憲法・教育基本法  「『愛国心』の規定は不要」

1. 憲法の改定と、それに先立ち教育基本法の改定が政治日程に上がり始めているが、 
いずれについても、国民に「愛国心」の涵養を求める規定ないし表現を盛り込もうとする動きが
強まっており、マスコミの一部にもこれに呼応する論調が見られる。
 平成十六年現在、教育基本法改訂に関する議論が一歩先んじているが、自民、公明両党に
よる協議会がまとめた、教育基本法に関する中間報告では、「郷土と国を愛し」との表現を主
張する自民党と、「郷土と国を大切にし」との公明党との間の意見が対立して両論併記となっ
た。しかしこれまでの議論では、「国を愛する」ことが具体的にどのような心構えないし行動を
意味するのか、はっきりとした説明はない。
 また、平成十六年七月十日付け読売新聞によれば、日本青年会議所も教育基本法改正に
ついての提言をまとめ、「愛国心を育むため、前文や条文に日本の歴史・伝統・文化の大切さ
を明記する」「改正により、日本の伝統的な『宗教心』を育む必要がある」としている。

 2. 実際問題として、同じ総括的な規定でも「法律に従うこと」や「社会生活のルールを守る
こと」などは、社会秩序を維持するための必要性は既に自明であると同時に、それを実行する
ための具体的な行動にも常識化された一定のパターンがあり、法制化するとしても大きな疑問
は生じない。
 これに対して対象が国にせよ人にせよ、それを「愛する」ということは高度に内面的な心の動
きであるので、「国を愛する」ことを法律で国民に要求しようとするからには、「国を愛する」とい
うことがどのような心の動きなのか、具体的な行為として何をすることが求められるのか、それ
を法律で規定することがなぜ、何のために必要なのかが明瞭に示されなければならない。
 「愛」にしても「信仰」にしても、そのあり方は基本的に個々人の内心に属する事柄であるの
に、これらに公権力で特定のパターンを押しつけようとする行為は、人間性に対する抑圧なの
である。確かに、「愛」や「信仰」に限らず内面的な活動に対するこうした抑圧は、人類の永い
歴史を通じて強者から弱者に対して日常茶飯事のように行われてきたが、古くから行われてき
たからといってその行為が正当化されるわけではない。
 権力と知性との永いせめぎ合いの結果、信教や思想、良心などの内面的な自由を個々人の
基本的な人権として認めることが、それを抑圧しようと試みる強者とそれに抵抗する弱者との
むき出しの争いを低減させ、かつ弱者も含めた個々人の人生を価値あらしめるものであること
を人類はその歴史の中で学び、今日いかなる国も正面きっては反対できないひとつの普遍的
な思想に収斂させてきた。それが民主主義思想であることは言うまでもない。
 (権力と知性とのせめぎ合いの結果として民主主義が生まれてきた経緯については、本ホー
ムページ所載の拙著「文化とは何か」第七章「知性の文化」をご参照願いたい)
 従って強制力を持つ法律で、「国を愛する」というような心の動きを指図したり「伝統的宗教
心」を持つことまで押しつけたりしようとするのは、人類の知性が永い年月をかけて育んできた
「内心の自由」という果実を踏みにじる反民主主義的行為である。 どうしても国民に愛国心を
求めたければ、求めている人々(権力者集団)自らが愛国心を具体的行動で示して見せ、そ
れに共感する一般大衆の支持と同調を求めるべきで、法律で強要するのは健全な民主主義
から逸脱する政治行為である。
 それに、民主主義を実現するためには知性だけではなく、他者の立場を尊重する能力ある
いは思いやりの心としての品性が不可欠なのであるが、他者の内心の自由に法律という公権
力で踏み込むことに何らのためらいも感じないということは、権力の側に立つ者の傲りと、その
裏返しとしての「品性の欠如」を如実に示すものである。
 (社会生活における「品性」の重要性については、「文化とは何か」第九章「品性」をご参照願
いたい)

