仏道正法眼蔵・草枕現成公案

      
               現 成 公 案     <げんじょうこうあん ・・・ 真理を実現すること ・・・>

 
 
     
                          

 トップページHot SpotMenu最新のアップロード                執筆 : 高杉 光一   <1998.5.3/開始> 

            

   現 成 公 案            


  すべてのものごとを、仏道の立場から見るとき、迷いと悟り、修行のあるなし、生と

死、解脱(げだつ)した人とそうでない人の違いが明らかになる。総べてのものごとを無

我の立場から見るとき、迷いもなく悟りもなく、解脱した人もなく解脱しない人もなく、

生もなく死もない。

  もともと仏道は、有るという立場にも、無いという立場にも捉われないものであるか

ら、生死を解脱したところに生死があり、迷悟を解脱したところに迷悟があり、解脱の

あるなしを問題としないところに解脱があるのである。しかしなお、そのことがわかっ

ていながら、解脱を愛し求めれば解脱は遠ざかり、迷いを離れようとすれば、迷いは

広がるばかりである。

 

<要約>

  人間は現実のものごとに執着して縛られているが、そのような状態から自由になって、ありのまま

の真実を知ることが、「解脱」である。一度この境地に至れば、あらゆる差別観から自由になって、解

脱することそのものにも捉われなくなる。それは理論によってできることではなく、あくまでも実践によ

って達成されることである。

 

(1)・・・

  全体として、分かりやすい含蓄のある言葉です。何度も繰り返して読み、呑み込ん

で下さい。こうした努力の積み重ねが、正法眼蔵を自分のものとします。

(2)・・・

  総べてのものごとを、“無我の立場から見るとき とあります。そのような時、

迷いもなく、悟りもなく、解脱した人もなく、解脱しない人もなく、生もなく、死もない 

と言っています。

  さて、この無我とは、どのような立場なのでしょうか。これは文字の通り、無我

なのですが、ここでは少し角度を変えて切り込み、唯心の風景と言い直してみま

しょう か...では、その唯心の風景とは、どのようなものかを考察してみます。

 

<唯心> (唯物に対する、唯心です・・・唯物論/唯心論)

  “唯心”とは、この世は、ただ一つの心だという解釈です。千でも百でもない、君と

私の二つでもない、“ただ一つの心”、と言うことです。さて、ではこの“唯一の心”

の風景とは、どのようなものなのでしょうか...

  まず、唯一の心しか、この世の中に無いとしたら、客観性や対象性という概念が

成立しません。第二者も第三者も存在しない風景...あるのは、第一人称の主体

のみ...これを、“絶対主体性”といいます。

  こうした絶対的な内的空間では、“我は・・・我自身を見つめているという関係

になります。さらに、今そう思って自分を見つめている心も、やはり自分です。これは、

まさに際限のない入れ子細工のような風景でもあります...繰り返しますが、全体

単一の我”であり、それ以外何者も存在しないということです。

 

(考えてみれば、こんなことになんの意味があるのでしょうか...しかし、これが、この世界の

認識形式なのです。とりあえずは、心に留めておいて下さい。今見ている、眼前の風景が、ま

さにソレです...)

 

  大地も我、空も我、宇宙さえも我です。その我を、“我”が見つめているのです。さ

らに、目の前にいる友人も我、その向こうにいる他人も我です。いずれにせよ、“我”

の心に映るものは、全て我です。全ては、“唯一の・・・我の心の風景”なのです。

 

   “世界が・・・世界を見つめている風景・・・”

   “山が山を学び・・・水が水を学ぶ風景・・・”

 

  すべて同様の概念です。仏道を学ぶ上での、基本的概念ですので、しっかりと確

かめておいて下さい。

( これを進めて行くと、あらゆる形態すらも溶け、ただ“光”となるといわれます。ただ光が光を

見つめている風景となり、それが突き抜けます...)

 

(3)・・・

  仏道は、有るという立場にも、無いという立場にも捉われないものであるから、

生死を解脱したところに生死があり、迷悟を解脱したところに迷悟があり、解脱

のあるなしを問題としないところに、解脱があるのである。

 なかなか難しい概念です。ここはともかく、仏道は、有るという立場にも、無いとい

う立場にも捉われない  ということを覚えておきましょう。一気に体得するのは難しい

ですが、少しづつ学んで行くうちに、分かってくると思います。

( 実は、私も、この概念をまだ深く考察したことがありません。それで、この概念を心に留めておき、

時折引き出して眺めています。仏道を学ぶとは、理解することではなく、修行することだということでし

ょうか...)

