5. 知性・感性・品性と私の場合

 以上、知性、感性、品性についての私の考え方をご説明しましたが、これらはもともとが抽象
的な概念なので、どうしても意を尽くせないところが残ります。
 そこで、少しでも具体的な事例で補足できたらと思い、最後に、私の人生と知性、感性、品性
との関わりについて振り返ってみました。
 
 1) 知性
 62歳で退職するまでのいわゆる現役の公務員時代は、活動の大部分が知恵の領域だった
と言うことができます。
 大学では政治を専攻し、特に政治に関係する哲学や思想をはじめとして社会学や人類学な
どまで、人間の社会的行動に関わる書物を現役中にも割とよく読んでいたので、知性もそれな
りに身について来たのではないかと思いますし、仕事に関係する政策の立案などに際しては、
そうした知性が知恵を支えてくれたことは間違いありません。
 それでも、日常の仕事の大部分を占める同僚や上司あるいは他省庁や民間の人たち、さら
には昇進してからの国会議員などとの関わりを通じての懸案の処理では、知性よりも知恵に
属する対処能力が常に前面に出ていたと言ってよいでしょう。上司の指示や省の方針に疑問
がある場合に、一応自分の意見を言ってみても、受け容れてもらえなければ、徹底的に抵抗
するようなことはしないで服従することこそ勤め人である限り持っていなければならない最低限
の知恵で、62歳の定年(外務省の内規です)まで勤め続けられたのも、この知恵のお陰です。
 意見をそのまま受け容れてもらえなくても、からめ手から攻略して実質的には受け容れられ
たと同じ結果に持ち込む、いわば名を捨てて実をとる戦術も官僚の得意とするところです。論
理的に明快に説明できない仕事上の取り引きも多いので、生涯他人に言うことはできないま
ま、あの時はうまくやったと、密かな満足感と共に人生に幕を下ろす元官僚も少なくないはずで
すが、実は、交渉相手も別のからめ手からの攻略で、密かに同じような満足感を得ていた可
能性もあります。知恵者同士の戦いは、結果的には双方ともほどほどの満足感で収束する場
合が少なくありません。政治家との、あるいは官僚同士、特に他省庁の官僚との仕事上のやり
とりは、このような知恵と知恵との駆け引きが大きな部分を占めているのです。知恵で劣る人
たちが、このような知恵者と渡り合うと、ころりと手玉に取られてしまうでしょうから、用心が必
要です。
 しかし、40年近い公務員生活を通じ、ひたすら組織や上司あるいは官邸(政・官界の用語で
首相官邸すなわち政権中枢を意味します)の意向に迎合して自分の本音を抑える習性を身に
つけて来たとはいえ、自分自身の考えを持っていなかったわけではありません。私の場合は、
大学で政治を専攻しただけではなく、政治に関する思想や哲学そのものにも関心があり、それ
を現実の政治や社会と関連づけて、社会はこうあるべきだ、政治はこうあるべきだといったこと
を考えるのが趣味のようなものでしたから、公の職務に携わっていたことも加わって、年中、政
治や社会のことを考える環境の中で生活してきました。ただ公務員にとって、いざとなれば辞
職する覚悟がない限り、特に政府の政策に反するような主張を表に出すことは禁物ですから、
昇進と保身のための知恵で、政権や組織(省や局)の方針と異なるような本音はできるだけ隠
すようにしてきました。とは言え、私自身の、確かに存在している肉体はともかく、触れて確認
することのできない心あるいは精神も確かに存在していることを、言葉や文章のような形にして
表現し確認したいという気持ちは常に持ち続けていました。それをしないと、生活はいくら快適
でも、かけがえのない自分だけの人生を生きているという充実感が得られないのです。
 そうこうしている内に月日が経ち、ついに退職する日が来ましたが、自分の存在を確認する
ために体力と気力を維持できる、残された日々は多くはありません。外務省からは、再就職の
協力をしようというお申し出がありましたが、また宮仕えをすると、新しい就職先や、世話をして
くれた外務省にも気を遣わなければならなくなり、自分の考えを表に出せる機会は永遠になく
なると考えて、再就職は辞退して自由人になる道を選ぶことにしました。もっとも、収入がなくて
も自由人を選ぶか、意見は言えなくても経済的な安定を選ぶかは、それぞれの個性や考え方
により異なるので、どちらが良いという問題ではないでしょう。
 私にとって、退職した時期にインターネットがここまで発達していたことは幸運でした。意見の
表明が出版物を通してしかできない時代だったら、出版社や編集者の意向に添わない限り取
り上げてもらえないところでしたが、今や、自分のホームページで、自分の意向で編集し、発信
できるのです。誰かが読んで、共感してくれるかもしれないという期待を込めながら・・・。
 こうして、このホームページに自分の考えたことを書き綴ることが、私自身の知性を鍛え、自
分の心ないし精神の存在を、文章という形あるものとして確認する生き甲斐の一つになってい
ます。それに、これをお読みになった方々から時々メールを頂きますが、いわゆる掲示板の、
中傷から罵倒まで何でもありの投稿と違って、わざわざメールして下さる方々は全て善意で、
共感の気持ちを伝えて下さっているので、私にとって大きな励みになっています。そんなわけ
で、考える気力と、それを表現する体力がある限り、この作業を続けたいと思っていますし、そ
れによって得られる充実感「我思う、故に我あり」あるいは「我思い表現す、故に我あり」こそ、
私にとっての知性の効用です。
 このほかに、新聞は一紙だけ購読すると共に、インターネットで主要5紙の記事にざっと目を
通して、世の中の動きについての情報を日々新たにすることを日課にしておりますが、これ(新
聞を読むこと)は私の趣味であると共に、憤慨したり批判したりして思考の停滞を防ぐ刺激にも
なっています。これに読書を加えると、退職後の余暇のかなりの部分が知性の領域に使われ
ているわけで、下記の感性の分野での活動の時間も確保しておかないとならないため、暇をも
てあますどころか、時間が足りなくて焦ってしまうこともしばしばという状況です。

