仏道特別道場・草枕無門関峠の道場無門関峠への道程
 

     無 門 関 峠 へ の 道 程        <第一部>     

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  トップページHot SpotMenu最新のアップロード                    執筆: 高杉 光一 <1999. 9. 4 >

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 第1章  無門関峠 1999. 9. 4
 第2章  立秋の道場 1999. 9. 8
 第3章  二つの円 1999.10. 2

 

 第 一 部...空間的超越  / 無境界  <リアリティーには、切れ目がありません>

 

    第1章/無門関峠・・・ 

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                              大道無門

                        千差路あり

            この関を透得( とうとく )せば

  乾坤( けんこん=宇宙 )に独歩せん

 

 
  無門禅師はこう言っておられるわけですが、この大道無門、“悟り”の入り口、

“無門の関” はいったい何処にあるのでしょうか。このホームページでは、それは、

<無門関第3則/倶胝竪指/ 無門の評語> に示してあります。以下にそれを再度

示します。                                          <参考・ジャンプ>

 

                         ***********************************************

  <3> 無門の評語...口語訳

 

  倶胝の悟りも、また若い侍者の悟りも指の上にはない。このところを真に見通し得

るならば、天竜も倶胝も侍者も、そして君自身も、皆一串(ひとくし)に貫き通されてしまう

であろう。

 

  無門禅師は、倶胝の“悟り”も、若い侍者の“悟り”も、指の上にはないといいま

す。では、何処にあるのか...           

 

  それは、自己を“無”にした時に見えてきます。では、自己を“無”にするとは、どう

いうことでしょうか...それは、主観と客観という二元論的な対立を超越し、自己が

“内外打成一片(ないげだじょういっぺん) <ジャンプ> となることです。

 

  では、この“内外打成一片”とは、どのようなものでしょうか。これは、この眼前する

リアリティーの世界を観じる時、世界という自己が、世界という自己自身を見つめてい

る関係になります。私は目の前の風景であり、雲であり山であり川であり...その私

が、風景そのものを見ています。雲が、山が、川が、それ自体を見つめています。こ

の時、自己が“無”なっています。二元的自己を超越し、“内外打成一片”が実現して

います...

 

( 例えば、静かな水辺で、水を見つめてください。そして、自分自身の“自己”の境界線

を、水辺の風景にまで押し広げて行ってください。そして、拡大した自己で、自己自身を

見つめてください...ここは、とりあえず自己の拡大になります.....本来は“無”であ

り、“無我”になるための道程です...)

 

(   このような、日常的な言語感覚の世界を越えるところに、悟りの世界の不可解さ、奇

妙さがあります。しかし、本来、この悟りの世界の方が真実の姿です。私たちは、二元

対立的な幻想から生まれた言語的意味世界から、より深いリアリティーの世界に立ち帰

ろうとしているのです。しかし、だからといって、“悟り”とは日常からかけ離れた、恐ろし

いものではありません。道元禅師も正法眼蔵の中で、それは“水に宿る月のようなもの”

と言っておられます...)

 

  人が悟りを得るのは、ちょうど水に月が宿るようなものである。月は濡れ

ず、水は破れない。広く大きな光ではあるが、寸尺の水にも宿る。月全体が

草の露にも宿り、一滴の水にも宿る。

  悟りが人を破らないのは、月が水に穴をあけないようなものである。人が

悟りを妨げないのは、一滴の露が天の月を妨げないようなものである。一

滴の水の深さは、天の月の高さを宿している。

  月影が宿る時の長短にかかわらず、それが大水にも小水にも宿ることを

学び、天の月の大きさを知りなさい。

                            ( 正法眼蔵/現成公案より /ジャンプ )

 

  最初は、この“内外打成一片”という感覚は、ほんのかすかかもしれません。しか

し、世界が世界自身を見つめているという感覚は、比較的簡単に体験できます。この

時の感覚は...

