ショスタコーヴィチ:交響曲第4番
第6章 フリッツ・シュティードリーは凡庸な指揮者?

フリッツ・シュティードリーとアレクサンダー・ガウク
フリッツ・シュティードリーはどんな指揮者?
フリッツ・シュティードリー(1883年〜1968年)は、ウィーン出身の指揮者兼作曲家です。ウィーン音楽院で作曲を学び、ウィーン大学で法学位も取得していた頃、グスタフ・マーラーに見出されて、1907年にその助手としてウィーン宮廷歌劇場より任命されています。しかし、マーラーは同年ウィーン宮廷歌劇場を辞職していますので、シュティードリーがマーラーの助手を務めたのはごくわずかな期間で、その後マーラーの推薦によりドレスデンで助手として雇われています(1907-1908年)。次いでプラハ・ドイツ劇場の楽長、テプリッツ、ポーゼンでも役職を歴任し。1912–14年
にはニュルンベルク市立劇場の第一楽長カッセル歌劇場(マーラーがキャリアの初期に指揮をしていた劇場)やベルリン・ドイツ・オペラの首席指揮者を務めています(1914-1923年)。
ウィーン・フォルクスオーパーにも在籍し(1924〜1925年)、その時にアルノルド・シェーンベルクのオペラ『幸せな手』の世界初演(1924年)を行なっています。シュティードリーはシェーンベルクの親友で、後に室内交響曲第2番をニューヨークで初演もしています(1940年)。また同じ1924年には、ベルリンの国際現代音楽協会支部でクルト・ワイルの歌曲『女の踊り』作品10の初演も行なっています。その後イタリア、スペイン、スカンジナビア諸国を客演指揮者として旅した後、ベルリンの市立歌劇場の音楽監督に就任します(1928〜1933年)。
この歌劇場在任中に、シュティードリーは国際現代音楽協会ベルリン支部長を務めていたという事実には注目すべきでしょう。この国際現代音楽協会は1922年にザルツブルクで創設され、現代クラシック音楽を演奏する音楽祭を毎年異なる場所で開催し、各支部でまとめられた応募作品を審査して演奏するというものでした。シュティードリーが支部長職にあった期間にベルリンでは開催されませんでしたが、その在任6年の間、エルネスト・アンセルメ、アルバン・ベルク、ジャック・イベール、ナディア・ブーランジェ、アルフレッド・カゼッラ、ジャン
フランチェスコ
マリピエロ、エルヴィン・シュルホフ、アントン・ウェーベルン、エルンスト・クジェネクなどといった錚々たるメンバーが音楽祭の審査委員を務めています(就任年順)。
*1952年の米国での例を見ると、12月1日までに提出された管弦楽と室内楽の楽譜が審査対象となり、アーロン・コープランド、ベン・ウェーバー、エーリヒ・イトール・カーン、フリッツ・ヤホダ、エリオット・カーターが過去5年以内に作曲された楽譜の中から米国支部の選考を行ない、年末までに約6曲を選んで国際審査員に提出することになっていた、とされています(1952年11月9日付ニューヨーク・タイムズ紙)。
こうした活動ぶりを見ると、シュティードリーは新しい音楽に対して決して消極的な指揮者ではなかった、むしろ積極的に関わっていたことがわかります。このことは状況証拠にすぎないかもしれませんが、ショスタコーヴィチの交響曲第4番のリハーサルにおいて曲の複雑さに対応できなかったという説に疑問が生じることになるかもしれません。しかし、シュティードリーは1926年に客演でレニングラードに来てストラヴィンスキーの『春の祭典』を振ったという記録(ローレル・E.・ファーイ著『ショスタコーヴィチ ある生涯』
p.
