「ドミトリー・ドミトリエヴィチが交響曲第4番のリハーサルに私を招待してくれました。そのリハーサルは実に多くの参加者で賑わっていました。言うまでもなく、シュティードリーはこの壮大なスケールの作品のスコアをその卓越した才能のすべてを駆使して習得していました。ドミトリー・ドミトリエヴィチがどう感じていたかは分かりませんが、ホールには緊張と警戒の空気が漂っていました。問題は、ショスタコーヴィチが批判を無視して、形式主義でいっぱいの非常に複雑な作品を書いたという噂が音楽界で広まっていたことでした(
“Shostakovich : A Life Remembered” by Elizabeth Wilson p.143 )。」
「そしてある日、ソヴィエト作曲家同盟の書記長V. E.
ヨヘルソンが、スモーリヌイに属する役員風の男を伴ってリハーサルに現われました。その後、フィルハーモニー管弦楽団の監督であるI. M.
レンツィンがドミトリー・ドミトリエヴィチに自分のオフィスに来るようにと言ってきたのです。彼らはホール内部の螺旋階段を上っていきましたが、私はホールに残りました。それから15〜20分ほど経つとドミトリー・ドミトリエヴィチが迎えに来てくれて、私たちはキロフスキー大通り14番地にある彼のアパートへと歩いて向かったのでした。スモーリヌイはレニングラードにある共産党組織の本部のことです。
それから何年も経って交響曲第4番をめぐっての伝説が生まれ、残念ながら、ドミトリー・ドミトリエヴィチに関するあらゆる著作の中で、この伝説は確固たるものとなってしまいました。要するにショスタコーヴィチは、シュテッドリーが交響曲を演奏できないと確信して演奏を中止することに決めたという噂です。これ以上に不条理で公正を欠いたものを発明するのは難しいでしょう(
“Shostakovich : A Life Remembered” by Elizabeth Wilson p.143-144 及び
“Story of a Friendship” by Isaak Glikman & Anthony Phillips, Preface
p.xxiii )。」
何故、初演が中止になったのか
第4交響曲のリハーサルに関するさまざまな説明と、その演奏を中止するという決定の背後にある理由については、依然として論争が続いています。多くの人々が指揮をしていたフリッツ・シュティードリーを非難し、彼が新しい音楽に対して非協力的、さらには敵対的であると中止となった責任を負わせました。レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団のヴァイオリニスト、M.
S. シャク氏がリハーサルの様子をこう述べています。
「私たちが音符に馴染むようになったのは、フル・オーケストラで演奏するよりも、弦楽器のセクションによるリハーサルからでした。(指揮台の)椅子に座っていたのは痩せた若い男でしたが、私たちの目には、交響曲の指揮者としてはまだそれほどの権威はないと映りました。彼は、世界的に名声を得た後年になっても、オーケストラ作品を勝手にいじくることを好まなかったのですが、(リハーサルでは)明らかに緊張した雰囲気の中で、彼は恐る恐る静かに座っていました。フリッツ・シュティードリーはスコアに深くかがみ込み、指でそれを指差し、スコアを確認しながら、せっかちな様子で作曲家に問いただすのでした。『これで正しいですか?こう進むべきなのでしょうか?』、オーケストラの演奏は止まり、すぐに『正しい、正しい。』という返事が返ってくるという具合でした(
”Shostakovich : A Life Remembered” by Elizabeth Wilson p.139 )。」
「彼らは第1楽章のリハーサルをしていた。それは恥ずべきものだった。シュティードリーは明らかに音楽を理解しておらず、オーケストラの演奏も雑然としていた。実に憂鬱だった。ドミトリー・ドミトリエヴィチにとって、これはまさに恐るべき瞬間だった。彼はあらゆる人々から貶められていたのだ(
”Shostakovich : A Life Remembered” by Elizabeth Wilson p.139 )。」
このアレクサンダー・ガウクは、1930年から1934年まで、レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者を務めていた人物で、つまりフリッツ・シュティードリーの前任者でした。しかも、ショスタコーヴィチの直近の交響曲第3番の初演を指揮していて、ショスタコーヴィチの音楽については一家言ある人物であることは容易に想像がつきます。モスクワからわざわざレニングラードの古巣に戻ってリハーサルを見学していたということは、シュティードリーが降ろされたらその代役は自分しかいないと思っていたのかもしれません。このガウクの発言は『