  2) 感性
 @) 私がこれまでに勤務した国は8カ国で、いろいろな事物を見聞する機会を得ることがで
きました。それぞれの国の人々が作り出した音楽、絵画、彫刻、舞台芸術、文学、建築物や、
それらをまとめて鑑賞できる美術館、博物館、劇場など、あるいは自然が作り出した風景など
などに接することから自然に身についた、美しいものに感動し、楽しいことに心弾む対物的感
性は、間違いなく私の人生を豊かにしてくれたし、これからもそうし続けてくれるものと思いま
す。
 美しいものや楽しいことから受ける喜びは、確かに対物的感性を持つことによる効用です
が、外から受ける刺激に反応するだけでなく、自分の感性を外に向かって表現することは、さ
らに大きな満足感や充足感を与えてくれるようです。
 そこで私も、現役の間は、時間的な制約もあって専ら鑑賞が主でしたが、退職して自由人に
なったのを機会に、感性の表現に挑戦することを決意し、声楽(私の声はバリトンだそうです)
のレッスンを受けることにしました。
 思い返せば高校3年の時、何を血迷ったか音楽大学に進学して声楽を学びたいと言い出し
て、親や担任教師に音楽教師まで巻き込んだ包囲網に猛反対されたことがあります。自分自
身、それほど声にも才能にも自信があったわけでもないので簡単にあきらめて、志望を新聞記
者に変え(大学2年の終わり頃、志望を外交官にまたまた変更しましたが)政治学科に進学し
て以降、歌は鼻歌程度しか歌っていなかったのです。
 それから半世紀近く経た今、もしあの時に音大に行っていたらどこまでやれたか試してみた
いという気持ちがむらむらとわき上がってきました。もう周りに反対する人はいません。
 かつては、特にクラッシックの歌手というのは、話すときは我々と同じような声なのに、歌い出
すととんでもない声になるのは何故だろうと不思議で仕方がなかったのですが、レッスンを受け
始めた今は、訓練によって自分もああいう声が出せるようになることがわかりました。もっとも、
長時間歌うと声がかすれてくるのは、年齢から考えても仕方がないところで、訓練の結果奇跡
的な上達を遂げても、舞台で長時間歌うオペラ歌手は務まらないのではないかという不安がよ
ぎらないでもありませんが、そんな余計な心配を杞憂(きゆう。天が落ちてくるのではないかと
心配すること)といいます。それでも、こんなあり得ないことを心配をしてはしゃいでみたり、ひと
ときの夢を見たりして楽しめるのも、受け身の感性だけでなく、感性を表現するという能動的な
領域に足を踏み入れたお陰でしょう。
 ただ、63歳で始めたレッスンですから、老化で声が出なくなるのが早いか、歌を認知できなく
なるのが早いか、それとも死んで歌えなくなるのが早いか、時間との競争のようなものですが、
できれば、声も保ち、認知症にもならないまま、死ぬまで歌い続けられたらと思っています。
 こうして今や、知性の分野のホームページ更改と並んで、感性の分野での歌は、私の退職後
の人生を支えてくれる二つの車輪の一つとなっています。しかもこの人生は、知恵が主体の官
僚生活の続きの第二の人生というよりも、知性、感性、品性が大きな割合を占める別系統の
もう一つの人生にしたいと欲張ったことを考えていますが、二つ目の人生も満ち足りたものに
なるかどうかは、先ずは健康で長生きするかどうかにかかっているでしょう。いずれにしても、
第一の人生を人並みに全うしたした今は、第二の人生にしろ二つ目の人生にしろ、他人の意
向は気にせずに、自分が納得して満足できる生き方を選べばよいのだと開き直って毎日を過
ごしているところで、そこに感性が重要な役割を果たしているのです。
 