51)もあり(その時ショスタコーヴィチが客席で聴いていたらしい)、バトン・テクニックという観点から『春の祭典』とショスタコーヴィチの4番のどちらが難しいかという議論は置いておくとして、どちらも高度な技術を要求されることは間違いないと思われます。その時の指揮の様子がどうだったかについての資料はありませんが、シュティードリーに『春の祭典』を振るテクニックがなければそもそも演目に入れるはずはありませんし、もし失敗していればレニングラードで指揮の仕事はその後来なくなったはずです。
1930年代のベルリンに話を戻しましょう。シュティードリーはベルリン市立歌劇場の音楽監督として、演出家カール・エーベルトと協力してヴェルディ中期の作品の数作を手掛け、新演出によるワーグナーの『ニーベルングの指環』を上演するなどの活躍をする一方、1932年にはクルト・ヴァイルのオペラ『誓約』の世界初演を指揮しています。国際現代音楽協会ベルリン支部長の肩書は飾りではなかったということでしょうか。このベルリン時代、SPレコードにシュティードリーが指揮したブラームスの大学祝典序曲の録音が残っているそうです(1930年)。
しかし1933年にアドルフ・ヒトラーが政権を握ると、ユダヤ人だったシュティードリーはドイツを離れて、何度か客演していたレニングラードへと逃れます。ベルリン市立歌劇場で共に活躍していたカール・エーベルトも同じ年にスイスへと逃れています。なお、エーベルトは戦後グラインドボーン音楽祭の創設メンバーのひとりになったり、米国でオペラ学科を創設したりとオペラの振興に大きく貢献することになります。
レニングラードへと逃れた直後の1933年10月15日、シュティードリーはレニングラード・フィルハーモニーのシーズン開幕コンサートにおいて、ショスタコーヴィチのピアノ協奏曲第1番を作曲者の独奏で初演しています(ローレル・E.・ファーイ著『ショスタコーヴィチ ある生涯』
p.100
)。当時首席指揮者だったアレクサンダー・ガウクを差し置いてシーズン開幕コンサートを振るというのは異例ですが、おそらくこの時にシュティードリーはショスタコーヴィチと関係を持ったことのではないかと推測されます。この事実からしても交響曲第4番のリハーサル時にシュティードリーがショスタコーヴィチの語法に全く通じていなかったという説もやや怪しくなるかもしれません。その後1934年にガウクが首席指揮者ポストを離れてモスクワに去ったことを受けて、シュティードリーは首席指揮者に就任します。
シュティードリーの前衛音楽における実績例としてガヴリール・ポポフが作曲した交響曲第1番が挙げられます。ショスタコーヴィチの2歳年上のポポフが1927年から1934年に作曲されたこの交響曲は「まだ完成もしていない作曲途中」にボリショイ劇場と『プラウダ』紙から賞金を獲得したという不思議な経緯を持つ作品ですが、1935年3月22日にシュティードリーの指揮の下にレニングラード・フィルハーモニー管弦楽団によって初演が行われています。なお、初演の翌日にレニングラードの検閲委員会はこの作品を「我々に敵対する階級のイデオロギー」を反映するものと決め付け上演禁止としています。裏を返せば前衛音楽の最先鋒の曲としての勲章を貰ったということになるかもしれません。なお、ショスタコーヴィチの交響曲第4番は、主にポポフのこの交響曲第1番に触発されて作曲されたとも言われています。
オーストリア人とはいえ亡命者であったことが、ドイツ系の指揮者を必要としていたレニングラード・フィルにとって救いだったことになります。皆さんご存じのソヴィエトを代表する大指揮者エフゲニー・ムラヴィンスキーはこの時はまだ31歳、当時キーロフ・オペラ・バレエ劇場の名簿に名を連ねる指揮者の一人にすぎませんでした(10年前にガウクの元で指揮を学んではいました。)。ムラヴィンスキーがショスタコーヴィチの交響曲第5番の初演に抜擢されるのはその3年後になります。