    

  自己の立場から、あれこれと思案して、ものごとの真実を明らかにしようとするのが

迷いである。ものごとの真実が自然に明らかになるのが、悟りである。

 

<要約>・・・ 自己をむなしくして客観を生かすことによって、真実が明らかになる。

 

  迷いを迷いと知るのが悟った人であり、悟りに執するのが悟っていない人である。

悟りの上に悟る人があり、迷いの上に迷う人もいる。悟った人が本当に悟った人であ

るならば、自分の悟っていることすら、自覚しない。しかしその人は、本当に悟った人

であり、悟りからも迷いからも自由な、解脱の境地を行い現わしてゆく。

 

<要約>

  無知に束縛されない生き方、人間が本来持っている自由な生き方に目覚めることが、悟るというこ

とである。そのためには、「悟り」とか「迷い」とかいう観念からさえ、自由にならなければならない。

 

  身心を一体として、ものごとを見聞きするならば、見るもの聞くものを直接に知るこ

とができるが、その有様は鏡に影が映るようでも、水に月が映るようでもない。主観と

客観は一体であるから、その一方だけを知ろうとするならば、あとの一方は消えてし

まう。

 

<要約>

   ものごとを認識するということは・・・全人格的な行為であって、単なる知的な行為ではない。そのよ

うな行為にあっては・・・主観も客観も一体である。

 

(1)・・・

  昔...<上記の要約>の言葉を自分のものにしようと、何度も何度も読み返し、学んだ

記憶があります。

 


  仏道を学ぶということは自己を学ぶことである。自己を学ぶということは自己を忘れ

ることである。自己を忘れるということは、総べてのものごとが自然に明らかになるこ

とである。総べてのものごとが自然に明らかになるということは、自分をも他人をも解

脱させることである。悟りのあとかたさえ残さないのである。そのことをいつまでも行

い現わして行くのである。

 

<要約>

  人間の真実の生き方は自己のうちに求めねばならない。しかしそれは、自己中心的な考えを貫い

て行くことではなく、むしろ、そういう自分のあり方を否定して行くことのうちにある。それによって客観

的真実が、なんの夾雑物もなしに見られるのである。このように真実の自己を生かすことが、他者を

他者として生かすことである。

 


  人がはじめて真理を求める時、それを自己のそとに求めるから、遥かにそこから

離れてしまっている。真実が、もともと自分のうちにあることが正しく理解されれば、

すぐさま「本当の人」となる。

 

<要約>

  人間の本質に目覚めることが「本当の人」となることである。ここにいう「真理」とは、人間が自

覚的に生きてゆくための実践原理である。「正しく理解する」とは、正しい師を通して、自分が自

分を悟ることである。

 

(1)・・・

  この辺りは、道元禅師のお言葉を繰り返し繰り返しお読み下さい。私には、一言半

句も付け加える言葉がありません。したがって、くり返し読むことで、道元禅師の真意

を汲み取って下さい。

 

                                                                (1998.7.21)


  人が船に乗って岸を見れば、岸が動いていると思い、目を下に向けて船を見れば

船の進んでいることを知る。そのように自己の身心を動揺させて、ものごとの真実を

知ろうとすれば、自分の心や本質が永久不変であると思い誤る。もし自分の行いを

正しくして、それによって事実を直視するならば、どのようなものごとも永久不変で

ないことがわかるはずである。

 

<要約>

  形あるものは必ず滅し、生あるものは必ず死す。この事実を直視することによって、はじめて、

「人間いかに生きるか」という問題に真剣に取り組むことができる。

 

  薪は燃えて灰となり、それが再び薪に戻ることはない。しかしそれをいちがいに、薪

は始めにあるものであり、灰はそれに続くものであると考えてはならない。薪は薪に

なりきっていて、始めから終わりまで薪である。見かけの上では前後があるが、それ

は、つながりのない前後であって、薪はどこまでも薪である。灰もまた灰になりきって

いて、始めから終わりまで灰である。

 

<要約>

  生が死に連がるものだと考えるのが、常識の立場である。生が生として完結している絶対の境地

であることを知るのが、常識よりもさらに高い死生観である。

 

(1) 傍線部分

  若い頃、私はこの言葉の意味がどうにも理解できませんでした。灰が薪に戻ること

がないのは分かりましたが、薪は燃えて灰になるではないか、と考えたのです。無論、

それは理屈であり、非可逆的な化学反応のことです。そして、私はどうしてもそこを離

れることができず、そのあたりでくすぶっていました。ま、結局は、放っておいたわけ

ですが...