      2005年10月の発表会。オペラ「椿姫」のアリア「プロヴァンスの海と陸」と
     カンツォーネの「オー・ソレ・ミオ」を歌いました。

  A) 対人的感性については、私もこれまで65年間の人生を通じて、人並みの好き嫌いの感
情や思いやりの心を育ててきました。ただ、思いやりの心といっても、親しい相手に対しては相
当な思いやりの心は持っていると思いますが、敵対的な姿勢で、攻撃してきたり絡んだりしてく
るような相手や、やたらに支配欲が強くて自分のやり方を押しつけてくるような相手に対して
は、思いやりよりも闘争心や反発心の方がどうしても前面に出てきてしまいます。多分、生涯
努力しても、敵を愛し思いやることができるような品性の高い人格者になることはできないので
はないかと思っています。
 それでも、親しい相手と敵対的なタイプとの中間にいる、例えば道ですれ違ったり電車に乗り
合わせたりしただけの人々や、それさえなくただ同時代に生きているだけという圧倒的多数の
見知らぬ人々に対しては、思いやりとまでは行かないまでも、私と同様に快適な生活や充実し
た人生を送ってもらいたいな、と思う程度の好意的感情は持っています。この程度の好意や善
意でも、見知らぬ人に対しては傍若無人な態度をとったり、やたらに敵対感情を持って言い掛
かりをつけて絡んだり、ひどい場合には攻撃したりする、対人的感性が歪んでしまっているよう
な人々と比べれば、品性を高めるほどではないとしても、そこそこには保てるでしょう。
 実際のところ、上の例のように対人的感性が歪んでしまうことこそ、品性を低める最も主要な
原因ではないかと、私は考えています。すなわち、対人的感性が優れているかいないかが、品
性の有無あるいは高低に、知恵や知性にも増して決定的に影響するのです。
  私の場合、現役の間は多くの人と接触するのが仕事で、多くの素晴らしい人と出会えたこと
は幸運だったと思いますが、それだけに、必ずしも素晴らしくない、例えば粗野だったり野卑だ
ったり下品だったり陰険だったりする人々とは、あまりお付き合いしたくないという気持ちをずっ
と持ち続けてきたことは否定できません。これでは、清濁併せ呑まないと当選が難しい政治家
にはなれませんが、そんな野心もないので、残りの人生は、できる限り、共に過ごせば心地よ
い人たちとだけお付き合いして、静かに人生の終わりの時を迎えたいと思っています。
 もっとも、長生きの時代ですから、これからもいろいろな出会いがあるかもしれません。どん
な状況になっても、品性を劣化させて晩節を汚さなためには、相手が敵対的でない限り、どん
な見知らぬ人々に対しても、できるだけ善意と思いやりの心をもって接して行けるような対人的
感性を、最後まで育て維持するよう努力しなければならないのが人生なのでしょう。
 3) 品性
 若い頃から、上品と下品を見分ける程度の感性は持っていたと思いますし、自分自身も、あ
まり下品な人間にはなりたくないと思ってきましたが、それでは上品であるための条件は何だ
ろうなどと考えるようになったのは、50歳台に入って拙著「文化とは何か」を書き始めてからで
す。その結果、上記4.の「品性の効用」冒頭に掲げた@、A、B、Cを、品性を形成する条件
と考えるに至ったわけです。そこで、この@、A、B、Cに当てはめて、私と品性との関わりに
ついて考えてみます。
 先ず、@の立ち居振る舞いについては、赴任した国の人にいつも見られていることを意識し
て行動することが求められる外交官生活を通じて、あまり見苦しくないマナーを身につけてきた
とは思いますが、それだけでは品性は保証されません。
 Aの知性と感性に支えられた思いやりの心については、上記のようにほどほどのところでし
ょう。
 B 欲望や敵対的感情に対する適度の自制心については、自分で言うのもなんですが、もと
もと温厚な性格なので、やはり基本的にはほどほどを維持してきたと思います。昇進や保身の
ための悪知恵も、必ずしも思う存分に発揮したとは言えませんが、それは、批判的に見れば
「上昇志向」や「覇気」が足りないということになるでしょうし、実際、そう言われたこともありまし
た。しかし、見方を変えれば、「知性と教養」が邪魔をしてどぎついことができなかったということ
でもあり、私はこの見方をとりたいところです。
 C 目先の利益に右顧左眄しない毅然とした姿勢を保ち続けることは、組織に属する人間に
とって非常に難しいことです。昇進や左遷は目先の一番大きな利害関係で、これを目の前にし
て超然としていられる人は、そう多くはありません。通常は、どの派閥やグループに入り、誰の
意向に合わせ、誰の気に入るように行動し、誰のご機嫌を伺うかなど、自分の利害を左右する
権力の所在をいち早く察知して、右顧左眄しながらのし上がって行こうとするのが、組織の中
に生きる人間の本性なのです。
 杉原千畝氏という元外交官についてお聞きになったことのある方は、少なくないと思います。
第二次世界大戦中にリトアニアに駐在していた頃、ナチスに迫害されて避難する数千人のユ
ダヤ人たちに、外務省からの指示に反して、日本を通過して避難するためのヴィザを発給した
ことで知られています。この行為は、杉原氏にとっては何の利益にもならず、むしろ外務省から
命令違反で処罰される恐れがあるのにもかかわらず執られたもので、ひたすらユダヤ人たち
に対する思いやりの心から出たものであることは、疑いありません。
 私自身はどうだろうかと考えると、戦争という異常な事態の下で、目の前でそのような事態が
発生して、他の人への思いやりと自分の保身とが秤にかけられるような状況に置かれた場合
には、状況の流れの中で私でも似たような行動をとるかもしれないと思いたいところですが、自
信はありません。
 それは例外的な状況ですが、日常生活では私は、群を作ったり、飼い主や親分に忠実な犬
型の性格ではなく、どちらかと言えば、ボスの意向よりも自分の意向の方を大事にして一匹で
気ままに行動することの多い猫型の傾向が強いので、これまでの人生を通じて、それほど右
顧左眄はしなかったような気がします。もっとも、他の人がどう評価してくれているかは、わかり
ませんが・・・。
 いずれにしても、私が現役で活動していた時期は、日本が戦後の復興から比較的順調に上
り坂を昇っていた時代でもあり、良心と保身の厳しい選択を迫られるような状況に身をさらされ
ることもなく官僚人生の終着点まで勤められたことは、振り返って見れば望外の幸せだったと
思います。