この頃のソヴィエト及びレニングラードにおける音楽環境は非常に興味深いものがあります。ソヴィエト建国の1922年からヒトラー内閣誕生直前の1932年にかけて、レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団は政府の支援を受け、ドイツを中心に国外から数多くの指揮者を招聘していて、社会主義プロパガンダの一環ということもあって、その人選は非常に豪華だったとされています。オスカー・フリート、オットー・クレンペラー、ヘルマン・アーベントロート、フランツ・シュレーカー、フリッツ・シュティードリー、フェリックス・ワインガルトナー、ブルーノ・ワルター、エーリヒ・クライバー、クレメンス・クラウス、アレクサンダー・ツェムリンスキー、ハンス・クナッパーツブッシュ、フリッツ・ブッシュ、といったドイツ系の指揮者、その他の国の指揮者としては、ピエール・モントゥー、ダリウス・ミヨー、エルネスト・アンセルメ、アルフレード・カゼッラ、アルバート・コーツ、アルテュール・オネゲル、ヴァーツラフ・ターリヒなどが続々とレニングラードで指揮をしています。しかもクレンペラーは5回、シュティードリーが4回、フリートが4回、ワルターが3回もレニングラード・フィルに客演していたのでした。自国のロシア人指揮者ではなく、外国の指揮者がもてはやされて登用されるところはNHK交響楽団をはじめとする我が国オーケストラと同じですね。
ところが1933年のヒトラー内閣誕生が状況を一変させ、独ソ関係悪化が急速に悪化していきます。ドイツ国境に近いレニングラードでは国家政治保安部は1934年に在留ドイツ人を名簿化して監視を強めるようになります。当時レニングラード・フィルの首席指揮者だったアレクサンダー・ガウクは、客演時代を含めると9年間レニングラード・フィルを指揮していましたが、ウクライナ・ドイツ人(黒海ドイツ人)の家系でドイツ国籍者であったガウクの立場はあやうくなり、レニングラードを去ることになったのでした。その後任として選ばれたのがシュティードリーだったのです。
その後のフリッツ・シュティードリー
シュティードリーは交響曲第4番の初演を取りやめになった翌年の1937年にレニングラードを離れて米国に渡ります。その事情について語る資料がないのであくまで憶測ですが、ドイツ国籍のガウクがモスクワへと去った理由と同じように、ナチスから逃れてきたといえオーストリア人のシュティードリーも当局からある程度にらまれていたのではないでしょうか。ソヴィエトの辺境地に飛ばされる前に逃げ出すことにしたということは十分考えられます。また、交響曲第4番初演中止事件の真相を知っていたために、この国では自由な演奏活動ができないとシュティードリーは判断したのかもしれません。そして、このシュティードリーがこのレニングラードからいなくなったということが、交響曲第4番初演取りやめの原因追及において、シュティードリーを都合よくそのスケープゴートに仕立てられたということは十分考えられるのです。
新規一転、米国国籍を取得したシュティードリーは1938年にはニューヨークで新設されたニュー・フレンズ・オブ・ミュージック・オーケストラの指揮者として、J.S.バッハ、ハイドン、モーツァルトなどを中心とした精力的な演奏活動を開始しています。親友だったシェーンベルクの室内交響曲第2番を初演したのもこの頃でした(1940年)。また、バッハのフーガの技法を小オーケストラ用に編曲したのもこの頃とされています。さらに、ヨーゼフ・シゲティ(ヴァイオリン)、アルバート・スポールディング(同:バーバーの協奏曲の公開初演者)、ウィリアム・プロムリーズ(ヴィオラ)などといった著名人とも共演しています。
シュティードリーはその後オペラ界に復帰します。そのキャリアのスタートはドイツの歌劇場でしたが、ソヴィエト時代にもレニングラードとモスクワの両方でオペラ公演を客演指揮していたことがわかっています。オートー・クレンペラーがショスタコーヴィチを訪問した際(1936年5月30日)、シュティードリーも同行してショスタコーヴィチがピアノで弾く交響曲第4番を聴いていますが、その前の晩にクレンペラーはシュティードリーが指揮する歌劇『フィガロの結婚』を途中で抜け出したということが記録されています(
“Shostakovich : A Life Remembered” by Elizabeth Wilson p.141 )。
1945年から1946年のシーズンにはシカゴ・リリック・オペラを、1947年には英国のグラインドボーン音楽祭に出演、1946年11月15日にニューヨークのメトロポリタン歌劇場でワーグナーの楽劇『ジークフリート』の指揮でデビューし、その後12シーズン、316回公演を指揮しています。YouTubeで音源が確認できたメトロポリタン歌劇場における主な演目は後註に掲げます(後註4)。
