第五章 感性の文化 
  
T 対物的感性と対人的感性 
 ところで、先進国社会と開発途上国社会の生活の文化の、特に経済的、技術的側面には明
らかに優劣が存在すると先に述べたが、他方、音楽、美術等の芸術あるいは一般的な娯楽や
芸能ないし民芸等の「感性の文化」については、事情はいささか異なってくる。
 感性というのは、人間の五感に入ってくる印象をうけとめる能力、もっと端的に言えば、美し
いものを美しいもの、心地よいものを心地よいもの、あるいは醜いものを醜いものとして認識
し、判定する能力である。このような感性に訴える文化の中心に位置するのは、言うまでもなく
音楽や美術をはじめとする、いわゆる芸術である。オペラや歌舞伎などの舞台芸術ももちろん
芸術の範疇に入るし、詩も知的な要素が少なくないとはいえ、感性の文化に属するであろう。
ただし、小説となると、ものによっては知性の文化とかなり重なる部分が出て来るし、建築の場
合には生活の文化および知性の文化とも関わり合ってくる。
 すなわち、感性の文化、知性の文化、生活の文化と分類しても、ひとつひとつの知的思考様
式や行動様式がこの三つに常に明瞭に分類できるわけではなく、この三つの分野に重なり合
うものも少なくない。しかし、文化の構造を理解するためには、それぞれの知的思考・行動様
式の構成要素を勘案して分類しておくことが必要である。
 なお、感性を、右のような五感で感じ取れる実体の美醜を判定する能力と、人間性のような
精神的存在の美醜を判定する能力に分類して考えることも、感性の文化の働きを理解するに
当たって役立つことがある。その場合には、前者を対物的感性、後者を対人的感性と呼んでも
よいかもしれない。このように分類する理由は、美術や音楽などの鑑賞能力すなわち対物的
感性を磨いても、当然に対人的感性も平行して磨かれるわけではないことを認識しておく必要
があるからである。
 対物的感性は、一般的に、美しいものを繰り返し鑑賞したり創作したりすることによって磨か
れる性格が強い。これに対して、対人的感性は、人間ひとりひとりの生命ないし人生そのもの
を慈しむ感情を基盤にしており、このような対人的感性を既に身につけている人々(幼いころ
は肉親、成長するに伴って友人や人生の先輩など)との触れ合いや、自分自身の知的な思索
を通じて高められて行く傾向をもっている。従って、心の荒んだ人々に囲まれて成長したり、人
間についての理解を深めるような文学や思索と縁のない生活を送って来た場合、たとえ個人
的には素晴らしい対物的感性を身につけた芸術家や鑑賞家になったとしても、社会的には、
思いやりとか優しさといった内面的な価値ないし人間性を感じ取る能力に欠けた、一種の欠陥
人間になってしまうことも十分あり得るのである。
 一般的に言って、美醜が比較的にはっきりしている芸術的基準で判定し易く、経済的価値に
つながり得ることもあって、社会的にもそれなりに評価される対物的感性と比べて、これといっ
た判定の基準がなく、経済的価値も生み出さない対人的感性は、社会的評価も低く、人々に、
これを身につけようと努力させる動機づけに乏しい。しかし、社会の構成員の対人的感性の高
さが、その社会生活の快適さを大きく左右することを考慮すれば、対人的感性に対する社会
的な評価が低ければ低いほど、その社会の感性の文化はバランスを欠いていると言わざるを
得ないであろう。
  
U うるおいの文化
 いずれにしても、このような感性を主体にして形成される文化は、人間に感動や快感をもた
らし、生活の文化にうるおいを与えてくれるものである。もともと生活の文化から派生した感性
の文化は、生活の文化が高まることによって生じるゆとりにより更に洗練される性格を持って
いる一方、洗練された感性の文化により育まれる個々人の感性を、今度は生活の文化に反映
させることによって、生活の文化をより洗練させ豊かにすることができる。ただし、生活の文化
にゆとりが出ても、感性の文化が自動的に発達するというわけではない。生活のゆとりを感性
の文化に反映させるためには、それなりの意識ないしは努力を必要とする一方、感性の文化
