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98.08.31

大きし

 昨日(30日)は広尾の都立中央図書館に行っていました。目的は達せられなかったんですが、その代わりちょっと珍しいものを見ました。
 図書館のロビーに、所蔵書の中から、いろいろな古い植物図譜(図鑑)を並べて展示してあるのです。
 その中に、1692年(元禄5年)刊の『錦繍枕(きんしゅうまくら)』という図鑑がありました。300年ぐらい前の書物ですが、花の形などを絵入りで説明しています。著者は伊藤伊兵衛。
 ガラスケースの中に入っていたので、自分でめくってみることはできないのですが、たまたま開かれていたのが「大きり紫」のところでした。

大きり紫

こひむらさき
太りん葉も
大きし

 漢字は「大桐紫」でしょうか。「濃い紫。大輪。葉も大きし」と書いてあるのでしょう。
 この「大きし」が、ちょっと面白かったのです。
 というと、「別に面白いことはない、現代語の『大キイ』は、古くは『大キシ』だったわけだろう。そのままじゃないか」と言われそうです。ところが、そうでもない。古くは「大キシ」ということばはありえなかった。
 というのも、古代の形容詞を見ると、「赤ク」のように「〜ク」の形にしたときに「ク」の直前にきている音は、たいていはア・ウ・エ・オ段の音に限られていたのですね(注)。「アク(赤)・シク(白)・アク(暑)・サク(寒)・サヤク(清)・アマク(遍)」などのように。イ段音が来る場合というのは、「サビク・ウレク・ナマメカク」などのように、「シ」ぐらいしかなかった。
 さて、「大ク」の「キ」を見ると、これはイ段音なので、古くからあることばでないらしいと考えられます。じつは室町時代以降にできたことばで、当初から「大キシ」ではなく、今と同じく「大キイ」の形しかなかった。
 ということは、「大きし」と書いたのは、『錦繍枕』の著者が古めかしい言い方にしようとして、かえって歴史的にはありえない言い方をしてしまったんですね。角川『大字源』を見たかぎりでは、近世には「大きし」の言い方を載せた辞書はないようです。珍らしいと思うのですが。
  北原保雄「形容詞のウ音便――その分布から成立の過程をさぐる――」国語国文36-8, 1967.08

関連文章=「切符代惜しし

追記 湯沢幸吉郎『増訂江戸言葉の研究』(明治書院) p.277、形容詞終止形で下に続ける場合の例文の中に、

私{わたし}どもと違ッて形{なり}は大きし、ちからはあり、宜{いゝ}関取にでも成{なん}なさるだらう

という『四時遊観 花筺』(天保12年〈1841年〉)の例が出ています。これは『錦繍枕』よりもだいぶ下るわけです。(2001.03.01)

追記2 境田稔信氏に見せていただいたブリンクリー『和英大辞典』(三省堂、明治29〈1896〉)では、「可愛い」を「カワイシ」という不思議な語形にして掲げています。「大きい」を「大きし」とするのと似ています。

Kawaishi, -i, -ki, かはいし, 可愛, a. Lovely; pretty; darling; beloved; charming.

 当時の辞書は、見出しを「〜し」形に統一していたので、実際には口では「カワイイ」と言っていたのに、辞書に載せるときは「カワイシ」という実際にはない形にしていたのではないかと思います。歴史的には、「カワユシ→カワユイ→カワイイ」で、「カワイシ」という言い方はなかったのでしょう。
 また、同じく境田氏に見せていただいた山田美妙『大辞典』(明治45〈1912〉)では形容詞「かはいい」の項目にかはいしの近體。」との説明があります。つまり、山田美妙は「カワイシ→カワイイ」と移り変わったと解釈しているようです。しかし「カワイシ」は疑問です。(2003.02.11)


●この文章は、大幅に加筆訂正して拙著『遊ぶ日本語 不思議な日本語』(岩波アクティブ新書 2003.06)に収録しました。そちらもどうぞご覧ください。

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