4. 品性の効用

  拙著「文化とは何か」で私は、品性の構成要件として、@できれば優雅な、少なくとも見苦し
くない立ち居振る舞い、A知性と感性に支えられた思いやり、B欲望や敵対的感情に対する
適度の自制心、C目先の利益で右顧左眄しない毅然とした姿勢、を挙げました。今のところ、
そこに述べたことに付け加えることは余りないので、先ずは同書第九章「品性」をご参照の上、
品性とは何かについての私の定義を頭に置いておいて頂きたいと思います。
 1) さて、品性とはそのようなものとご理解頂いたものとして考えてみると、品性を備えたか
らといって、知恵や知性や感性ほど日常生活を快適にするのに役に立ちそうにないと感じる人
は少なくないでしょう。
 上に挙げた@、A、B、Cを身につければ、立派な人あるいは素敵な人として好意や敬意を
持たれる可能性は高くなると思われますが、立派でない人や素敵でない人が周囲に沢山いる
中では、特に好意や敬意を持たれなくても、それは自分だけではないわけですから、あまり気
にもならないかもしれません。それどころか、あまり立派でない人や対人的感性の程度が低い
人たちから妬まれたり疎まれたりして辛い思いをしたりすると、品性の効用どころではないと感
じてしまうこともあるでしょう。現に、若者たちの間では、仲間外れにされないために、わざと馬
鹿なことをしたり、粗野な人間を演じてみせる例もしばしば見られると聞きます。
 若者だけではなく、大人になって社会に出てからも、品性はあまり効用を評価されません。社
会はまさに知恵万能の世界なのです(もちろん、品性とは直接関連しない分野で知恵が有益
かつ有効に働いて、関係する組織や社会全般に貢献している例は少なくありません。しかし、
この項では、知恵や知性が適切に働くよう方向付ける要素としての品性の大切さを浮き出させ
るために、敢えて、逆に品性が欠けた場合の知恵の迷走・暴走に焦点を合わせるアプローチ
を採用していますので、この点を念頭においてお読み下さい)。 
 日常生活でも、優雅になんか振る舞っていたら、電車の席取りをはじめとする競争に遅れを
とって、いろいろと損をしてしまうと考える人の方が多数派なのではないでしょうか。本当は、譲
り合った方が、それぞれの必要性や必要度に応じて収まるべきところに収まって、社会全体と
しての快適度はむしろ高くなるのではないかと思われるのですが、そのようなささやかな品性
の効用さえなかなか認められず、目先の知恵が最優先されるわけです。
 就職すると、組織の一員としては、立派な人や素敵な人である前に、勤勉さや忠誠心を持っ
ていること、すなわち仕事ができる人、組織や上役に忠実な人であるために、良い知恵だけで
はなく、サル知恵、浅知恵、悪知恵まで、ありったけの知恵を振り絞ることが求められます。
 髪を振り乱し他人を押しのけて猛烈に仕事をするためには、優雅さやマナーあるいは思いや
りでさえ、しばしば邪魔もの扱いされます。利益の追求のためには遠慮は無用で、個人的ライ
バルやライバル組織に対しては、敵愾心むき出しで対抗して行かないと、逆にはじき飛ばされ
てしまいます。仕事で実績を残すためには、目先の利益をあげるのが最も近道なので、そのた
めには、うそも揉み手も厭えませんし、場合によっては、賄賂など違法行為に走ることも珍しく
ありません。モラルや法律よりも、自分の人事を左右する権限を持っている上役からの指示の
方を重視して、組織のためと自分自身の昇進・保身のために、ひたすら突き進むのです。
 そのような品性無視の忠誠競争の中から選抜されて出世して行くのですから、社長や重役な
どの社会的には高い地位も、知恵やある種の知性の証とはなっても、必ずしも品性を保証す
るものではありません。品性の低い社長や重役の劣悪な弊害が及ぶのは、基本的には組織
の中だけですが、部下にとっては、ただ一度の人生にとって取り返しのつかない運命の巡り合
わせと嘆かざるを得ないでしょう。それに、そんな経営者による企業活動によって、組織内にと
どまらず社会的にも弊害や損失を負わされる可能性は少なくないのです。
 品性を欠く社会人によって構成される社会は、万人の万人に対する戦いが展開されるか、逆
に、万人の(戦う)自由を徹底的に制約することによって専制的秩序を形成するかのいずれか
の方向に向かわざるを得ないと言ってよいでしょう。その点、現在の日本の社会が辛うじて自
由と秩序のバランスを維持し得ているのは、混乱や抑圧を嫌う知恵や知性が未だ健在である
からだとは思われますが、最大多数の最大幸福が確保されるような自由と秩序のバランスを