‘Creative Contacts’ by Alexander
Gauk』に掲載されていて、原文に接していないのでこれ以上の判断はできませんが、後任の指揮者を好意的には観ていなかったということは十分ありえることと思われます。
「シュティードリー自身が後に回想したところによると、第1楽章と第2楽章のリハーサルを何事もなく終えた後、第3楽章のリハーサルを始めた日にオーケストラが抵抗を見せたとしています。演奏者たちは意図的にベストの努力を払っていなかったというのです。これに気づいたショスタコーヴィチは、休憩時間にシュテッドリーを別の場所に呼び出しました。ショスタコーヴィチは、このような状況下で交響曲の演奏を強行すれば世間のスキャンダルを招くのではないかと考えたのです。シュティードリーの印象では、残りのリハーサルと公演のキャンセルを言い出したのはショスタコーヴィチだったというのです(
“Shostakovich: A Life” by Laurel Fay p.96 )。」
*作曲家の息子マクシムも「オーケストラは難しさのために神経質になっていた」と発言しています(
Shostakovichiana by Ian MacDonald )。
「フローラ・リトヴィノヴァによると、交響曲第4番が最終的に演奏された後、ショスタコーチは、シュティードリーがリハーサルの準備をしておらず、彼と音楽家たちは途方に暮れており、楽譜の複雑さに対処できなかったと述べました。彼自身はシュティードリーに、指揮者と音楽家の面目を保つためにも、交響曲を演奏する前に書き直す必要があると言いました(
”Shostakovich : A Life Remembered” by Elizabeth Wilson p.140 )。」
*フローラ・リトヴィノヴァ:ショスタコーヴィチがレニングラードから逃れてクイビシェフに移った際に隣人となった女性。彼女の夫の叔父は、1941年から1943年まで駐米大使を務めています。
「レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団のもう一人のヴァイオリニスト、マーク・レズニコフは、ショスタコーチッチの音楽を崇拝し、励ましていたシュティードリーが交響曲第4番を非常に綿密にリハーサルし、演奏に必要なレベルに達したと回想しています。結局のところ、交響曲の撤回の最終決定がショスタコーヴィチに押し付けられたか、或いは彼とは無関係に下されたかにかかわらず、ショスタコーヴィチは関係者全員にとって『後悔するよりは安全を第一』とする方が良いことを理解していたに違いありません。(
”Shostakovich : A Life Remembered” by Elizabeth Wilson p.140 )。」
ポポフもまた、1935年10月31日にツァールスコエ・セローでショスタコーヴィチがピアノで演奏した交響曲第4番の第1楽章前半を賞賛していた(「非常に辛辣で、力強く、そして高貴な」)。ある意味では、これらのふたつの交響曲は、1935年から1940年にかけてスターリン主義の検閲に手を携えて全力で挑んだと言えるだろう。ショスタコーヴィチがおそらく第
4
番を強制的に撤回せざるをえなかったのは、ある程度その作品にインスピレーションを与えたポポフの第1番が辿った運命をそのまま繰り返すことになると考えたに違いない(
Shostakovichiana by Ian MacDonald )。」
「交響曲第4番を予定されていた演奏から取り下げるという決定は、突発的な行動ではなかった。この曲はショスタコーヴィチに好意的なドイツ人指揮者フリッツ・シュティードリーの指揮の下、レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団によってリハーサルが行われました。しかし数回のリハーサルが行われた後、オーケストラやその場にいた様々人々の反応に明らかに落胆した作曲家は初演の中止を決断したのでした。第
4
交響曲は彼のキャリアの重要な時期に期待される種類の作品ではないことを本能的に感じたに違いありません。期待され必要とされていたのは、混乱と没入の作品ではなく、明晰さと確信に満ちた作品だったのです。こうして交響曲第4番の楽譜は25年間放置されたのでした。(
“Music and Musical Life in Soviet Russia Enlarged Edition, 1917–1981” by
Boris Schwarz )。」