 

  この時、彼はすばらしい夢を見た唖子(おし)のようなもので、ただ自分が身をもって

知っているだけである。

                                          ( 無門関・第1則/無門の評語より/ジャンプ )

 

つまり、この感覚です...これが、“内外打成一片”の風景の片鱗です。そして、ここ

が、“悟り”の入り口、“無門の関”です。

 

                             大道無門

                 千差路あり

     この関を透得( とうとく )せば

乾坤( けんこん=宇宙 )に独歩せん

                     ( 無門禅師の自序/ジャンプ )

 

  峰の色 谷の響きも みなながら

           我が釈迦牟尼の 声と姿と

                                          ( 道元禅師の短歌ジャンプ )

 

  さあ、ようやく“無門の関”に着きました...後は、この“関”を通り抜けることです。

そして、“悟り”の世界に入って行かなければなりません。

 

                          

                                          (1999.9.8 )

      第2章/ 立秋の道場・・・

        wpe54.jpg (8411 バイト)    大道無門・・・

                                                             千差路あり・・・

 

  さて、趙州の“無”、倶胝の“竪指”“世界が世界を見つめている”“内外打成一

片”...これらは全て同じ一つの概念を指しています。この二元的対立を超える概

念に、少しずつ習熟していくことが修行の始まりになります。

 

 

< 修練.2−1 雲になる >

 

  季節は夏から秋に移ろうとしていますが、空にはまだ真っ白い入道雲が

わいています...ここでいう“世界が世界自身を見つめている”風景とは、

まず自分がその入道雲になってみることです。この、入道雲になってみる

ということは、そんなに深く考える必要はありません。自分がその雲そのも

のになり、その青空の高い雲の峰で光り輝いてみることです。

  むろんこれは、入道雲でなくてもいいのです。秋になれば、鰯雲であり、

高層雲であり、あるいは西の空の夕焼け雲でもいいのです。自分がそうし

た雲そのものになり、雲が雲自身を見つめているという感覚に入ってみる

ことです。最初は不器用なものでいいですから、これは自分で何とかし、

習熟していくほかはありません。

 

  どうしても、自分が雲になるという感覚がつかめない人は、30分でも1時間でもいいで

すから、草むらにでも寝転がって、雲をじっと眺めてみてください。そうしているうちに、自

分が雲になって、空を流れていくという感覚がわかってきます...そして、雲になった自

分が、雲自体を見つめていくのです...

 

  この“内外打成一片”の感覚は、口では言えず、言葉にするのも難しいのですが、何

とも楽しい感覚です。存在する事の、根源的な深い喜びを感じます。うつ病の人は、存

在している事に意味を失い、消えてしまいたいという感覚を持つらしいですが、これはそ

の逆のように思います。意味も理由も無く、ただ存在する事の、根源的な深い喜びを感

じます...

 

  さて、雲の次は、山を見つめて見ましょう。そして、山が山を見つめてい

るという感覚を覚えてください。これは、山が山を学ぶともいいます。それ

からさらに、花が花を学び、水が水を学び、世界が世界を学ぶという感覚

を次第に身につけていきます。そうなってくると、言葉の不適切さ、真の

外打成一片”の感覚、その背後の深い意味というものをも、しだいに分か

ってくるようになります。

   しかし、とりあえずは、“世界が世界を見つめている”という“内外打成

一片”の感覚に習熟してください。むろんこれは、一朝一夕に成就できるも

のではありませんが、それほど難しいというのもでもありません。慣れてく

ると、それそのものの質も高まってきます。また、それには、“正法眼蔵・

草枕”、“無門関・草枕”、あるいはその方面の専門書等を、くり返しお読み

ください。修行が進むにつれて、道元禅師や無門禅師のより深い御心が

分かってきます。

 

  ともかく、修行の初めにおいて肝腎なのは、“内外打成一片”に習熟す

る事です。これが、この“無門関峠の道場”の第1歩です。

 

  繰り返しますが、自分が雲になってみるということは、自分も雲も同じ一人称になると

いうことです。そうやって、雲になり、青空になり、山になり、草原になり、コスモスの花に

なり、次々とシフトしていってみて下さい。それから、その全てになってみてください。そし

て、“世界が世界を見つめている”という感覚を体験し、習熟して行ってください。

 

 

< 修練.2−2 眼前する風景の中の、永遠の相 > 

 

  “絵心”というものがあります。画家などはすぐにスケッチブックを取り出

し、ササッと書き始めます。放っておくと、何でも書いてしまいます。また、

人によっては独特の感性というものがあり、きわめてユニークな角度から

描いていきます。これを絵心というのでしょうか...