より安定して保つことができるかどうかは、社会の構成員が、生活の知恵に加えて知性と感性
と品性をどれだけ身につけているかにかかっています。

 2) 公のために働くはずの公務員も、品性を欠くと私利私欲に走りがちになる傾向の例外で
はありません。ただ、比較的に地位が低い場合には、規則で決められたとおり、あるいは上司
に指示されたとおりに公務を遂行するので、知恵や知性も与えられた目標に向けてあまり迷走
したり暴走したりすることなく、正しく働くことが多いと言うことはできます(権限が小さいため、
迷走したり暴走したりする余裕ないし自由がないということでもありますが)。
 地位が高くなり権限も大きくなってくると、自分の裁量で仕事を進められる範囲が広がってき
ます。ここで、どの方向に知恵や知性を働かせるかの最高の基準になるのは、民間企業のよ
うな直接的な企業利益ではなく、時の政権が示す方向です。政権が民主的で、多くの国民の幸
福を願う思いやりと権力行使への適度な自制心という品性を持ち、いわば最大多数の最大幸
福を目指している場合には、各省庁もそれを実現するために知恵と知性を発揮するはずです
(政権の方針がどうあろうと、自分たちの利益ばかり追求するほど、日本の公務員は堕落して
はいません。政権の品性と知性次第で、かなり良い公務員になるはずです。もし、清廉潔白な
政権ができて号令をかければ、もともと清廉潔白な人生を送りたいと思って公務員になった多
くの人々は、喜んで清廉潔白に公務を遂行することは間違いありません)。
 逆に、政権の性向が非民主的で、権力者とその追従者たちの利益の追求・維持ばかり図ろ
うとする場合には、各省庁の幹部もその方向に合わせて行政を運営するような知恵を巡らせ
ます。そうしなければ、政権によって地位を奪われることになるからですし、政権に奉仕してお
けば、権力のおこぼれにも与れるかもしれないからで、こここそは昇進と保身のための知恵の
見せ所です。それに、官僚には論理性という知性が不可欠なのですが、この知性は、政権の
方向性によっては、非民主主義的な政策を正当化する理論構成にも発揮されてしまうのです。
そのような政権の下で、目先の利益で右顧左眄しない毅然とした姿勢や、一般国民に目を向
けた思いやりといった品性を保つためには、職を辞する覚悟で臨まなければならないでしょう
が、自分と家族の生活を賭けてそこまでする公務員は稀少な存在に違いありません。
 さらに、非民主的な性向の政権が、権力基盤を強化するために官庁と癒着し、官庁にも権力
の旨みを分け与えるために指揮・監督を手加減するようになると、官僚は自分たちの組織を守
り、自分たちの利益や権益を増大したいという欲求を抑えきれなくなります。一般国民に対す
る思いやりや、適度の自制心という品性を欠いていると、政権や世論からの監視がない限り、
自分でつまずいて転ぶまで貪欲に利益を追求し続けるのです。組織(会社)や自分自身の利
益を最優先して働く民間人と違って、公の利益を最優先しなければならない公務員がそのよう
になってしまうと、弊害は個々の官公庁組織だけでなく社会全体に及ぶという意味で、公務員
の品性の欠如は社会的に深刻な問題として捉えなければなりません。
 この政・官の癒着に財が加わって鉄の三角利権構造を形成し、さらに官僚化して権威・権力
に弱くなった大手マスコミまでが既成秩序の維持・強化の方向に荷担すると、これらの、権力
に連なることで利益に与る階層・集団の既得権益がさらに増大・強化される一方で、最大多数
の最大幸福は絵に描いた餅になってしまう恐れがあります。そうした傾向を左右する根元に
は、社会の制度や枠組みを造り、動かす政治があることは、ここまで見てきた通りですので、
政治に、知性と感性に支えられた品性をもたらすことこそ、確かに困難ではありますが、民主
主義を成熟させるための最短の近道なのです。

 3) これまで見てきたように、企業や個人の経済的利益のために働く人々も、公の利益の
ために働く公務員も、実際問題としては先ず、(経済的利益につながり、名誉欲も満たされる)
出世ないし昇進を目指したり、(獲得した利益や地位を守るための)保身を図ったりすること
が、しばしば最優先の行動目的になっています。同じように、政治に関わる多くの人々にとって
も、金銭欲や支配欲あるいは名誉欲などが、政治活動の最大のモチベーション(動機)になっ
ています。
 政治に関わる人々も、所詮は我々と同じ人間なのですから、金銭欲や支配欲、名誉欲など
あらゆる欲望で動かされたとしても不思議はありません。しかし、政治家特に政権側の政治家
