道・鎌倉街道探索日記

◆◆◆◆◆◆ 川本・畠山館  ◆◆◆◆◆◆

畠山重忠公史跡公園

寄居町塚田から北東へ3キロほどのところに畠山重忠のゆかりの地があります。川本町畠山には畠山重忠の生まれた場所と伝わる館跡があり、現在そこは畠山重忠公史跡公園となっていて、重忠とその家臣の墓といわれる五輪塔数基、他に伝重忠産湯の井戸、そして重忠公の銅像などがあります。後に畠山氏の館は重忠の父重能の代に現在の嵐山町の菅谷館へ移ったと伝へています。畠山氏は板東八平氏の一つ秩父氏の嫡流で、秩父権守重綱の孫重能が畠山荘の開発領主となり畠山と称したといいます。同氏族の河越・江戸氏と供に武蔵国留守所総検校職を世襲した氏族です。

川本町畠山の畠山重忠公史跡公園

源頼朝に従う前の畠山重忠

治承4年(1180)に源頼朝は石橋山の戦いで大庭影親に敗れてしまいます。このとき畠山重忠は大庭方に付いていましたが、戦に間に合わず戦が終わった事を知り引き上げる途中で頼朝方に付いていた三浦氏と合戦になりました。重忠は三浦氏の本拠地である衣笠城を攻め三浦義明を討ち取ります。ここまでの 重忠の行動は「平家の重恩に報いるためと」と語られてきています。一方で頼朝は安房に逃走して、やがて千葉常胤らの援助により、上総・下総を経て武蔵に入ります。頼朝は江戸重長に見方に付くように誘いかけ、治承4年10月4日に重忠をはじめ河越重頼、江戸重長ら秩父平氏一族は、長井渡まで出掛けて頼朝に服従を誓いました。このとき重忠は17歳の若者でした。

畠山重忠と家人の墓

重忠が二俣川で打ち取られる前の出来事

元久元年(1204)に実朝の結婚に関することで京都に派遣されていた畠山重忠の子である六郎重保は、武蔵前司平賀朝雅の屋敷で酒盛りが行われている席上にて朝雅と口論となり喧嘩となります。これが重忠が打たれるきっかけとなるのでした。北条時政の後妻の牧の方は、自分の娘の婿にあたる朝雅が重保に悪口されたことを根にもっていて重忠父子を殺そうと時政に相談します。時政は北条義時と義房に重忠が謀反を企てているので討ち取るように勧めるのです。しかし義時は重忠が謀反を起こすはずは無いと事を進めようとはしないので、牧の方の兄大岡時親が義時に催促し、義時は返事に従う事になります。やがて稲毛重成に誘い出された畠山重保は由比ヶ浜で殺されてしまいます。このとき重忠は菅谷の館を百三十騎ほどの軍勢を従えて鎌倉を目指して出発していたのでした。

畠山重忠と家人の五輪塔

上の写真左は重忠の墓と伝わる五輪塔です。人の背丈ほどある大変大きなものです。

上の写真右は史跡公園の入り口近くにある重忠の像で、有名な一ノ谷合戦の「ひよどりごえ」で愛馬三日月を背負っている姿です。


畠山重忠といえば、その人物を知る人の多くは上の写真の一ノ谷合戦での「鵯越の逆落」、愛馬三日月を背負って崖を降りるシーンを思い浮かべるのではないでしょうか。この話は重忠その人の人柄を象徴しているものでもあります。いわゆる力持ちであって、情け深い性格を感じさせられる逸話です。後世に重忠は『源平盛衰記』にしろ『吾妻鏡』にしろ、その他あらゆる書物で立派な武士として語られていて、彼を悪く語った話はほとんど見られません。後の時代まで何故これほどまでに彼はひいきされたのか。重忠にまつわる美談の幾つかは嘘であり、後世の作り話しではないかと考えるのはホームページ作者だけでしょうか。

そもそも人が馬を背負って山を下りることなどスーパーマンでもなければ出来ないことで、そのような話は現在の我々にはナンセンスなことに思えます。

畠山重忠について一冊の本を書かれている貫達人氏は没頭から重忠の鵯越の話を作り話しであると語られています。『源平盛衰記』に語られているこの話しは、他の『平家物語』や『吾妻鏡』の記事と比較検討していくと平家の公達を討ち取った各武将達が、範頼・義定・義経らの誰に属したかで検証を試みています。重忠の郎党の活躍は重忠が義経の搦手の別働隊に加わっていなかったといわれ、よって鵯越の逆落としの隊に重忠はいなかったと語られています。

貫貫達人氏は一方で「畠山重忠は戦後の歴史から殆ど全く姿を消してしまっているが、ある意味で、日本の歴史に大きな足跡を残した人である」とも語られています。現在ではそんな重忠を知る人が少なくなり大変残念なことです。

畠山重忠の真価は「鵯越の逆落」の話が本当であるとか、嘘であるとかそういった問題ではなく、後にそのような話しが伝えられてきている特別な人物であったというところに隠れているのではないでしょうか。

重忠は歴史上の人物としては研究資料が少なく、物語などでは美談ばかりで研究の対象にもならないようです。そのように現在では忘れられた人物ですが、 鎌倉時代のはじめに武士としてその信念を貫いた英雄がいたことを心に留めて置きたいものです。


畠山重忠をもっと知りたい人は、こちらのホームページがお勧めです。

川本出土文化財管理センター(深谷市教育委員会)武蔵武士 畠山重忠辞典
深谷市パンフレット人物「語り継がれる雄姿 武蔵武士の鑑 畠山重忠」

 

オリジナルを重視するため、鎌倉街道上道(埼玉編)の作成当初の市町村銘そのままにしています。 平成27年の鎌倉街道上道が通る市町村は、以下のとおり変更(合併)されています。

花園町→深谷市  川本町→深谷市  児玉町→本庄市

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