この一覧を見ると、ワーグナーのリング・サイクルをはじめとする主要楽劇と歌劇、後期中期のヴェルディ及びモーツァルトのオペラ作品を中心に指揮していたということになります。1907年から1910年までメトロポリタン歌劇場で指揮したグスタフ・マーラーの公演曲目とワーグナーとモーツァルトで重なっていることは注目すべきで、ドイツ系指揮者に期待された演目を中心になってこなしていたことがわかります。この時代、メトロポリタン歌劇場には3人の「フリッツ」がいました。フリッツ・ブッシュ(1945〜49年、121公演/5年)とフリッツ・ライナー(1949〜53年、156公演/5年)、そしてフッリッツ・シュティードリー(1946〜58年、316公演/12年)です。このうちシュティードリーの公演回数が最も多いのですが、年平均ではフリッツ・ライナーの方が多く振っています。なお、フリッツ・ライナーはR.シュトラウスを得意としていましたが、シュティードリーは1度も振っていません。
これほどの活躍をしていたシュティードリーですが、既にレコード録音が始まっていた時期であったのにもかかわらず、不思議なことに大きな録音契約を結んだことはありませんでした。残された録音の多くはライブの放送用の録音をレコード化したものです(YouTubeで聴くことができます。)。また、数少ないスタジオ録音は後註に掲げます(後註5)。
他の大指揮者のように死ぬまで全力で指揮するようなタイプではなかったシュティードリーは1958年に引退し、スイスで幸福な老後を過ごしたようです。1968年没、享年84歳。なお、ショスタコーヴィチは1946年2月18日にシュティードリーに近況を伝える手紙を書いています。ローレル・E.・ファーイは次のように書いています。
「1946年2月、ショスタコーヴィチはシュティードリーに英語で手紙を書き、ソレルチンスキーの死にまつわる状況を知らせ、自らの近況を報告した。我々一家は今モスクワに住んでいますが、レニングラードが恋しく、いずれそこに戻ろうと思っています。そして、シュティードリー、また他の人々にも、ソヴィエトのオーケストラの中で、レニングラード・フィルハーモニーは卓越していると褒めちぎった。(ローレル・E.・ファーイ著『ショスタコーヴィチ ある生涯』
p.190 )。」
その頃のシュティードリーは、シカゴでオペラを指揮していた時期でメトロポリタン歌劇場に移る直前にあたります。一方のショスタコーヴィチは交響曲第9番を書き上げた後で、1945年11月に初演した翌年の2月にジダーノフ批判を浴びせられたまさに同じ月にあたっていて、何やら交響曲第4番の時と同じような状況下で投函されたということは非常に興味深いものがあります。しかも上記の手紙の後半は唐突にレニングラード・フィルハーモニーを褒めたり、「シュティードリー」の名前が出てきたりと、不自然な文章になっていることに注目すると、検閲されていることを前提に書いた手紙であろうと推測されます。何らかのメッセージをシュティードリーに伝えようとしたものではないでしょうか。交響曲第9番の初演後に当局から圧力を受けたショスタコーヴィチは10年前に初演をとりやめた4番のことを思い出し、シュティードリーに対してオーケストラも指揮者も4番のリハーサルにおいて全く問題なかったのだということを伝えているようにも読めます。或いは、スケープゴートにされたシュティードリーへの謝罪の気持ちを伝えたかったのかもしれません。
この手紙以降、ショスタコーヴィチとシュティードリーとの接触を示す資料はないようで、シュティードリーもソヴィエトを離れてからはショスタコーヴィチの曲を指揮したという記録は見つかっていません。
いかかでしょうか。こうしてシュティードリーの実績を見ると、ショスタコーヴィチの交響曲第4番のリハーサルで不甲斐ない指揮をしたと考えられるでしょうか。
指揮者アレクサンダー・ガウク
ガウクは1920年代後半にショスタコーヴィチと出会い、交響曲第3番『メーデー』(1930年)、バレエ『黄金時代』(1930年)、『ボルト』(1931年)、組曲『ベルリン陥落』(1950年)、組曲『若き親衛隊』(1953年)の初演を指揮しました。また、1934年5月末にレニングラード国際音楽祭でショスタコーヴィチのピアノ協奏曲第1番を作曲者の独奏で指揮をした記録もあります。当時としてはショスタコーヴィチに最も近い指揮者であったことは間違いないでしょう。