は権力を持っているだけに、欲望の赴くままに自分たちと利害を同じくする集団や階層の利益
のためだけに法律や制度を作ったり、行政(国や地方公共団体の仕事)に介入して利己的な
影響力を及ぼしたりされると、一般国民をはじめ権力を持っていない側に属する人々は、いつ
の間にか自由も財産も、時には人生までむしり取られてしまう可能性が大きいのです。政治家
たちが、自らの欲望に対して適度の自制心という品性の要素をもって活動してくれるかどうか
で、国民の生活の快適さは大きく左右されることになります。
 政治に関わる人々に適度の自制心を持ってもらうことは、悪い政治をしないために必要であ
る一方、品性で最も大切な要素である「思いやりの心」を、仲間内だけでなく一般国民に対して
も持ってもらうことが良い政治をしてもらうために必須なのですが、それはそう簡単なことでは
ありません。
 多くの政治家たちの実際の活動を見ると、全ての国民が一度だけの人生を可能な限り快適
に生きたいと願っていることに対する思いやりなどあまり感じられず、一般国民は、政治権力
者たちの一党一派の欲望や利益のために支配し利用するためだけの存在としか見ていない
のではないかと考えざるを得ない事例が多すぎます。一例をあげると、一般国民には、国のた
めに命を捧げるほどの愛国心を持てと求めながら、金持ちの税金があまり高すぎると海外に
移住したり、資産を持ち出されたりしては困るので税金を減らすべきだなどとの非条理な主張
が、金持ち優遇の政権によって制度化されてしまうのです(愛国心については、本ホームペー
ジ掲載の「憲法・教育基本法『愛国心の規定は不要』」をご参照下さい)。命を失うことに比べ
れば、高額な所得に50パーセントや70パーセントの所得税をかけたところで、高額所得者の
失うものなど彼らにとってはそこそこの金銭に過ぎません。その程度の税金を払う愛国心さえ
金持ちには求めず、一般国民には命も惜しむなと求めるのは、公平性も論理性もない我欲む
きだしの言い分で、思いやりは自分たちの仲間である金持ちに対してだけ、一般国民に対して
は思いやりのかけらも感じられません。50パーセント以上もの所得税などまるで罰金だという
見方もあると言い放つような、高額所得者への思いやりにあふれる政治家もいますが、それな
らば低所得者が生活費を削ってでも納めなければならない税金も、生きていることへの罰金の
ようなものになってしまいます。税金は、社会を維持するために、所得に応じて応分に負担す
るという近代税制の原則からは、税金はいくら高率でも罰金ではなく応分の負担であり、問題
にすべきは、応分かどうかなのです。今、政治家というと、詭弁、強弁をもてあそび、政治献金
の札束を秤に掛け、牽強付会で仲間内の利益を図ることに汲々としながら、ふんぞり返って高
笑いしているような品性を欠いたイメージしか浮かんでこないのは、国民にとっても不幸なこと
です。
 もっとも、彼らに、一般国民に対する思いやりの心を持ってもらうことは、考えようによっては
簡単なことです。権力者というものは、古今東西、人類の歴史を通じて、弱い者は支配し強い
者には従うという、いわば力による支配の原理で動いており、これは善悪以前の、人間の本性
ともいうべき性向です。この力は、長い間、軍事力や暴力だったのですが、人間の知性が、軍
事力や暴力やによる支配に替わるものとして考え出したのが民主主義思想です。民主主義の
下でも、権力を左右するのは力ですが、軍事力や暴力ではなく、選挙の一票がその力になっ
たのです。と言っても、有権者全体がまとまって権力者になるわけではなく、実質的に権力を行
使する政治家を選んで、有権者の要求を託すのが民主主義ですが、まさに、その選ぶ瞬間
に、有権者全体としては、権力者を上回り政権の命運を左右できる最高の力を持つのです。 
 従って、有権者の多数が選挙の一票で、国民への思いやりの心を示さないと権力が維持で
きないと、政治権力者に思い知らせようとするだけで、権力者は思いやりの心を持っていること
を示して政権を維持しようと努めます。当初は見かけだけかもしれませんが、そうしている内に
「習い、性になる」で、本当に有権者のことを思いやる心が芽生えてくる可能性は少なくないと
思われます。私が駐在したノルウエーの政治家たちは、どうも特権意識が薄いという(私なり
の)違和感を持ったのは(韓国の外交官も、「うちの国の政治家とは随分違うなぁ」という感想を
もらしていましたが)、有権者の政治意識による政治家のコントロールが成功しているからなの
かもしれません。
 品性の要素のひとつである、目先の利益で右顧左眄しない毅然とした姿勢を政治家に求め