 3.  
 憲法や教育基本法に「国を愛する」ことを表記することがなぜ問題なのかといえば、それはこ
こに使用されている「国」と「愛する」というふたつの言葉とも、法律用語として甚だ曖昧である
からである。
 
 (1) ひとくちに「国」といっても、それを使う立場や状況によって、その意味するところは様々
である。
 @ 他の国との客観的な対比が念頭にある場合には、自国の領土と国民と社会制度の総体
を指すことが多い。
 A 他方、他国を特に意識することなく「国」という場合には、民に対比する公的存在としての
司法、立法、行政の統治機構を、あるいはしばしば政府と呼びならわされる行政府を、さらに
は各省庁のような個別の行政機関を指すこともある。
 B さらには、客観的な範囲としては上記@に近いが、そこに情緒的な思い入れが行われて
特別な崇拝の対象となり、一種の幻想の共同体的存在として立ち現れてくることもある。しか
し、情緒的な概念であるだけに、その崇高さや尊さの根拠を具体的かつ客観的に説明するこ
とは困難であり、国の概念は人により千差万別である。そして、同じような思い入れをするかし
ないかが、その概念を共有できるか否かの分かれ目になる。
 言い換えれば、思い入れをした人にとっては、国は「神の国」とさえ思えるほど崇高な存在に
もなるが、特別な思い入れのない人にとっては国は上記@のような実体的な存在以上のもの
ではない。

 (2) 「愛する」という表現も、法律で使用するには意味の幅が広すぎるという問題がある。
 @ 最も単純な意味は「好き」ということであり、通常、程度の差こそあれ自分の国は好きな
のが自然な感情なのであるが、自然な感情に任せずどの程度好きでなければならないかまで
法律で規定しようとするのは、権力者の専横である。
 また、国民のある部分(例えば権威や権力にへつらい弱者には傲慢になる性癖や、集団に
なると節度がなくなる傾向など)は嫌いという人や、中には祖国の現状は誇りを持てないから嫌
いという人もいるかもしれないが、だからといって好き嫌いや誇りといった個人の感情を変えて
嫌いなものも好きになれと法律で強制しようというのは、人間性の無視である。
 A 「可愛がる」「慈しむ」という意味もあるが、家族やペットならばともかく、国は可愛がる対
象ではあるまい。
 B 「敬天愛人」とか「汝の敵を愛せ」という場合の「愛」は、生命あるものは他人や敵ですら
その尊厳や人間性を認めて、それなりの敬意を払うということであろうか。
 C その相手のためならば自分の命でさえ犠牲にしても悔やまないほど、相手を大切に思う
献身的かつ崇高な心情も「愛」と呼ばれる。

 4. それでは「愛国心」とは何を意味するのであろうか。
  上記3.の(1)「国」の概念の@と、(2)「愛する」の意味の@の組み合わせで「自分の祖国
が好きだという心」が最も明瞭かつ客観的である。
 しかし、「愛国心」のあり方を敢えて法律で規定しようと考える人たちは、こんな自発的かつ個
人的な愛国心だけでは満足できない。法律で規定するからには、かくあるべしと想定される「愛
国心」を具体的な姿勢と行為で示すことを国民に求めようとしているのである。
 
 それではその「愛国心」は、かくあるべしと誰によって想定されるのか。
 本来ならば、「愛国心」涵養の必要性を規定する法律では、まず「愛国心」の内容が定義され
るべきであるが、実際には「国を愛する心を育てる」といったようなワンフレーズが挿入される
だけのようであるので、ひとたび法制化されると、かくあるべき「愛国心」の内容は社会生活の
その時々の局面で決められることになる。そうなると、決めるのは当然のことながら権力を持
つ者、強い立場にある者、声の大きい者などであり、その際に合理性や条理が尊重される保
障はまったくない。上記3.の(1)「国」の概念のBのような特殊な国家観の持ち主が権力を持
ってその考え方を「これが愛国心だ」と押しつけてくると、異なる考えを持つ弱者にとっては悲
惨なことになるが、その実例は古くは戦前の日本、近くは近隣や遠隔の独裁・専制諸国家にい
くらでも見ることができる。 しかも、押しつけは政府のような権力者だけではなく、教育委員会
など身近な小権力者や声の大きい職場の同僚あるいは地域の自称愛国者などからも、法律
を楯に日常生活のあらゆる場面で行われることになる。鬱陶しく暗い世の中になること必定で
ある。
 