が発達しても、それを生活の文化に反映させるためには、やはり意識的な努力が同じように必
要なのである。そのような意識が欠けていると、せっかく生活の文化が向上して物質的には豊
かになっても、感性の文化は停滞したままで、従って、感性の文化から生活の文化への再反
映も期待し得えず、生活の文化の物質的な繁栄の中で、何か索漠とした心の渇きが癒やされ
ないという社会的な状況が生じることになりがちである。
 このような状況に陥らないためには、あるいは陥ってもそこから脱出するためには、社会の
構成員のひとりひとりが、中でもその社会で指導的立場にある人々が、生活の文化の質的向
上に果たす感性の文化の大きな役割を認識して、物質的繁栄により生じたゆとりが感性の文
化の向上に出来るだけ多く向けられるよう、意識的に努力することが必要である。感性の文化
の重要な構成要素である芸術や文学の分野の活動は、決してヒマ人の遊びにとどまるもので
はなく、われわれの生活や人生を質的に豊かにするために欠かせない存在であることを、あら
ためて認識することが大切なのである。
  
V 感性の文化と文化相対主義
 感性の文化も人類の永い歴史を通じて発展して来たという点は生活の文化と共通している。
しかし、生活の文化が技術やモノという世代間で順次積み上げて行くことのできる社会的基盤
の上に築かれるものであるのに対し(例えば現代人は、祖先の穴居生活をまったく経験するこ
となしに、先人が作り上げた高層住宅に生まれた時から住むことができ、それを基盤に更に新
しい技術や生活様式を作り上げて行くことができる)、感性の文化には属人的な部分が多い。
特に感性の文化への積極的な参加者(芸術家等)は、先人が経てきた永い道のりを、個人の
人生の中でひと通りたどり直さないと、より洗練された技術(芸)の修得ができないという性格を
強く持っている。すなわち、どんな天才画家といえども、幼児の時代に最初に描く絵は、原始時
代の祖先たちが描き始めた絵と同じものであり、どんな天才音楽家といえども、最初に出す音
は祖先たちと同じく、たたくかこするかすることから始まるのである。ここでは、先進国の芸術
家も途上国の芸術家も、同じ条件でスタートすることになる。
 もちろん、そのあとの成長過程では先人の開発した技術を参考にできるので、先人が歩んで
来た道程を圧縮して習得できるが、その際、優れた指導者や豊富な作品に接する機会の多い
先進国の芸術家が、より恵まれた環境に置かれていると言うことはできるかもしれない。また、
経済的繁栄が芸術家に、より多くの活動の機会をもたらすことも否定できない。しかし、感性の
文化では個人的才能の占める比重が大きいため、途上国出身の芸術家が才能を発揮できる
機会は十分残されている。いずれにしても、こうして従来の技術を習得した芸術家の中で特に
才能のある人々は、更にその上に自分自身の新しい技術を加えて、一層の洗練を図ることが
可能になる。その結果、感性の文化の評価は、通常、その「洗練度」を基準にして行なわれる
のが最も一般的となっている。
 ところが、感性の文化の発展ないし洗練の方向は、技術的・物質的な制約からいずれの社
会でも比較的に類似した発展の方向(都市化)をたどる生活の文化と異なり、個人ないし社会
の個性に応じて非常に多岐にわたる特徴がある。また、時間の流れと共に発達する科学技術
と異なり、感性の文化の技術(芸)は、歴史のある時点で洗練の頂点に達したのち停滞あるい
は退化することも稀ではない。このため、優れた作品が地球上のあちこちの社会に、あるいは
文化遺産として残され、あるいは伝統芸術として伝えられていることも少なくない。更に、洗練
度があまり高くない作品や芸能も、逆にその素朴さゆえに、鑑賞する人の心に強く訴える例も
珍しくない。
 このような感性の文化の特徴のため、文化相対主義は、生活の文化よりも感性の文化の分
野で、より妥当性をもって適用される理論であると言うことができよう。ただ、文化相対主義の
感性の文化の分野における妥当性の故に、この理論が拡大解釈され、今や、論理的思考を