ショスタコーヴィチが1936年5月末に仲間を自宅に招いて交響曲第4番をピアノで弾いて聴かせた際、その中に指揮をすることになっていたシュティードリー、客演のためにレニングラードにいたオットー・クレンペラーらに混じってガウクもその場にいたとされています。そしてその秋に始まった交響曲第4番のリハーサルの会場にもいたようで、先に述べたような発言を残しています。不本意にもレニングラード・フィルの首席指揮者の座を追われたガウクにとって、本来は自分が指揮をするはずだっただけに、後任のシュティードリーに対して前述のような批判的な発言をするのはわからないではありません。
さらにガウクは1938年のショスタコーヴィチの交響曲第5番の初演(レニングラード)にも立ち会っています。その初演を指揮したのは自分の弟子であるエフゲニー・ムラヴィンスキーで、またしてもガウクは世界初演の栄誉に浴することができなかったのでした。それでもガウクは翌日にはモスクワへ取って返し、その日から早速自分のオーケストラでリハーサルを開始し、交響曲第5番のモスクワ初演を敢行しています。自分こそ若い頃のショスタコーヴィチの作品を初演し(必ずしも成功ではなかったが)、その間の飛躍を支えたのだという自負を持っていたことがわかると思います。なお、この交響曲第5番の初演後にモスクワから派遣された芸術問題委員はその大成功を意図的に集められた「さくら」によって扇動されたと結論づけたのですが、ガウクはモスクワへの帰路、同様の偽情報がモスクワにいる芸術問題委員長に伝わるのを妨げたとされています(ローレル・E.・ファーイ著『ショスタコーヴィチ ある生涯』
p.133-134)。
1934年にレニングラードを追われたガウクは、モスクワで新設の放送オーケストラの首席指揮者に就任しています。地理的にドイツから離れたモスクワではドイツ国籍者でもまだ問題はなかったと考えられます。このオーケストラは後にソヴィエト国立交響楽団、モスクワ放送交響楽団へと発展していきます。しかし、1941年の独ソ戦開始に伴い在留ドイツ人の僻地追放など迫害が開始、ガウクもモスクワの音楽監督を同年に解任されてしまいます。トビリシ音楽院(現ジョージアの首都)で教鞭を執ったり、グルジア国立交響楽団を再生させたりとそれなりの活動をしていましたが、中央の楽壇からは締め出されたかたちになっていたことになります。しかし、1943年にはモスクワに復帰し、モスクワ音楽院講師として指揮科に在籍し、スヴェトラーノフ、マクシム・ショスタコーヴィチなどを指導しています。
なお、ガウクがラフマニノフの交響曲第1番のパート譜を発見し音楽学者でチームを編成することで、作曲者により破棄された総譜を復活させることに成功したのはこの時期になります。戦時下ではグルジアに逃れていましたが、終戦及びスターリン死後はモスクワに復帰して国外の作曲家はもちろん、ショスタコーヴィチをはじめとする数多くの同国の作曲家たちの作品の演奏し、さらに後進の指導もあたりました。ガウクとショスタコーヴィチの関係は続いていて、モスクワ交響楽団を振ってショスタコーヴィチの組曲『ベルリン陥落』(1950年)、組曲『若き親衛隊』(1950年)の初演も行っています。1957年以降にはショスタコーヴィチの交響曲第5、6、8、9、11番及びピアノ協奏曲第2番(作曲者のピアノ独奏1959年)などの録音を遺しています。1962年のキューバ危機の翌年、14年目のモスクワ音楽院教授在任中に69歳の生涯を閉じています。
ところが、ショスタコーヴィチはガウクに対する態度はあまり良くないものがありました。エリザベス・ウィルソンの著作『Shostakovich :
a life remembered』には次のように書かれています(ソロモン・ヴォルコフ著『ショスタコーヴィチの証言』を引用しつつ)。
「ショスタコーヴィチがガウクについて語ったとされる評論は、決して好意的なものではなかった。ガウクは、第二次世界大戦中にスーツケースに保管されていた交響曲第4番の手稿の紛失に関与したとされている。その情報源によると、交響曲第5番と第6番の手稿も同時に失われたという。(p.105)」
*参考文献の一覧は≪目次≫をご覧ください。
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