 自発的かつ個人的な愛国心では満足できない大小の権力者たちが国民に求めるのは、サッ
カーの国際試合やオリンピックで日本選手を応援するようなありきたりの愛国心ではない。権
力者とその支持者たちが声高に叫ぶ愛国心とは、上記3.(1)「国」の概念のBのような権力
者が提示する「国」の概念を従順に受け入れ、国民を超越する存在としての「国」の決定には
無批判に従う心構えと、同(2)「愛する」の意味のCのように「国」のためならば自己犠牲も厭
わない行為、より端的には、政府が軍事行動を決定した場合には命も惜しまず戦えるような対
外敵愾心なのである。そして、敵愾心を煽り立てる近道は仮想敵国を作ることなのであるが、
国民の目を自国政権に対する不満から逸らせるために作り上げた仮想敵国への国民の敵意
が、政権によるコントロール不能な状態までに突っ走ってしまうと、両国関係を本当に悪化させ
てしまうことにもなりかねない。
 このように対外敵愾心と裏腹な側面を持つ「愛国心」はかなり危険なものであるので、「愛国
心」という語感に酔って情緒的に煽り立てるようなことは、民主主義国家の成熟した権力者集
団であるならば差し控えるだけの思考力と想像力を持っていても良さそうなものなのである
が・・・。

  5. 筆者自身は、現代の国際情勢の下では、国民が如何に平和を愛していても、武器を
とって立ち上がらざるを得ない状況に追い込まれる可能性があることを否定しないし、自らそ
の必要を判断した場合には及ばずながら出来る限りの行動をしたいとも考えている。
 しかし、それはあくまでも自らがそう判断した場合であり、政府や権力者の決定に無批判に
従うものではない。権力側の人たちはしばしば、国ないし国家は国民が命を捧げることも惜し
んではならない崇高な存在であると主張するが、何のためにどのように命を捧げるかを決定す
るのは、自ら考え自ら判断する生命体としての人格を持たない国という実体ではなく、権力者
ないし権力者の集団による「政権」である。
 政権を中心とする権力者の集団による政策の決定に際しては、権力者集団の利益擁護が
最優先されることが政治の基本原則である。もちろん、権力者集団に属さない一般大衆の利
益が擁護される決定が行われることもあるが、それは、同時に権力者集団の利益擁護にもな
る場合か、権力者集団に属さない人々の不満をなだめて権力者集団の利益を永い目で見て
守ろうとする場合である。この、権力者集団に属さない人々の不満や批判の存在こそが、権力
の専横を牽制し民主主義を発達させてきた原動力なのであるから、一般大衆による政府批判
を控えさせることができれば、権力者集団は思う存分に利益を独占し、弱者を思うままに支配
することができるのである。
 これは、人類の歴史を通じて見られてきた封建社会、専制・独裁社会の姿であり、「愛国心」
の美名のもとに「国」に対する国民の批判力を減殺しようとすることは、歴史を逆回りさせるこ
とにつながりかねない。今日の権力者集団がそこまでしようと企てているかどうかは不明であ
るが、仮にそのつもりがなくても、「愛国心」というような曖昧な概念をひとたび法律に潜り込ま
せれば、大小の権力者やその提灯持ちたちの恣意的な解釈の押しつけで、多くの国民が思考
を停止して大勢に順応する状態に追い込まれる可能性は、国民が従順なほど大きい。
 しかも、国民に声高に愛国心を強要する政治家、財界人、官僚、マスコミ関係者等に限っ
て、自分自身の生命や財産を国のために捧げる用意のある愛国者は少なく、自分たちは国に
とって有用な人物なのだから安全な状況で生き残る必要と権利があるなどと大真面目で思い
込んでいるものなのである。このような人たちの安全と財産を守るために、権力者集団に属し
ない圧倒的多数の国民は、「愛国心」の美名の下に生命と財産を捧げなければならないので
あろうか。
 そうなのである。権力者集団が要求する「愛国心」の実体を、思考力と批判力を振り絞って見
極め、投票行動などで適切に対処しない限り、そうなるのが政治というものなのである。
 「愛国心」の必要性が憲法や教育基本法に盛り込まれれば、世間の風潮は一方向に動き出
し、一方では国(実は政府)の号令があれば死をも恐れず突撃する強い兵士が育成されるか
もしれない。しかし、他方では論理的ないし合理的な思考が情緒的なスローガンやワンフレー
ズ・ポリティクスに押しのけられ、国民の思考能力が衰えて社会と文化の劣化が進行する。こ
れは愛国者を自称する大小の権力者や跳ね上がり者の思うままに引きずり回されることを意
味し、一般国民、一般大衆にとって決して快適な状況ではないはずであるが、一般国民がそれ
を判断して正しく対処する能力を備えているかどうか、各種選挙の投票率を見ると必ずしも楽
観はできない。
 (権力者集団の思考・行動様式については「文化とは何か」第十章「社会的中核集団の行動
様式」をご参照願いたい) 