   しかし、今ではそれが、素直に読み下せるようになっているのが不思議です。た

だ、道元禅師のこれらの言葉を、どれほど理解したか、実は、はなはだ自信がありま

せん。全てが独学であり、人に尋ねたことが一度もないからです...

  が、いずれにせよ、確かに薪は薪であり、灰は灰であり、炎は炎なのです。その前

後を超えて真理が実現し、ストーリイが収束します。したがって、波動関数の彼方よ

り伝播する、そのストーリイに意味はないのです。

 

 <時間の熟成を待つことは・・・学ぶ上で非常に重要な要素です>

     因果律は、二十世紀初頭の量子力学において崩壊しています。ストーリイとは、この

   世の認識及び情報処理の、人間的側面なのでしょうか・・・

 


  ちょうど、薪が灰となった後に、再び薪となることがないように、人が死んでから、

再び生に戻ることはない。このように、生といえば生になりきっていて、生が死に移り

変わるといわないのが、仏道において定められた教えである。従ってそれを

「生死を超えた生」

というのである。死といえば死になりきっていて、死が生に移り変わるといわないの

が、仏道において定められた教えである。従ってそれを、

「生死を超えた死」

というのである。

  生といえば、一瞬一瞬において生になりきっており、死といえば一瞬一瞬において

死になりきっている。それは譬えば冬と春のようなものである。人は、冬そのものが

春に変わるとは思わず、春そのものが夏になるとはいわない。

 

<要約>

  もし不滅の生命というものがあるとすれば、それは死後の世界にあるのではなく、現実の世界に

おける、一瞬一瞬の充実した生き方のうちにこそあるのである。ひとたび生に会えば、生そのもの

を生き抜くということである。いわゆる 「一会一期」 とはこのようなことである。

 

(1)・・・

 教訓としては...事物や事象に接する時、単なる変化の時間関数として眺めるの

ではなく、全人格的に対象を捉えるということでしょうか。

(2)・・・

  “人生とは、不思議なものだ”と、しばしば耳にします。それは特定のものを指すの

ではなく、それぞれの人生における不思議な巡り合わせや、不思議な体験にもとづ

いたものだと思います。では、何故不思議なのでしょうか。おそらくそれは、対象を単

なる時間関数の変化として捉えているからではないでしょうか。

  この現前する世界を“唯心”と知り、絶対主体的な“唯一つの心の風景”だと納得

した時、それらの不思議さの幾らかは解消するのではないでしょうか...

 

                        人は、なぜ赤い糸で結ばれているのか...

                 幸福は、どの座標にあるのか...

           人生の意味は、どのように吹き渡り、

      どのあたりと共鳴しているのか...

 

 

  人が悟りを得るのは、ちょうど水に月が宿るようなものである。月は濡れず、水は

破れない。広く大きな光ではあるが、寸尺の水にも宿る。月全体が草の露にも宿り、

一滴の水にも宿る。

  悟りが人を破らないのは、月が水に穴をあけないようなものである。人が悟りを妨

げないのは、一滴の露が天の月を妨げないようなものである。一滴の水の深さは、

天の月の深さを宿している。

 月影が宿る時の長短にかかわらず、それが大水にも小水にも宿ることを学び、天

の月の大きさを知りなさい。

 

<要約>

  ここにいう「悟り」とは、特別な神秘的なものではなく、総べての人間に普遍的に具わっている「自

由そのもの」 とでもいうべき偉大な宗教性である。それは破ったり破られたり、増やしたり減らした

りすることのできないものである。なぜならばそれが、総べての人に本質的に平等に具わっている

からである。

 

(1) 傍線部分

  これらの言葉は、若い頃から、非常に印象的に心に残っています。

 

                                                                (1998.8.23)


  真理が本当に体得されていない時には、却ってそれが十分であると思う。もしそれ

が本当に体得されているならば、どこか一方は足りないと思う。例えば、船に乗って

海に出て四方を眺めるとき、海は円く見えるばかりで、その外の形には見えない。

  しかし、海は円いものでもなく四角いものでもなく、そのほかに様々の姿かたちが

ある。海は魚が見れば宮殿であり、天人が見れば玉飾りである。それがわれわれの

目に円く見えるに過ぎないのである。

   総てのものごとがそうである。常識の立場にも、仏道の立場にも様々の立場があ

が、人はただ、自分の能力の範囲内でしかそれを知ることができない。ものごとの

実を知るためには、海山が円いとか四角いとか見えるほかに、そのほかの姿かた

ちが極まりなく、無限の世界があることを知るべきである。

 