混乱させかねない様相を呈しているので、第四章に続いて、文化相対主義に関する考察をもう
一歩進めておきたい。
  
W 文化相対主義の陥穽
 実際、文化相対主義が、文化の相違に根差す人種差別観に対抗する効果的な論拠として役
立っている間は良いのであるが、本来、文化相対主義の適用が必ずしもふさわしくない生活の
文化に属する事柄にも、文化相対主義的考え方で対処しようとすると、いささか煩わしい状況
が現出してくる。この傾向は、途上国側の議論によく見られるのであるが、しばしば「アイデン
ティティ(「自我同一性」、「存在証明」等と訳される)」の概念とあわせて展開される。この概念
はいろいろな意味で使用されているが、文化の分野でしばしば使われる「アイデンティティ」の
概念は、ある国(社会集団)が他の国(社会集団)と異なっていることを示すいわば「独自性」あ
るいは「固有の文化」を意味することが多い。個々の国民は、そのような固有の文化を自らも
共有していることを認識することによって、その国ないし社会との一体感を持つことができ、「自
分が何者あるいは何国人であるか」という自分自身の独自性も確認できるとされる。
 そして、その構成員にそのような一体感を保持させるために、国や社会は、その固有の文化
や伝統を守らなければならないとされるのである。このアイデンティティの概念と文化相対主義
を合わせ、つきつめて行くと、いずれの国の文化も対等であり、国はその固有の文化を守らね
ばならないのであるから、その文化を変えるような外国からの影響は排除されなければならな
いという、いわば鎖国の論理に行き着く。鎖国まで踏み切る国は多くないが、外国との交流に
警戒心と猜疑心をもって対応する国は少なくない。
 他方、先に述べたように、少なくとも生活の文化には先進国と途上国との間に優劣の差があ
る。それだからこそ途上国は先進国に追いつくために経済開発に努め、先進国からの経済協
力を求めているのである。しかし、経済開発とは言い換えれば近代化への協力のことであり、
近代化とは変化させて新しくすることである。そして、変化させるものは、伝統的生活や文化、
特に生活の文化である。従って、経済開発が進んで生活が豊かになれば、生活の文化も変わ
ってくるのはいかなる国といえども避けることのできない道筋なのである。しかも、変わるの
は、貧困により余儀なくされていた生活様式であることが多く、気候風土など固有の条件に適
応してきた部分は、その条件が変わらない限り存続するはずである。
 それでも、いかなる変化をも避け、旧来の文化と伝統をそのまま保持しようと思うならば、経
済開発をあきらめなければならない。それはそれでひとつの生き方ではあろうが、他の国々の
豊かな生活を否応なしに見聞せざるを得ない現代社会で、それだけの決断を社会として集団
的に永続させることができるかどうか疑問である。
 とは言え、経済開発が変化を意味する以上、開発の規模が大きくなるほど自然環境に及ぼ
す影響も大きくなり、環境破壊をもたらすことも稀ではない。そのために、環境破壊をできる限
り少なくし、固有の自然環境に適応して形作られてきた文化や伝統を住民に保持させながら、
同時に、豊かで快適な生活を保障するような経済開発を如何に実施して行くかが、今日、人類
的規模の課題となっているのである。それは、文化の視点から端的に言えば、守るべき文化と
捨てるべき文化の選択の問題であり、本書に一貫して流れる問題意識でもある。  
 このような視点に立つと、文化鎖国の理論で外国の影響から守ろうとしている文化や伝統と
称するものが、本当にその国民大多数の生活の量的・質的向上を支えているものなのかどう
かは大いに疑問である。伝統が、その時代に生きている二ないし三世代の、ほんの数十年来
の生活習慣や思い込みでしかなかったり、文化が、実は少数の特権階級の存続や利益を確
保するためだけの政治・社会体制にすぎない例も珍しくない。特に、独裁的あるいは専制的な
政治体制をとっている国では、一般的に耳当たりがよい文化や伝統といった言葉が、その体
制を維持するための手段として恣意的に使われる傾向が強い。