 6. 「愛国心」という言葉を曖昧な概念のまま一人歩きさせていることについては、マスコミ
の責任を無視し得ない。
 マスコミは、客観的な実体としての国を指す場合も、そうした国の一部である政府や個別の
省庁を指す場合も、しばしばこれらを区別せずに「国」という言葉で表現している。しかし、個別
の省庁の決定を国の決定と呼び慣わしていると、決定に関する本当の責任の所在を国民の
目から隠してしまうことにもなりかねない。「愛国心」の問題も、その高揚に熱心な政党や団体
の言い分をそのまま報道するだけで、「国」の概念や「愛」の意味を明確に踏まえた上で議論
し、世論の理解を深める役割を果たしているとは考えられない。
 実際にはマスコミも権力者集団に属していることを考えれば、自分たちまで「愛国心」を押し
つけられて財産や生命を捧げることを求められることは免れることができると考えているのか
どうかはわからないが、「愛国心」問題に対する感度の鈍さは信じられないほどである。
 マスコミとはいえ営利企業として広告主や権力者集団の意向に気を配らざるを得ず、社内は
上役の人事権を常に意識した保身とごますりの世界という意味では、世の中の多くの組織と同
列のようなものである。しかしそれでも、そうした実体の割に不釣り合いに大きい影響力を持っ
ていることを考えれば、マスコミ関係者が分析力や思考力あるいは想像力や判断力などの総
合的な能力をもっともっと養なってくれないと、この国は知的には停滞どころか逆戻りさえしか
ねない。
 憲法にせよ教育基本法にせよ、二十一世紀の国家や教育の理念と原則を確立する重要な
法改正をしようとするからには、「愛国心」や「文化」や「伝統」など国民の精神構造に多大な影
響を及ぼす可能性のある表記については、一字一句が内包する意味合いに細心の注意を払
わなくてはならず、それを報道するマスコミの役割は重大である。
 教育基本法との関連では、自民党と公明党との間に未だ見解の相違があるようであるが、
与党たる両党の意見が一致した時点で法改正の実現が保証されたも同然となる国会の現状
からして、与党だけではなく野党もマスコミも教育関係者も含め、およそこの問題に関心を持つ
国民は現段階から声を大にして発言して行かないと、その意見を反映させる機会がないまま
新たな教育基本法が成立することになる。その時になってから騒いでも手遅れである。
 (マスコミの社会的役割については「文化とは何か」第十三章「マス・メディアの役割」をご参
照願いたい)
                                         (2004年8月10日記)
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