これは、刻々と響く谷川の音にも、千変万化する峰峰の色彩にも、みな釈迦牟尼
の真理の響きがあるということです。つまり、そこには幾十万、幾百万、幾千万の、
真理に至る道が開けているということです。渓谷の一瞬一瞬の音、峰の刻々の残照
から、“大道”に至る道が開けているということです。そこから、“悟り”すなわち永遠
に入る道が開けているということです。繰り返しますが、私たちが思わず大自然の荘
厳さに心を奪われる時、谷川の清流に心が静まる時、すでにそこには“大道”が開け
ているということです。
そして、無門禅師はこう言っています。“この関を透得せば、乾坤に独歩せん”と。
すなわち、一度この関を通り抜けたならば、真の自由を体得し、大宇宙に遮るものも
無いということです。
さて、この各自の眼前に広がっている世界...山々や谷川の響き、あるいは日常
の風景から、“永遠”に入るとはどのようなことでしょうか...つまり、これが五里霧
中の禅の修業であり、釈迦牟尼が明けの明星を見て覚醒した、“悟り”への道なので
す。また、仏教とは、この“悟り”という真理の体験的伝承の系譜でもあるのです。
キリスト教では聖書、イスラム教ではコーランがその基盤となっていますが、仏教
においてはこの“悟り”という個人的な覚醒が、2000年の流れとなっています。こ
れは背後から眺めれば、仏教には聖書やコーランというような、唯一絶対的な聖典
というものが無いということです。
繰り返しますが、仏教とは、“悟り”という真理の体験的伝承の流れが本流だと言
うことです。そして、そのためには、“大道無門 千差路あり”ということです。つまり、
自由な工夫や発想も、大いに結構だということです。近頃は西洋でも、仏教や禅に
関心が高まっているといわれますが、この自由闊達・底抜けの明るさに魅力がある
のでしょうか...
ところで、特に禅は、「黙によろしく説によろしからず」
と言われます。つまり禅は、
文化的とも言える知的説明や哲学的解釈が問題なのではなく、あくまでも実戦的な
修行や体験が大事なのだということです。ことに“無門関”のような禅の公案集という
ことになれば、これはもっぱら宗教的な“悟り”へ導くための書だということです。その
ためには、言葉や説明よりは、棒で叩くというような話があります。また、弟子の指
を、刃で切り落としたというような話さえもあります。つまりここは、実践のための道場
だと言うことです。