 品性は、知恵や知性や感性とはいささか異なり、知恵や知性や感性の働き如何で比較的簡
単に高まったり低まったりする傾向があるように思われます。対人的感性の思いやりに支えら
れた知恵や知性の働きは品性をプラスの方向に高めますが、思いやりの心を欠く知恵(悪知
恵など)や知性(詭弁やこじつけなど)の働きは、しばしば品性をマイナス方向に押し下げま
す。
 上記の@、A、B、Cとつき合わせてみると、これまで知恵の世界で生きてきた私の場合、
品性が既にプラスの側にあると言い切れるかどうか、今のところ自信はありません。しかし、私
がこの世に存在したことの価値は、私がどこまで品性を高められたかによって決まるのではな
いかと、最近、頓に感じるようになってきたので、これからの人生を通じて私の品性を何とかプ
ラスの側に持って行き、それを死ぬまで維持できたらいいなと思っています。
 ただ、問題は、これまでの政治家や官僚や圧力団体などによる利権の分捕り合戦やばらま
き政策で生まれた巨大な財政赤字を、彼らの責任を曖昧にするための政策からいずれ生じる
と思われる増税や年金の減額やインフレなどで、年金収入と預貯金の取り崩しで生活している
私の、いずれこの世を去る日までの人生設計に誤算が生じ、経済基盤が崩れてしまう恐れが
あることです。
 給料生活をしていれば、いずれ収入も増えるという期待がありますが、年金生活ではそれも
期待できません。そうなると、じり貧を甘受して不健康で非文化的な生活の中で寿命が尽きる
のを待つか、それとも、もう一度、一旦はしまい込んだ知恵を振るって収入増を図るか、いず
れかの選択を迫られかねません。知恵を振るうといっても、高齢者となるとなまなかな知恵で
は大した結果は期待できないので、伝家の宝刀の悪知恵を発揮することを余儀なくされるかも
しれません。
 第二次大戦の敗戦後、日本中が飢えていた時代に、闇で食糧を手に入れるのを拒否して餓
死した裁判官がいました。その倫理観は立派ですが、私が真似できるかどうか疑問です(多
分、できないと思います)。そうとすれば、利権と保身に狂奔する、品性必ずしも高くない人たち
の悪政から押しつけられるかもしれない貧困の中で、何とか生き延びるために悪知恵を振るう
ことで私の品性も低下し、人生総決算の品性はマイナスになってしまうかもしれません。
 そうならないためにも、政党や政治家あるいは選挙の候補者たちの動向を、日頃からしっか
り観察・監視し、現役引退後も手許にわずかに残された闘う手段としての権力のかけら、すな
わち選挙での一票をできる限り有効に行使することを、自分自身のためであると同時に、社会
に対するささやかな貢献にもしたいと考えています。

                                    (2006年3月5日記)
       
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