HOME主人敬白応接間ことばイラスト秘密部屋記帳所

「ひとりごと」目次へ
前へ次へ
きょうのことばメモへ三省堂国語辞典
email:
98.10.03

切符代惜しし

 以前、「朝日新聞」に中島らもさんの「明るい悩み相談室」というのが連載されていましたが、ある日(1993.11.05 p.16)の質問にこういうのがありました。
 自分は駅のホームの立ち食いそばが好きだ。何より安いのがいい。いろいろな駅の立ち食いそばをたべてみたいのだが、そうすると切符代がかかって、かえって高くついてしまう。どうしたらいいでしょうか……。
 その答えはここでは触れないこととして、そのタイトルがちょっと注意をひきました。

駅そば食べたし切符代惜しし

というのです。
 これはたぶん「ふぐは食いたし命は惜しし」のもじりでしょうね。
 北原白秋の詩「雨」に「遊びに行きたし傘はなし」とあるように、この「〜し、〜し」と形容詞の終止形をならべる言い方は、「何々したいけど、何々なので困る」というときに使う。
 ただ、この「惜しし」は伝統的な語法にはかなってません。前に「大きし」のところでも触れましたが、現代の形容詞の「イ」を機械的に「シ」にすれば古代の言い方になるわけじゃないんです。今の「大きい」はそもそも「大きなり」から出たのだし、「惜しい」は「惜しし」ではなく「惜し」だった。「し」は1つで結構。
 このような「〜しし」という言い方は、中世からぼつぼつ現れているようです。鈴木丹士郎氏は「形容詞―シシについて」(「国語学研究」3 1963)で「悪(あ)しし・欲しし……」など、全部で57語ほどの実例を上げてていますが(「悪し」「欲し」が古代の形)、後にはもっと種類が増えました。
 だから、それなりに歴史がある語形ではあります。
 谷崎潤一郎も使っています。彼は1945(昭和20)年から翌年の春まで岡山県津山市に疎開していました。そのころに記した日記「越冬記」の一節。

 十二月十日 雪後雨
 〔略〕夕食後より招かれて家人重子さんゑみ子同道水嶋家に至る。今夜は地唄の三味線の上手なる某婦人の演奏をきくためなり。〔略〕此の師匠は此の町に貸間を求めに来りたれども部屋見付からぬため明日福山に立つとのことなり。まことに惜しゝ。十時過帰宅す。(『谷崎潤一郎全集』16 p.97-98)

 谷崎の頭に「ふぐは食いたし命は惜しし」ということわざがあったのでしょうか。古来の語法ではないと知りつつ意識的に使ったのか、それともうっかりミスでしょうか。


関連文章=「大きし

追記 「し」で十分なところを「しし」としている例をいくつか挙げておきます。
 「よしない文を明て見たゆゑ、かなしさまかなしし胸がせまって、大きに泪をこぼしました」(「人情本・仮名文章娘節用」〈1831-34〉)


●この文章は、大幅に加筆訂正して拙著『遊ぶ日本語 不思議な日本語』(岩波アクティブ新書 2003.06)に収録しました。そちらもどうぞご覧ください。

「ひとりごと」目次へ
前へ次へ
きょうのことばメモへ ご感想をお聞かせいただければありがたく存じます。
email:

Copyright(C) Yeemar 1998. All rights reserved.