には川越岩(かわこしいわ)という大きな岩があります。この岩の付近の流れは浅瀬になっているそうで、対岸にも大きな岩が確認できます。川越岩のことは『新編武蔵風土紀稿』の赤浜村の項にも記されています。この岩の傍らに鎌倉街道の渡し場があったと伝えています。川越岩は別名を獅子岩といい、獅子が伏している姿に似ていたのでそう呼ばれたそうです。この辺りは天気の良い日には釣り人や河原遊びをしている人達を多く見られるところです。

寄居町の荒川の渡河地点である赤浜の渡し跡

川越岩は川の流れの水量の目安になっているようです。この岩の一定の高さまで水面が上がると川止めされたといいます。この岩には上ることができますが、岩はもろくまた滑りやすいので足下に気を付けて下さい。 この付近で永禄4年から5年に赤浜原の合戦が行われています。小田原北条氏と越後の上杉謙信との松山城紛争による戦いで、北条方の松山城主上田氏の家臣山田伊賀守が上杉方の太田三楽斎資正の配下の道祖土図書助という人物に討ち取られたというものです。これは川島町道祖土家文書に記されているそうです。ところで太田三楽斎資正は岩付城主で、あまり知られてはいませんが、日本の「十三大将」の一人に数えられるほどの人物であったといわれています。

赤浜の渡しと川越岩

下の写真に見える遠景の橋は県道の花園橋です。赤浜の渡しの北岸から鎌倉街道は二手に分かれます。ひとつは上道の本道と推定される道で、荒川の北岸をしばらく西に向かいお茶々の井戸へと続く道です。またもうひとつは渡岸点からそのまま北へ進み、関越道花園インター付近を通り本庄方面に向かう「榛沢瀬」(はんざわぜ)と呼ばれた道です。便宜上前者を児玉道と呼び後者を本庄道と呼んでいるようです。「榛沢瀬」は 鎌倉街道の説明の中の街道の特徴でもふれているとおり、具体的な記録があり、実際その遺構も僅かではありますが関越道花園インター付近に残っているそうです。また鎌倉街道上道から分岐する奥州方面への幹線路であったとも考えられているようです。

川越岩

寄居町赤浜付近には幾つか訪ねて見たいところがあります。県道熊谷寄居線沿いにある出雲乃伊波比神社は延喜式内社と伝わり、中世以降は八幡宮として信仰されていましたが、明治33年に旧社号に復しました。南の小被神社も同じく延喜式内社と伝えられ、以前は隣村の富田塚越にあったものを現在の地に移したものだそうです。さらに少し西には昌国寺があり、もと北条氏邦の家臣水野石見守長勝の陣屋跡に建てた寺で、墓地には水野家累代の宝篋印塔の墓があります。また寺には陣屋跡の堀や土塁が残っています。そしてこの辺りは男衾郡といい、日本史の教科書などで中世武士を描いた資料として有名な絵巻『男衾三郎絵詞』を思い起こさせる土地となっています(おぶすま-小被-男衾)。

花園橋より荒川の上流を見る

 

オリジナルを重視するため、鎌倉街道上道(埼玉編)の作成当初の市町村銘そのままにしています。 平成27年の鎌倉街道上道が通る市町村は、以下のとおり変更(合併)されています。

花園町→深谷市  川本町→深谷市  児玉町→本庄市

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