るのも、なかなか容易ではありません。証拠を突きつけられるまでは平気で嘘をついたり、強
弁したり、開き直ったりするかと思うと、不利が明らかになった瞬間に180度の方向転換をし
ても恥じることのない見苦しい言動は、日常茶飯事ですが見るに耐えません。この種の政治家
に、人格を変えることまで期待するのは困難ですから、有権者の方が選別して、より良い人物
を選んでゆくほかないでしょう。

 4) 以上、品性の効用を、個人の場合、公務員の場合、政治家の場合について考えてみま
した。個人の場合は、同時に、個人としての公務員にも政治家にも当てはまるのですが、一見
あまり役に立たないように見える品性も、より快適な人間関係ひいてはより充実した人生のた
めには、決して無視できない効用を持っていると思われます。特に、内面ないし心の充実に関
心を持つ人にとっては、どんな重圧にも屈しない自分自身の品性を感得する時に、自分は地
球上でかけ替えのない唯一の存在であることを実感し、充実感を持つことができるのではない
かと、私は考えています。
 他方、公人としての公務員や政治家については、彼らに品性を備えてもらうことが、彼ら個々
人のためだけではなく、最大多数の最大幸福のために、あるいはより快適な社会を築いて行く
ために不可欠です。この意味では、品性には、大きな社会的効用があると言うことができるで
しょう。国民に「自分のことばかりでなく、公のことも考えろ」とお説教したがる政治家には、「ご
自分こそ、品性を高めて下さい」とお返ししたいところです。
 そのようなわけで、政治学の教科書には書いてありませんが、私は、通常はあまり政治に関
心を持っていないタイプの有権者の選挙での投票には、@自分自身の利益になる政策を掲げ
ていることと、A時々政権を交代させることに加えて、B少しでも品性のある候補者を探すこと
を意識して投票することが大切ではないかと考えています。もちろん、日頃から政治に関心を
持って勉強している有権者であれば、自分の最大関心事に注目して、投票する政党や候補者
を決めるのは結構なことに決まっていますし、それが、民主主義が有権者に本来期待する政
治姿勢なのでしょう。
 とは言え、上記@、A、Bだけでも、選挙でいざ選ぶとなると、いろいろと悩みもでてきます。
 @の自分自身の利益になる政策を掲げているといっても、あまり露骨な利益誘導をされる
と、有権者本人が品性を備えていればいるほど、その候補者や政党に投票することに抵抗を
感じるかもしれません。Aの政権の期間についても10年なら良いのか、20年ではどうか、時
間の感覚は人によって異なるでしょう。政権に奢りや傲慢さが見え始めた時が、交代の潮時か
もしれません。Bは、候補者の品性をどう見定めるか、品性のある候補者がいなかったらどう
するか、という問題に突き当たりかねません。他人の品性を見定めるためには、自分自身もあ
る程度の品性を備えている必要がありますが、この点は、有権者自身が品性を持つことの効
用と言えるでしょう。品性低劣な候補者しかいない場合の@およびAの条件との兼ね合いも悩
ましいところです。
 結局、これらの条件の間の優先順位は、その時々の状況によって変動するので、前もって決
め難く、有権者は選挙の都度に、これらの条件の情報収集と比較考量に頭をフル回転させる
ことが、快適な生活、充実した人生を確保するための最低条件なのではないでしょうか。この
程度の努力も惜しむ有権者が多ければ多いほど、一生懸命考えて投票する有権者も、奈落
の底まで道連れにされてしまうことになるのですが、そうした有権者たちの知性・感性・品性の
差の大きさが、同じ時代に同じ国に生まれた人間の、幸・不幸を分けることになるのだと思い
ます。
 第二次世界大戦で心ならずも奈落の底まで道連れにされた犠牲者のようになりたくなかった
ら、一方では一票の行使に知性と感性と品性を総動員すると同時に、普段の生活では、生活
防衛と人生設計に知恵を振るって、奈落に向かう逆流を乗り越えて行くほかないでしょう。
 なお、立ち居振る舞いが優雅だからといって、必ずしも品性の高さを保証するものではありま
せんが、思いやりの心や自制心のように内面的なものではなく、立ち居振る舞いは目で見て確
認することができる要素ですし、形が心を作るということもあるので、同じく目で見ることのでき
る毅然とした態度と共に、政治家や候補者の人間鑑定の資料として役に立つのではないでしょ
うか。

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