 「文化相対主義」の概念は、自分たちの文化の優位性を信じる人々に、それを他の人々に
押しつけることの不条理を教える上で有用であった。しかしそれは、全ての文化が完全無欠で
あるという意味ではない。従って、社会的後進性などを指摘され易い立場にある国の指導者
が、この概念を、外国からの批判を封じることによって、自らの文化の短所に対する謙虚な反
省と、その質的向上を図る努力のいずれをも怠る口実として使用する場合には、かえって有害
であろう。文化についての明確な認識や学問的研究が未だ十分に普及していない状況では、
「文化相対主義」とか「アイデンティティ」といった一見もっともらしい文化用語が、使っている本
人の概念規定もはっきりしないままに、とんでもない方向に独り歩きし始めることがあるので注
意が必要である。
 敢えて言えば、文化は、それ自体で究極的な価値を持つ存在ではない。文化の価値は、そ
れより上位にある価値の実現に役立つかどうかによって判定されるべきものなのである。その
価値とは、個人レベルでは精神的充実感を含めた快適さであり、社会的には最大多数の最大
幸福である。それに合致する文化は、国家なり社会なりが積極的に保護・育成することが望ま
しい。それを損なうものは、いかに伝統的であり固有であっても、守るに値しない文化であると
言わざるを得ない。そのいずれでもない大部分の文化、あるいは生活習慣を守るか捨てるか
の選択は、その文化に関わっている人々の選択に委ねれば良い。 文化の専門家を自認する
人々の中にさえ、世界中どこに行ってもマクドナルドが繁盛し、テレビではアメリカ映画ばかり
見せられるのは、各国固有の文化に対する侵略であるといった議論を展開する向きが見られ
る。これなどは、なまじ文化意識を持ったために、それに振り回されて不必要に排外的になっ
てしまっている一例であり、文化意識が徒に感情を刺激すると、文化摩擦の原因にもなりかね
ないことを示している。とりわけ、外国人が、自分は近代的で快適な都会生活を享受しながら、
他の国民特に開発途上国の人々に対して、快適さを犠牲にしても伝統的な生活習慣を守れと
お説教するのは、余計なお世話というものであろう。
 マクドナルドもアメリカ映画も、生活の文化を多彩にするための選択肢のひとつに過ぎず、こ
れを受け入れるかどうかは、最終的には、生活者である一般国民の判断次第である。仮に、
文化意識の高い人々がこれらを俗悪であると判断する場合にも、この人々の為すべきことは、
これらの外国文化の侵入を公権力によって阻止するよう煽り立てることではなく、これらに代わ
って一般国民を魅了する文化を提示するか、あるいは俗悪なものを受け付けないように一般
国民の文化意識を高めるよう努力するかの、いずれかであろう。今や、国家は無菌保育器で
はあり得ず、俗悪なもの、危険なものに対する免疫と抵抗力を身につけない限り、国民として、
民族として生き延びて行くことはむずかしい。
 制度や生活慣習等、人類の過去の文物全てを維持・保存することが不可能である以上、何
を守り何を変えるかの選択は避けることができないのであるが、その時に求められるものは、
独り善がりの思いつきや思い込みではなく、歴史に対する深い洞察、文化に関する高い見識、
および国家や社会のあるべき姿とその文物との関連についての冷静な判断である。今日ほど
コミュニケーション(通信・運輸)の手段が発達した人類社会での生存競争を生き抜いて行くた
めには、文化的鎖国は自殺的選択であり、知性の文化と感性の文化を磨き上げることによっ
て、多様な文化活動の中からより優れた生活様式を選択する能力を養い、生活の文化を向上
させて行く以外に道はないのである。むしろ、そのようにして、諸外国の最も優れた文化を取り
入れて、新しい文化の創造に成功する国や民族が、次の時代のトップ・ランナーになれるので
はないであろうか。


第六章 知性と知恵
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第六章 知性と知恵
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