若松賤子 わかまつ・しずこ(1864—1896)


 

本名=巌本甲子(いわもと・かし)
元治元年3月1日(新暦4月6日)—明治29年2月10日 
享年31歳 
東京都豊島区駒込5丁目5–1 染井霊園1種イ4号13側 



翻訳家。会津藩(福島県)生。フェリス女学院高等科卒。幼くして英語を学ぶ。フェリス女学校卒業後母校の助教となり教鞭をとる。明治22年24歳のとき明治女学校校長で『女学雑誌』社長の巖本善治と結婚。『女学雑誌』『国民の友』『少年園』などに童話や小説を書いた。『小公子』の名訳が知られる。






 

ききなれし 草の庵に 音たえて
ただ虫のねの いとあわれ
萩のおとすか 露しげき 涙の水に声ぬるる
ほそきしずけき しらべをば
妻の手なれし琴の音と
きかんとすれば 影もなし
三日月のとがまの光 きらめけば
わが村雲をたちねかし
森の木梢にふく風の わが胸のうち払へかし
糸よりほそき 虫の音も
志ばしつづけてなきねかし
いざいざ われももろともに
人知らぬまに なかんとぞ思ふ
                            
(木かげの虫の音)

 


 

 教師として教壇に立っていた母校フェリス女学校に、明治女学校校長の巖本善治が講演に訪れて知遇を得た。巖本主宰の『女学雑誌』に若松賤子名で詩などを発表し、明治22年、巖本と結婚。フェリス女学校の教師を退き明治女学校の教壇に立った。その間も病身の体を厭いながら『女学雑誌』に幾多の作品を発表、殊に『小公子』は名訳として少年少女に読み継がれていったが、29年2月5日早朝、明治女学校が火災にみまわれ、肺結核の病床にあった賤子も避難したが病状は急変し、5日後の2月10日午後1時30分、心臓麻痺により避難先の一室で死去。12日、女学校生徒の合唱する葬送曲におくられて、棺は染井墓地に葬られた。



 

 同じ時代を生き、同じ病を得て、同じく明治29年の11月23日に亡くなった樋口一葉は若松賤子に憧れ、その訃報を聞いて〈とはばやと思ひしことは空しくて今日のなげきに逢はんとやみし〉との歌を詠んで追悼したのだった。
 賤子の故郷会津若松の生家裏庭に遺言を刻んだ記念碑がある。〈私の生涯は神の恵みを 最後まで心にとどめた ということより外に 語るなにものもない〉——。
 ここ東京駒込の染井の霊園にある塋域には遺言のとおり「賤子」「明治二十九年二月十日永眠」とのみ彫られた五輪の墓があった。石肌に手を置き、温もりを感じながら合掌すると、松の木陰に楚々と建つ碑に一日の残り陽が輝きを増して虹のように架かりはじめた。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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