中院通秀 なかのいんみちひで 正長元〜明応三(1428-1494) 号:十輪院内府

村上源氏。源通親の末裔。父は准大臣従一位道淳。肖柏の兄。
後花園天皇の宝徳二年(1450)、参議に任ぜられ、以後累進して、後土御門天皇の文明十三年(1481)正月、従一位に叙せられる。のち官を辞したが、同十七年三月、内大臣の宣下を受けた(病のため、二日後に辞す)。長享二年(1488)、出家。法名、妙益。明応三年(1494)六月二十二日、六十七歳で薨去。
文明期の歌壇で活躍し、宮中・将軍家の歌会、甘露寺親長の月次歌会などに出詠した。自邸でも歌会を催す。文明十五年(1483)、将軍足利義尚が和歌打聞の編纂を企図した際、寄人に召された(義尚の病没により沙汰止みとなる)。家集に『十輪院御詠』、日記に『十輪院内府記』がある。

「十輪院御詠」私家集大成6

花面影

面影の残る(あした)の雲も憂し花よなかなか夢と見ましを(十輪院御詠)

【通釈】昨日散った花の面影が残って目にちらつく朝の雲――それも疎ましいことだ。桜よ、いっそのことおまえが咲き散ったのは夢であったと思いたいのに。

【補記】山にかかる朝の雲に、散ったはずの桜の面影を見てしまう。文明十三年(1481)の千首歌。

時鳥

あかつきの夢をかけつつ一声にうつつ少なき時鳥かな(十輪院御詠)

【通釈】暁のまどろみの夢にまで及びつつ鳴く時鳥の一声――醒めて現実に聞く声はわずかであるなあ。

【補記】うとうとしながら夜明けまで待つ時鳥の声。覚醒と夢の狭間に聞くゆえに「うつつくすなき」と言う。文明五年(1473)の親長卿家歌合。

【参考歌】具平親王「続千載集」
世の中はいつかは夢と思はねどうつつ少なき頃にもあるかな

鐘声送秋

高砂や秋もいまはの鐘の(おと)ををのへの雲につつみてぞゆく(十輪院御詠)

【通釈】高砂の、秋も終りを告げる晩鐘の音――その響きを尾上の雲に包んで秋は去って行くよ。

【補記】高砂は播磨国の歌枕。弘仁六年(816)弘法大師創建と伝わる十輪寺があり、その鐘の音を詠むか。文明十五年(1483)、将軍家歌会での作。

【参考歌】大江匡房「千載集」
高砂の尾上の鐘の音すなり暁かけて霜やおくらむ

窓燈

夜の雨のこるともし火いたづらになれて五十年(いそぢ)の窓はふりにき(十輪院御詠)

【通釈】夜降る雨、消え残る灯火――虚しく夜更しすることに慣れるまま、五十年を過ごした私の部屋の窓はすっかり古びてしまった。

【語釈】◇ふりにき 「ふり」は「古り」だが、「降り」と掛詞になって雨の縁語。

【補記】夜には無明長夜を、灯火には法灯を暗示し、出家に至れなかった五十年の生を振り返る。通秀の入道は長享二年(1488)、六十一歳の時であった。

【参考歌】正徹「草根集」
夢にだに契むなしき灯の窓うつ色のくらき夜の雨


最終更新日:平成17年05月30日