藤原頼宗 ふじわらのよりむね 正暦四〜治暦一(993-1065) 号:堀河右大臣

道長の次男。母は源高明女、高松殿明子(盛明親王の養女)。関白頼通上東門院彰子の弟。権大納言能信・関白教通・権大納言長家らの兄。子に右大臣俊家・内大臣能長・後朱雀天皇女御延子ほかがいる。
寛弘元年(1004)十二月、元服し従五位上に叙せられる。長和三年(1014)、権中納言。治安元年(1021)七月、権大納言。同年八月、春宮大夫を兼ねる。寛徳二年(1045)正月、後冷泉天皇の践祚により春宮大夫を止められ、同年十一月、右大将を兼ねる。永承二年(1047)八月、内大臣となり、康平元年(1058)正月、従一位に叙せられる。同三年(1060)七月、右大臣に至るが、治暦元年(1065)正月、病により出家した。同年二月三日、薨ず。七十三歳。
『続古事談』によれば公任に次ぐ歌人と自負していたという。長元八年(1035)の「関白左大臣頼通歌合」、「永承四年内裏歌合」、永承五年(1050)の「麗景殿女御延子歌絵合」などに出詠。特に長久二年(1041)の公任薨後は歌壇の指導者として活躍し、「永承五年六月五日賀陽院歌合」、「永承六年五月五日内裏根合」、天喜四年(1056)の「皇后宮寛子春秋歌合」で判者を務めた。大弐三位小式部内侍ら女流歌人を愛人としたらしい。家集『入道右大臣集』がある。後拾遺集初出。勅撰入集は四十一首(金葉集は二度本で数える)。

後冷泉院の御時皇后宮歌合、桜をよめる

春雨にぬれてたづねむ山ざくら雲のかへしの嵐もぞ吹く(金葉55)

【通釈】春雨に濡れても今のうちに山桜を訪ねて出掛けよう。雲を吹き返す嵐でも来そうだぞ。

【語釈】◇雲のかへしの嵐 雲を(来た方向へ)吹き戻す嵐。「かへし」は吹き戻しの風を言い、「雲のかへしの嵐」が吹くとは、詰まるところ空が晴れるということであるが、同時に花を散らせてしまうのでもある。

【補記】天喜四年(1056)四月三十日、後冷泉天皇の皇后寛子(頼通の息女)が御在所の一条院で開催した皇后宮春秋歌合、題「桜花」、三番左勝。

【他出】入道右大臣集、栄花物語、袋草紙、古来風躰抄、和漢兼作集、題林愚抄

題しらず

人よりも心のかぎりながめつる月はたれとも分かじものゆゑ(新古384)

【通釈】誰よりも深く、心を尽して月を眺めたよ。月の方では、見ているのが誰だろうと、区別などしないだろうに。

【補記】秋歌。「ものゆゑ」は順接・逆接どちらも示し得る接続助詞であるが、この場合逆接。

永承四年内裏歌合に

いかなればおなじ時雨にもみぢする(ははそ)の森のうすくこからむ(後拾遺342)

【通釈】紅葉はしぐれの雨によって美しく色を変えるというが、柞の森は、同じ時雨にあたっているのになぜ色が薄かったり濃かったりするのだろう。

【語釈】◇永承四年内裏歌合 後冷泉天皇の内裏歌合。実質的な主催者は関白頼通。◇柞の森 雑木林。「ははそ」はナラ・クヌギの類の総称。◇こからむ 「こくあらむ」の約。この助動詞「む」は原因推量の「らむ」と同じ働きをする。

【補記】永承四年(1049)十一月九日、京極殿において披講された内裏歌合、題「紅葉」、五番右勝。

【他出】入道右大臣集、新撰朗詠集、古来風躰抄、五代集歌枕、歌枕名寄

【参考歌】藤原敏行「古今集」
白露の色はひとつをいかにして秋の木の葉をちぢにそむらん

【主な派生歌】
さだめなき時雨の雲のたえまかなさてや紅葉のうすくこからむ(藤原定家)

故式部卿の親王(みこ)、大井河にまかれりけるに、紅葉をよめる

水上にもみぢながれて大井河むらごに見ゆる滝のしら糸(後拾遺364)

【通釈】大井川は、上流で散った紅葉を浮べて流れ、まるで滝の白糸を斑濃(むらご)に染めたように見えるよ。

【語釈】◇故式部卿の親王 一条天皇の第一皇子、敦康親王。母は中宮定子。寛仁二年(1018)薨。◇大井河 大堰川。桂川の上流、京都嵐山のあたりの流れを言う。◇むらご 斑濃染め。同色で濃さにムラをつけた染め方。◇滝のしら糸 白く泡立って流れる急流を喩えて言う。

【主な派生歌】
おく霜や染めはづすらむ紅葉ばのむらごに見ゆるはした山かな(源俊頼)
木枯しに嶺の木の葉やたぐふらんむらごに見ゆる滝のしらいと(西行)
ゆふ日さすかたより霜のかつ消えてむらごにみゆる庭の紅葉葉(細川幽斎)

宇治前太政大臣家の三十講後の歌合に

逢ふまでとせめて命の惜しければ恋こそ人の祈りなりけれ(後拾遺642)

【通釈】せめてあの人との逢瀬を遂げるまでは、と命が惜しい。とすれば、人を恋することこそが、祈りというものだったのか。

【補記】長元八年(1035)五月十六日、頼通が自邸で催した賀陽院水閣歌合、十番右(勝負判無し)。『入道右大臣集』では第二句「命のせめて」。

【他出】入道右大臣集、栄花物語、奥義抄、袋草紙、宝物集、和歌色葉、古来風躰抄、十訓抄、新時代不同歌合、悦目抄、和歌灌頂次第秘密抄

【主な派生歌】
あはれにも恋こそ人のいのりとはけふやはじめて神もしるらむ(慈円)
よしたのめ恋こそ人のいのるとも御祓をうけぬ神はしるらん(正徹)

民部卿斉信の近衛のみかどの家ははやうしる所にて侍りけるを、そこにすむ女の、花のさかりに、誰をまつとてをしむ心ぞ、など申したりければ

さらでだに恋しきものを昔みし花ちる里に人の待つなる(玉葉1908)

【通釈】桜といえば、ただでさえ恋しいものなのに――花の散る季節に、なつかしい里で人が待っていると聞けば、なおさら恋しくてたまらない。

【語釈】◇民部卿斉信(ただのぶ) 太政大臣藤原為光の子。967-1035。正二位大納言兼民部卿に至る。◇近衛のみかど 大内裏東側の陽明門のこと。◇はやうしる所 以前、その家の女のもとに通っていたことを言う。

【補記】陽明門のそばにあった斉信の家に以前通っていた女がいた。花の盛りの季節にその女から「私は誰を待つというので、花の散るのを惜しむ気持なのでしょう」と言って来た。それに対する返事の歌。「誰をまつとてをしむ心ぞ」は女の歌の下句か。玉葉集は雑歌として載せる。

【参考歌】「源氏物語・花散里」
橘の香をなつかしみほととぎす花散る里をたづねてぞとふ


更新日:平成15年05月03日
最終更新日:平成21年02月15日