  仏道において、このリアリティーの世界を観じていく感覚は、この絵心に

に通じるものがあります。しかし、絵心のままでは修行になりません。仏道

を学ぶ者としては、その絵の中に、“永遠の相”を見ていかなければなりま

せん。つまり、移り行くものの中に、永遠不変のものを見つめて行くというこ

とです。

( これが具体的に何かといわれると、難しいものがあります。しかし、私たちがたまに体

験する、息の止まるほど美しい風景に接した時、あるいは美しい夕焼け空に我を忘れて

見入っているような時...そこには我知らず“永遠の相”が発現しているのです...)

 

   “絵心”といい、 “永遠の相”といい、いずれも難解な表現かもしれませ

ん。しかも、その本当に意味しているところは、それとは少しズレた所にあ

ります。しかし、いずれにせよ、修行が進んで行けば、次第にその意味す

るところも分かって来ます。

  したがってとりあえずは、変転していく時空間関数の風景の中に、“絵

心”“永遠の相”を見るように心がけて行ってください。そして、この“永

遠の相”を見るということは、“世界が世界を見つめている”という二元的対

立を超えるということとも共通しているのです。

 

  いずれにせよ、千差路あり ...です。自分で工夫し、自分で獲得して

行くほかに道はないのです。ここに記す私の文章は、単にそのための手

助けをしているに過ぎません。

   

 

< 修練.2−3 自己の内部に響く音を聞く > 

 

 次は、音について考えてみます。私たちの五感では、音というものはか

なりの領域を占めています。とくに、この感覚器官は最も自己コントロール

のしにくいものと思います。しかし、逆に、エレクトロニクス方面からのコント

ロールでは、最も進化した分野ではないでしょうか。

  さて、私がここで述べる音は、物理学的な音でも、エレクトロニクスでデ

ジタルに還元された音でもありません。ここで述べる音は、それが人間に

取り込まれ、生命体という深淵を超えた、意識領域の音についてです。

 

  ここでは、この音に関しても、一人称として捉えていかなければなりませ

ん。つまり、二人称や三人称といった、対象化した存在として音を捉えるの

ではないということです。つまり、音もまた、“内外打成一片” でなくてはな

らないのです。では、具体的にどうすればいいのかというと、カー・ラジオ

から流れてくる声や歌は、自己の内部から発現していると観じていくわけ

です。

 雲が自己であり、山が自己であり、花が自己であり、ついでに音も自己と

いうわけです。そして、山が山を学び、水が水を学ぶように、音が音を学ん

で行くのです。

 

*****************************************************

<ここに、先人の言葉を示しておきます。>

 

私の身体は、幽霊のようなもの、小川のあぶくのようなものだ...

心自体を見つめる心は、空っぽの空間のように形をもたない...

が、その中のどこかで、音が知覚される...

聞いているのは誰か?

 

      ( 抜隊禅師の言葉...ケン・ウィルバーの著書 “意識のスペクトル” より )

                                        <参考・ジャンプ>

********************************************************

  さあ、無門関峠の西の空は、立秋の夕焼け雲で真っ赤に染ま

っています。空気が澄み、心も澄み渡っています。今、まさにこの瞬間

において、時間の美しさ、空間の哀しさ、存在の確かさを、しっかりと

学んでください。

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                                                      (1999.10. 2)

    第3章/2つの円・・・ 

                              wpe6D.jpg (7419 バイト)        wpe54.jpg (8411 バイト)  

  現代人の私たちは、自分からこういうのもなんですが、かなり理屈っぽいと思いま

す。これは現代文明が、科学という二元論的な物理空間の基盤上で成り立ってい

るせいでしょうか。そのために、納得のいく説明をしなければ、なかなか入って行けな

いというところがあるようです。道元禅師は“只管打坐(しかんたざ/ただひたすら座禅すること)

