第十三章 マス・メディアの役割
 
 マス・メディアは影響力の行使者として、中核集団の重要な一角を構成しているが、とりわけ
文化との関連で特別な役割を果たしている。もちろん、中核集団の構成員である以上、短期的
利害関係や力関係を最優先する状況対処主義が経営活動の基本原則であるという性格は歴
然としており、知性の文化とは相容れない部分も少なくない。ただ、他の集団がそれぞれ経済
的価値や権力関係を実質的に体現しているのに対し、マス・メディアはそれ自体が知性の文化
や感性の文化の体現者ではないとはいえ、メディア(媒体)として行なう媒介の中身が文化その
ものであるために、これらの文化と、他の集団には見られない密接な関係を持っているところ
に大きな違いがある。
 実際、生活の文化の枠内で主として活動している他の集団の活動が、現在の生活の文化に
適応しそれを保持する性格を持つ傾向が強いのに対し、マス・メディアの場合には、活動の質
が高くなればなるほど、すなわち、知性の文化や感性の文化を媒介する力が高まれば高まる
ほど、マス・メディア自身が意識するとしないとにかかわらず、それを通じて生活の文化を変え
る効果を及ぼす可能性を持っていると言うことができるのである。
 マス・メディアの中でも特に影響力を持つ新聞、テレビ、ラジオ等の報道機関の特色は、本
来、事実の客観的報道を出発点として発達してきたこともあってか、絶大な社会的影響力を享
受するに至った今日でも、影響力行使の目的すなわちどのような結果をもたらすことを期待し
て影響力を行使しようとしているのかが、必ずしも明瞭には示されないことである。あるいは、
報道機関自身、事実の報道以上の目的を特に意識して活動しているわけではないのに、報道
機関の活動範囲が単なる事実の報道以外にも拡大した結果、予期せぬ影響だけが一方的に
増大しているのかもしれない。
 また、一般企業と同じように経済的利潤の獲得が究極の目的になると、販売部数や視聴率
を上げることが最優先され、購読者や視聴者の文化水準や嗜好に合わせようとする傾向が強
まってくる。販売部数や視聴率は数の勝負であり、ひとつの社会で多数を占めるのは、当然の
ことながら文化水準の平均的階層であるが、そこに平均以下の階層も加われば、圧倒的多数
を制することになる。
 従って、平均的階層とそれ以下の階層に水準を合わせたメディア活動の影響は、生活の文
化の質的水準を保持することが精々で、向上させる方向に作用することはできず、場合によっ
てはそれを低下させることもある。「一億総白痴化」などと呼ばれる現象は、マス・メディアのこ
のような側面を突いたものであろうが、比較的短期間にこのような結果をもたらす荒業は、民
主主義国家では、中核集団の構成者の中でもマス・メディア以外には為しうるものではない。
 それだけにマス・メディアが、経済目的を追求する企業としての側面を強調するだけでなく、
文化の伝達機関としての社会的責任を自覚し、活動するかどうかが、その社会の文化の水準
やあり方を決定すると言っても言い過ぎではないのである。
 マス・メディアが文化に影響を及ぼすに際しては、自分自身すなわち幹部や記者の考え方や
判断を直接提示する方法と、外部の人々が寄稿者や出演者としてその考え方や判断を提示
できる機会を提供する方法がある。そして、印刷されたものや放送されたものが、社会風潮や
世論の動向に及ぼす大きな影響力を考慮すれば、前者の場合はもちろん、後者の場合でも、
誰に機会を提供するかの第一次的判断を行なうに当たってのマス・メディア側の見識は重要で
ある。
 寄稿者や出演者の知性や感性の水準が、平均的読者や視聴者のそれと同程度か、それ以
下でも余りひどくない程度であれば、大多数の読者や視聴者は安心して、時には楽しみながら
ついて行けるし、販売部数や視聴率もそこそこに保てるであろう。しかし、それだけに、知性の
文化や感性の文化からの知的刺激に欠け、文化水準の向上に果たす役割は期待できない。
 文化水準の向上を促すことが期待できる、平均的読者や視聴者の文化水準以上の寄稿者
や出演者となると、広い意味の知識人ということになるのであろうが、それについて行くために
はある程度の知的緊張を強いられることになる、平均ないしそれ以下の読者や視聴者が、こう
した知識人にどこまで付き合ってくれるかが大きな問題になってくる。これは、ひとつには、普
通の人がこうした知識人を受け入れ易いようにどのように料理するかというメディア側の腕に
かかる部分が大きいが、同時に、その社会が日頃、知識人をあるいは知性ないし感性そのも
のをどれだけ評価しているかという、より根本的な文化の問題に関わっている。
