第九章 品性 
 
 「品性」とか「品位」あるいは「上品」といった言葉は、日常生活でもよく使われるわりに、具体
的なイメージとしてはなかなか描き出しにくい概念である。しかし、それが実際に存在すること
も、大多数の人々が実感しているところである。実際、ただ美しいというのとは異なる上品な顔
というのは、確かに存在するのであるが、どこがどうだから上品なのだと分析するのは、かなり
むずかしい。 一般に、品位の有無を最も判定し易いのは、人の挙措動作からであろう。すな
わち、時と場所と状況にふさわしい礼儀作法ないしマナーを心得て、優雅に振舞う人からは、
確かに品位が感じられる。これは、知性の文化と感性の文化の(実生活に関係の深い)下部
構造と、生活の文化の上部構造とが重なる部分での、洗練された日常生活の中で育まれる教
養を通じて身につけられるものである。一般的には、成長過程の家庭教育あるいは躾(しつ
け)によって習得されるものであるが、その機会に恵まれなかった人でも、その後の人生のど
の段階ででも身につけることは可能であるし、その気になって努力すれば、それほどむずかし
いことでもない。しかし、一見優雅な挙措動作で品位を感じさせるその同じ人が、目下の人に
傲慢な態度をとったりすると、品性に疑問が生じてくる。その上、目上の人にはへつらっている
のを目撃したりすると、むしろ品性低劣と感じたりする。してみると、「優雅な立居振舞い」は、
品性の必要条件ではあっても、十分条件ではないようである。
 右の例から類推すると、身分制度が厳しかった過去はとも角、現代の文化環境の中では、
相手によって露骨に態度を変えるようなことをしないことが、品性が保たれるための要件という
ことになる。もっとも、この場合の態度とは、見下したりへつらったりという種類の態度であっ
て、相手の立場や能力等を考慮して、善意で態度を変えるのはこれには当たらず、場合によ
っては必要ですらある。要は、相手の地位や財力や能力すら劣っている場合でも、人間の基
本的な部分、すなわち人間としての尊厳は平等であるという意識と、相手も自分と同じように、
一度だけのかけ替えのない大切な人生を生きているのであり、その近親者たちにとってもかけ
替えのない大切な存在なのだという想像力といたわりの気持ちを、知性部分だけではなく感性
部分でも身につけ、それが対人関係ににじみ出て来る時に、品性が感じられるのであろう。す
なわち、品性の二番目の必要条件は、砕けた言葉で言えば、相手に「思いやり」を持って向か
い合えることである。
 品性を感じさせる三番目の条件は、適度の自制心である。金銭欲、物欲、権力欲、支配欲、
性欲さらには食欲ですら、ギラギラと度を越すと貪欲となり、品性とは反対の卑しさを感じさせ
る。そのほかにも、妬み、恨み、憎しみなどの敵対的感情も、余りにも明からさまになると醜さ
が目についてくる。どれだけ度が過ぎると卑しさや醜さを感じるかは、見る人の感性や社会の
許容度すなわち文化によっても異なる。ある社会では、覇気の表れとして評価される欲求の強
さが、別の社会では、貪欲として軽蔑の対象となることも珍しくない。そのように、文化による違
いはあるとはいえ、個人や社会に、過度の欲望や敵対的感情に接して多少なりとも卑しさや醜
さを感じ取る感性がある限り、適度に抑制された欲求や感情は好ましいものとして受けとめら
れ、卑しさや醜さの対極にある品性の構成要件となるのである。
 更に、品性の第四の構成要件は、高い知性と豊かな感性に裏づけられた自分自身の確固
たる価値観すなわちアイデンティティに支えられて、目先の利害で右顧左眄しない毅然とした
姿勢である。このような姿勢に対して、「毅然とした」という形容詞をつけるのが一般的となって
いる文化では、そのこと自体が、このような姿勢が品性の構成要素であることを示している。そ
れは、知性が生みだす論理を世俗的な損得勘定に優先させる、知的誠実さが作り出す姿勢で
ある。 
 このように、品性とは、人間性に関わる高い知性と深い感性が互いに支え合って醸し出す、
ひとつの人間的な価値である。そして、この価値は、これに接する人に殆んど例外なく好ましい
印象を与え、人間の尊厳を実感させてくれるという意味で、社会的にも高く評価され、大切にさ
れるべきものであろう。もっとも、個人的レベルでは、品性のある人あるいは品性それ自体に
反感を示す人が存在することも、否定できない。ひとつには、自分に欠けているものを持って
いる人に対する妬みと反発によるものかもしれないし、他方では、品性が無制限の欲望の追
求を制約するものであることを直感的に感じ取り、無意識的に抵抗しているのかもしれない。
実際、このような人たちにとっては、自分たちがやりたい放題できて、しかも周囲の人たちは紳
士的あるいは淑女的に振舞ってくれれば、これほど快適なことはないであろう。しかし、周囲人
たちも、自分たちがやりたい放題のことをしたいと考えている場合には、話が違ってくる。品性
のある人や品性それ自体に反発している人でも、他人が品性を欠いたり身勝手な振舞いをし
ているのを見ると、癇にさわるものである。そこで、こうしてやりたい放題している人たち同士が
接触すると、争いが発生することになる。これでは、既に触れたホッブスの「万人の万人に対す
る戦い」への逆戻りである。このような事態を防ぎ、できる限り多くの人々の快適さを確保する
ためには、社会が個々人の品性を高く評価して、品性を否定する人々を包み込み抵抗できな
くしてしまう、質の高い文化を作り上げることが必要であろう。
 品性は、個人だけでなく、社会自体も備えることのできる価値である。社会の構成員たる
個々人が、教養に裏打ちされたマナーと、高い知性、豊かな感性に育まれた思いやりや自制
心を以て行動する社会からは、個人の場合と同様に、心地よい品性を感じ取ることができるの
である。
 もちろん、個々人が品性を身につけることは、決して容易なことではないが、ある程度までは
誰でも、心構え次第で身につけることは可能であろう。そして、個々人がほんの少しずつでも自
分の品性を上乗せするだけでも、その集積によって社会全体の住みやすさ、快適さは格段に
高まるのである。 
 これに対しては、品性の高い人間ばかりになったら活力のない面白くもない社会になってしま
う、と反発する評論家タイプの人がいるかもしれないが、心配は無用である。現実の世の中
は、それぞれが最大限の努力をしても、漸くほどほどの品性が身につくかもしれないという程
度であって、品性の高い人間であふれかえることなど、あるわけがないからである。そのよう
な、品性を身につけるために努力しようとする、社会にとって大切な人々の足を引っ張るより
も、その人たちを少しでも勇気づけることの方が、余程大切なのである。  
 このように品性は、知性の文化と感性の文化の中でも特に人間性に関わる部分と、生活の
文化の中で教養によって洗練された部分との重なり合いの中から育まれてくるものであり、個
人および社会に品性の有る無しによって、生活の文化の質は大きく左右されることになる。生
活の文化は、科学・技術の進歩によって物的に繁栄し向上するが、その中で質的に快適に生
活できるかどうかは、個々人の人間性および社会の人間関係の成熟度、ひいては全体として
の品性の高さによって制約されてしまうのである。
 それでは、高い知性の文化と豊かな感性の文化を育み、社会の構成員である個々人の資質
を高めて、いささかなりとも品性の感じられる社会を作り上げ、生活の文化を質的に向上させ
るためには、どうすれば良いのであろうか。
 

第二部 文化の向上  第十章 社会的中核集団の行動様式
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