主張されましたが、現代はもはや当時とは時空間が変質してしまっているのではな

いでしょうか。

 私が、自我という局所系を否定するのに“ベルの定理”を使ってみたのも、こんなと

ころに理由がありました。特に技術系や理科系を好む人には、当初はしっかりとした

理由付けがないと受けいれ難いのかもしれません。しかし、いずれにしても、言って

いることはごく単純なことです。“自我”だとか、“自分の心”などという独立した存在

(完全に独立した系/局所系)は、本来何処にも存在しないのだということです。完全に独立し

た存在、つまり局所系が存在しないということは、全体が一つだという事です。この

宇宙は、1点を突つけば、その影響は全体に響くということです。

  この世界は“唯心”、唯一つの心だという絶対主体性の意味も、ここにあるので

す。

              参考: 私の心はいったい何処にあるのか/達磨安心>

 

  科学とは、現代文明を支えるしっかりとした二元論で構成される学門です。この二元

論の権化が、現在の私の最も大切な道具の1つとなっている、コンピューターと言えるか

もしれません。21世紀はまさにコンピューターの時代になりそうですが、これは、0と1の

みで表現される二進法の世界なのです。

  しかし、“悟り”への関門である“無門関”は、この二元論的概念の超越がスタートにな

ります。まず、この科学万能の時代にあって、二元論的慣習を越えるのは、容易ではあ

りません。結局、私は、この科学という二元論的パラダイムを超えるために、辛くもこの

二元論的科学の手法を駆使しているわけです.....

 

                                                 

< 修練.3−1 リアリティーと認識の考察 >  

 

 さて、私たちが毎日見ている、この視覚から来る風景.....この、飽き飽きするよ

うな眼前の日常世界は、いったい何者なのでしょうか。私たちはこの仮想的な風景

の中で、笑い、怒り、出会い、一生懸命に働き、それぞれの人生を送っているわけで

す。つまり...これが、ごく一般的に言うところの“世界・この世”の概念です。この

眼前に展開している世界をしっかりと把握しようとする時、

私たちはこれをリアリティー と呼びます。

 

  このリアリティーとは何者なのか...なぜ、このような時空関数の世界

が流れているのでしょうか.....

  一方、認識とは何者なのか...認識とは、なぜ時間と空間の関数で表

現されるのでしょうか..... 

  さらに、記憶とは何者なのか...虚無の世界に歪が生じ、二元対立的

な概念が生まれます。そして、その波動が複雑に絡み合い、このリアリ

ティーの世界を人間原理ストーリイとして描き出していきます.....そう、

まさに “何者か”の上に、時空間の関数として記憶して行きます.....

 

  さて...この“何者か”とは、何者なのでしょうか...

“この世”と“何者か”との関係.....

“この世”と“認識形式”との関係.....

“認識”と“この世”と“主体性”との関係.....

結局、これらは“一つのもの”なのではないでしょうか

< 自分自身で、じっくりとお考え下さい。そこから、教わるのではなく、学ぶことが始まます。悟りを得るに

は、自分で道を学ばなければなりません。>

 

  いずれにしても、ここはこの眼前に展開する最も基本的なリアリティーの再認識か

ら入ります。この基本領域での変容こそが、“無門の関”となるからです。繰り返しま

すが、端末の変容ではなく、“人間原理”の基幹領域での変容ということに、その影

響の大きさがあります。

 

< 修練.3−2 2つの円が一致する所に、 > 

  さて、まず...

 

この世界を...見ているのは...誰か......

 

  これは、言うまでもなく、“私”です。では、“私”以外に、この眼前の世界を見ている

者はいるのでしょうか.....

  ここは冷静に、じっくりと考えてみて下さい。あまりにも簡単で、あまりにも常識的

すぎて、私たちは日頃こんな事は全く考えなくなっていたのです。つまり、考えるまで

もなく、目の前には友人がいるし、ビルの林立する街があるし、大勢の人がいて、そ

れぞれがこの共通する社会を構成しているではないかと見ていたわけです。

  むろん、この見方も、間違いとは言いません。なぜなら、この真実の結晶世界に

は、“真の間違い”などというものは存在しないからです。したがってこの風景を、こ

の章のテーマである“2つの円”の内の <第1の円> とします。

 

  さて、ではもう一つ.....こうは考えられないでしょうか...

 

  “私”以外に...この眼前の世界を...見ている者はいない...

 

  何故、こんなことが言えるのか..... うーむ.....