<要約>

  自分の立場を固定して、それに満足することは危険である。常に自分の限界を知って、それより

もいっそう高い立場があることを自覚すべきである。それによって、人生に対するいっそう深い洞察

が可能になるのである。

 

(1) 文章としては、分かりやすいと思います。

(2) 傍線部分

  例えば、私たちはこの世界の人間的側面というものしか知りません。魚の魚眼レ

ンズで見た世界はどうか、昆虫の複眼で見た世界はどうなのか。あるいは、蛇のよう

に赤外線でものを見る場合や、コウモリのように超音波レーダーで飛行空間を見てい

る場合はどうなのか...そこにはおのずと、この世界の別の切り口が想像されま

す。

    また、道元禅師の見た世界、釈尊の悟った世界...それらは一体どのようなもの

だったのでしょうか...想像するだけでも、胸が高鳴り、心の静まる思いがします。

しかし、傍線部分にもあるように、人は自分の能力の範囲内でしか、それを知ること

ができません。従って、一歩一歩修行を重ね、自分を高めていくことが必要です。

 

<この世界のスケール>.....                (1998.8.23) SC

  この世界はよくしたもので、人の一生は、この世を体験するのに、長す

ぎもせず、短すぎもせず、ちょうど程よい長さです。また人体も、生物、生態

系、宇宙という全体風景から見て、きわめて適切なスケールにあると言え

ます。

   これは、何故なのか...つまり、これを逆転して“人間原理”の立場から

見た場合、これはきわめて正当なものへと反転します。これは、まず宇宙

があってそこに人間が生まれてきたのではなく、まず現在の我の姿を認め

るところから、宇宙の源流へ遡っていく概念です。詳しくは、

   My Work Station/“宇宙論における人間原理”でどうぞ・・・


   簡単に説明すると、こういうことです...我の奇跡的存在は、宇宙の奇

跡的成立を呼び、物質の奇跡的発現を生み出しているものと考えます。何

故、このような考え方をするのかといいますと、宇宙開闢の瞬間、その宇

宙開闢の初期条件というものが全く分からないからです。

  ビッグバン宇宙モデルにおいても、開闢ゼロの瞬間、及びマイナスの領

域にまで遡ることは不可能です。従って、初期条件の分かっていないところ

から、演繹法でこの宇宙を理論化することは出来ないということです。

  つまりここで、論理の逆転した“人間原理”という現在の奇跡を基本に据

えるのは、はっきりと分かっている事実は、まさにこれだけだということです。

デカルトの有名な言葉に、“我思う、ゆえに我あり”という名言があります。

ここでいう“人間原理”も、まさにそのデカルトの基本原理と共通のものとお

考えください。

  さて、私が何故、ここまで“人間原理”にこだわるのかといえば、このホー

ムページのテーマ及び表題が、人間原理空間だからです。

  この数千億の星星からなる天の川銀河、こうした銀河系の集まった銀河

団、さらにこうした銀河団という塊が無数に集まった超銀河団。この大宇宙

には、こうした入れ子細工のような巨大構造があり、進化しつつ現在も膨

張しています。その総質量となると、想像を絶するものになります。しかし、

それでもなお、その総ては“人間原理”の中...“唯心”の風景の中...

“人間原理空間”の中に納まっているということです。

 

 

  魚が水を行くとき水には限りがなく、鳥が空を飛ぶとき空には限りがない。しかし、

魚や鳥は昔から水や空を離れず、広く行く必要があれば広く行き、狭く行く必要があ

れば狭く行く。そのようにして、それぞれの限界を尽くしているとはいえ、鳥が空を離

れればたちまち死に、魚が水を離れればたちまち死ぬ。

 

<要約>

    これは人間と真理の関係である。ここにいう「真理」とは、自然界の根本法則といってもよいし、

人間救済の諸原理といってもよい。

 

   魚が水を命とし、鳥が空を命としていることを、人は知っている。その上は、鳥の無

いところに空は無く、魚の無いところに海は無いことを知りなさい。命は鳥において実

現し、魚において実現するのである。

  このことを進んで行い現しなさい。修行のうちに悟りがあり、それによって長短を超

えた命が実現されるということは、このようなことである。

 

