寺山修司 てらやま・しゅうじ(1935—1983)


 

本名=寺山修司(てらやま・しゅうじ)
昭和10年12月10日—昭和58年5月4日 
享年47歳(天游光院法帰修映居士)
東京都八王子市初沢町1425 高尾霊園A区19側 



詩人・歌人・劇作家。青森県生。早稲田大学中退。昭和29年「チェホフ祭」で『短歌研究』新人賞受賞、斬新な表現が反響を呼ぶ。32年第一作品集『われに五月を』刊行。42年劇団「天井桟敷」を結成。評論集『書を捨てよ、町へ出よう』を刊行。歌集『血と麦』『田園に死す』などがある。



 



昭和十年十二月十日に
ぼくは不完全な死体として生まれ
何十年かゝって
完全な死体となるのである
そのときが来たら
ぼくは思いあたるだろう
青森県浦町字橋本の
小さな陽あたりのいゝ家の庭で
外に向って育ちすぎた桜の木が
内部から成長をはじめるときが来たことを

 

子供の頃、ぼくは
汽車の口真似が上手かった
ぼくは
世界の涯てが
自分自身の夢のなかにしかないことを
知っていたのだ
                              
(懐かしのわが家)



 

 〈生が終わって死が始まるのではない。生が終われば死もまた終わってしまうのである。「蝶死して飛翔の空を残したり」----うそだ。うそだ。蝶が死ねば、空もまた死んでしまう。すべての死は生に包まれているのであり、それをうら返して言えば、死を内蔵しない生などは存在しないという弁証法も成立つのである。〉と。『誰か故郷を想はざる』にこのように記した寺山修司は、昭和58年5月4日午後12時5分、肝硬変から腹膜炎を併発、敗血症によって東京・杉並区の河北総合病院で死んだ。
 自然は胸の内にあるべきであったが、夏が秋を呼び、秋が冬を呼び、冬は春を、それぞれの季節が、企みを隠して夢見る季節を呼ぶように、47年の歳月を駆け、完全な死体となって姿を消した。



 

 悔しいだろうが、もう充分に生きたのだ、精一杯生きたのだ。〈言葉の錬金術師〉と揶揄されることもあったそうだが、その言葉を縦横に操ってありとあらゆる活動をした。俳句、短歌、詩、小説、脚本、作詞、随筆評論から果ては映画監督まで。これ以上何を望むことがある。寺山修司よ。
 ——〈私は肝硬変で死ぬだろう。そのことだけははっきりしている。だが、だからと言って墓は建てて欲しくない。私の墓は、私の言葉であれば、充分〉。
高尾の山懐、高乗禅寺奥先の霊園にあるこの墓は、母はつが建てた。その母もここに入った。逃れても逃れられなかった母とついには一緒に眠っている。——〈駆けてきてふいにとまればわれをこえてゆく風たちの時を呼ぶこえ〉。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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