 

  これは.....つまり、全て、私の目の網膜に入った情報だからです。そし

て、“全てが、の五感から入った“私の情報”だからです。つまり、よくよく考えてみ

れば、“この世”の全ての認識形式は、完全に私に依存しているのです。そして、こ

れ以外のものは、厳密には何も存在していないように思えます。太陽系の星々も、

夜空に煙る銀河の星々も、隣にいる友人さえも、みんな“私”の中に入った認識なの

です。山も川も世界そのものも、“私”を通して認識された、“私の世界”です。

  そして、ここで思い出してください。“私”というような、完全に独立した局所系は本

来存在しないのだということです。“ベルの定理”は数学による局所系の否定であり、

これは物理空間でのことです。一方、表裏の関係にあるこの眼前に展開するリアリテ

ィーの世界の最大特徴も、無境界です。こうした系の中では、独立した局所系などと

いうものはありえないのです。すると、“私とは何者か”というと、世界そのものという

ことになります。

 

< リアリティーとは.....上下左右360度、切れ目がありません>

  自然界には、様々な線や面、立体はありますが、それは切れ目や境界で

はありません。石ころを空中に投げても、それはリアリティーから切り離され

てしまったわけではないのです。ここで言う切れ目や境界とは、写真やテレ

ビ画面の切れ目のようなものとお考え下さい。写真やテレビ画面は、その枠

の中だけが見えていて、他はちょん切られています。しかし、家から外に出

て周囲を見回した時、写真やテレビ画面のようにちょん切れたところが1ヶ

所でも存在するでしょうか。確かに、大きな工場の壁にさえぎられるというよ

うなことがあるかも知れません。しかし、それは視界がさえぎられたのであっ

て、写真のように切断されているわけではないのです。この、ごく当たり前の

風景が、リアリティーの最大の特徴でもあるのです。

  この“無門関峠の道場”では、このリアリティーというものを知り、理解し、

体得することが主要のテーマとなっています。つまり、ここに、“悟り”への“無

門の関”の一つが開いているということです。

 

 

  もう一度、整理してみましょう...

 

この世界を...見ているのは...誰か...

“私”以外に...この眼前の世界を...見ている者はいない...

 

では...“私”とは何なのでしょうか...

 

   局所系として何処にも存在しない“私”とは、何なのでしょうか...これは、つま

り、こういうことになります。

  すなわち...私の認識している全てが私だということです。つまり、この世界とい

う風景そのもの、リアリティーそのものが、私だということです。山々が私であり、海

が私であり、雲が私であり、目の前にいる友人もまた私だということです。これはすな

わち、これまで述べてきた、“内外打成一片”の姿ということになります。そして、これ

<第2の円> です。

 

  修行では、この2つの円が完全に重なるように修練してください。すなわち、今自

分自身が見ている風景、全認識そのものが、自分自身そのものなのだということで

す。そして、自分自身が、自分自身を見ているのだということです。いわゆる、

“内外打成一片”ということであり、言っている意味は同じです。

 

  日常的な風景の<第1の円>と、“内外打成一片”となった<第2の円>を重ね合わ

せる修練をしてください。

                                             wpe54.jpg (8411 バイト)  house5.114.2.jpg (1340 バイト)

  通りすぎてしまえば、なんということもない風景ですが、今はこの“二つの円”を道

具として利用してください。

 

  < “無門関” 第四十一則・達磨安心 > で、二祖・慧可(えか)は、菩提達磨に心を

持って来いと言われます。が、慧可は長年それを求めていましたが、ついに見つけ

る事が出来ませんでした。これは、腕を切り落として教えを請うという壮絶な風景で

す。そして菩提達磨は、それでよいのだと言っているわけです。

 

  が、それはそれとして、“心は何処にあるのか”と言われれば、それは“自分自身

が今見ている風景が、自分の心”だということです。“自分自身が今聞いている音

が、自分の心”だということです。つまり、“自分が、自分自身という心を見つめ...

自分という音が、自分自身を聞いている”ということになるのです。

 

  ここに、“趙州無字”、“倶胝竪指”、“内外打成一片”の風景があるのです。

 

 

 

    次は、第二部として、“ 無門関峠の永遠 ”に移ります。ご期待下さい。