<要約>

  人間は真理を離れて生きることができず、真理は人間によってしか体現されない。我が真理を知り、

真理を実現することによって、真理が真理として生かされ、我が我として生かされるのである。「修行」

という固体的な体験が、「悟り」という普遍的な体験を可能にする。

 

(1) 傍線部分

  ここは文章を読むだけでは理解できない、一段上のステージへの飛躍のある部分

です。何度も繰り返し読み、このような文章があるということを覚えておいてください。

 

 

  それをもし、水を究め尽くし空を究め尽くしてから後に、水や空を行こうとする鳥魚

があるならば、水にも空にも、行くべき道を得ることができず、安住すべき処を得るこ

とができない。

   今の自分のいるところに気がつけば、おのずから修行ができて、真理が実現する

のである。今の自分の行くべき道に気がつけば、おのずから修行ができて、真理が

実現するのである。

  なぜならば、真理を実現するための道や処は、大きなものでも小さなものでもなく、

自分のものでも他人のものでもなく、前からあるのでも、いま現れようとしているの

でもなく、いつどこにおいても実現されるものだからである。

 

<要約>

    現実を離れたところに理想はない。現実の一歩一歩が、理想実現のための絶対境なのである。

 

(1)・・・

  くり返し読み、この言葉の本質をつかんでください。しかしまた、1年後、5年後、10

年後には、それぞれ違った理解があるものと思います。それが、いわゆる時間的熟

成であり、物事を学び人格を形成する上で、きわめて重要な要素となります。

 

 

  以上の譬えのように、仏道の修行をして悟りを得るということは、一つのことにあえ

ばそのことを究め、一つの行いをなせばその行いを貫くことである。

  そこに真理を実現する境地があり、真理を実現する道がありながら、なかなか、そ

のことを悟ることができない。なぜならば、そのことを悟ることそのものが、仏道の究

極を知ることにほかならないからである。

 

<要約>

  修行は悟りを得るための手段ではなく、修行することそのものが悟りなのであり、仏道の究極なの

である。

 

   (1) 傍線部分...いわゆる “一期一会” のことです。

 

  悟ったことが、必ず知識となって論理的に理解されるとは限らない。悟りの究極は

修行によってすぐさま体験されるものであるが、それが自分によって気づかれるとは

限らない。なぜならば、それが表面的理解を超えていることだからである。

 

<要約>・・・ 悟りと修行の関係はあまりにも密接すぎて、それを分析的に理解することはむずかしい。

 

  麻谷山(まよくさん)の宝徹禅師(ほうてつぜんじ)が、あるとき扇をつかっていた。そこへあ

る僧が来て問うた。

「風の本質は変らず、どこにも行きわたらないところはないのに、どうしてあなたは扇

をつかっておられるのですか」

「おまえは、風の本質が変わらないことは知っているが、それがゆきわたらないとこ

ろはないという、言葉のほんとうの意味を知らないようだ」

「それならば、それはどういうことですか」

  師はだまって、扇をつかうばかりであった。僧はふかく感じて礼拝した。

 真理を知るということ、正しく伝えられた教えを生かすということは、このようなこと

である。

「風の本質は変らないから、扇をつかわなくてもよい。扇をつかわなくても、風を感じ

ることができる」

というのは、風の本質を知らず、その本質が変わらないということも、知らないものの

いうことである。

  風の本質が変わらないからこそ、仏道を行うものの風が、大地の黄金であることを

実現し、長河の水を酪乳に成熟させたのである。

 

<要約>

  すべての人間が偉大な宗教性を具えているならば、どうしてその上に修行する必要があるのか

いう問題である。その答えは、人間がそのような本質を具えているからこそ、それを生かしてゆか

ねば意味がないということである。

 

(1)・・・

  この“風”と“風の本質”の話は、「無門関」の第二十九則 にも出てきます。面白い

話なので、心に留めておいてください。

(2)・・・  すべての人間が偉大な宗教性を具えているならば、どうしてその上に修行する必要があるのか とは、

“一切衆生みな仏性あり”ということです。この“仏性”は、総ての人に具わっている

偉大な宗教性といわれます。それを本来持っているならば、何故改めて修行する必

要があるのかということです。

(3)・・・

    この第四部/現成公案は、正法眼蔵の非常に重要な部分です。くり返しくり返し

読み、少しづつ自分のものとして行ってください。

 

 

 

                       “現成公案”はこれで終わりです。

 

 


  
                          次は、“全機”です。ご期待ください。