 すなわち、知性や感性を高く評価する文化を持つ社会では、当然のことながら知性や感性に
関わる職業に携わる人物に敬意を持ち、その言葉に耳を傾ける。知恵や才覚が万能の社会
に住んでいる人には、知性や感性などというものを高く評価するのは馬鹿げて見えるかもしれ
ない。しかし、この地球上には、そのような、知性や感性が高く評価される社会も現実に存在
するのである。
 そのような社会では、メディアも進んで、知識人や感性の文化に主として関わる文化人の参
加を求め、他方、読者や視聴者の側も、社会的に評価される知性や感性を少しでも良いから
身につけることによって、対人関係でより心地よい、少なくとも眉をひそめられることがないよう
な立場に自分自身を置けるようにするため、自分の時間の一部分なりともこの種の知的緊張
を伴う精神的活動に割くことを惜しまない。しかも、始めは見栄でやっていたのが、その内に知
性の文化や感性の文化の魅力に捉えられて、本物の知性や感性を育て始める人も少なくな
い。このように、知性や感性を高く評価する社会では、人々もそれを身につけようと務め、その
結果、知性の文化や感性の文化が厚みを増して生活の文化に強く反映し、その質を向上させ
ることになる。
 知性や感性を高く評価する社会の成立は、従来は、その社会の歴史的、伝統的、文化的要
因に負うところが大きかったのであるが、マス・メディアの高度な発達は、社会の形成に、歴史
的、伝統的、文化的要因に劣らない影響力を持つまでに至っている。そのため、従来、知性や
感性を余り評価してこなかったような社会でも、マス・メディアの働きかけ如何によっては、既存
の、知性や感性を高く評価する社会の成立に要した歴史的時間よりもはるかに短時間で、知
性や感性をそれなりに評価する社会に変身することが可能になっているのである。
 それでは、マス・メディアがどのように働きかければ、社会は知性や感性を評価するようにな
るのであろうか。
 前提条件がふたつあり、第一は、マス・メディア自身すなわちマス・メディアの幹部と職員が、
人間の個人生活と社会生活に知性と感性が果たす役割の重要性を、先ず認識することであ
る。マス・メディアが未だ知性と感性の価値を十分に認識していない社会では、マス・メディアに
それを認識させることができるのは、力による強制ではなく説得力のある論理だけであり、そ
の意味で知識人の力量が問われることになる。
 マス・メディアが、ひとたび知性と感性の重要性を認識すれば、その活動の少なくとも一部分
は、知性と感性に関わりを持つ分野や事柄に向けられることになるはずであるが、その場合に
問題になるのは、それが、販売部数や視聴率に及ぼす影響であろう。知性や感性が評価され
ない社会では、その分野に対する関心も薄いからである。従って、マス・メディア側に、販売部
数や視聴率をある程度犠牲にしても、敢えて知性の文化や感性の文化を取り上げる社会的責
任を自覚するだけの知性ないし見識があることが、マス・メディアからの社会に対する働きかけ
が実現するための第二の前提条件である。
 マス・メディアからの社会に対する働きかけといっても、それは必ずしも、知性や感性を高く評
価するよう社会に直接呼びかけることを意味するわけではない。マス・メディア自身が余程高い
知性や感性を備えているのであればともかく、中核集団の一角を占め、知恵や才覚が物を言
う生活の文化のチャンピオンの側面を持つマス・メディアからの、この分野での呼びかけが訴
える力にはどうしても限界がある。むしろ、その表現活動の中で知性の文化や感性の文化を
高く取り扱うことによって、その重要性や価値を読者や視聴者に無言の内に印象づける方が、
より効果的であろう。
 その場合に、寄稿者や出演者の選択は、読者や視聴者の、知性や感性の価値に対する評
価に決定的な影響を及ぼす。実際、知性や感性の具現者のはずである知識人や文化人が、
非論理的なことや普遍性に欠けることばかり言ったり書いたりしたら、その人たちだけではな
く、知性や感性そのものに対する社会の評価も地に落ちるであろう。そのような状況は、販売
部数や視聴率を伸ばすという観点だけが突出して、論理性や普遍性ひいては品性等よりもむ
しろ一般受けを狙った人選が優先されたり、知的誠実さに欠け、特定の集団の利益のために
は自分自身の知性や感性を歪めても恥じるところのない、いわゆる御用学者や御用評論家が
多用されるような場合に発生する。
 従って、マス・メディアに登場させるべき知識人や文化人の選択に際しては、マス・メディア側
自身の評価能力や見識、更にはその基盤をなす知性、感性そして品性の程度も同時に問わ
れることになる。それのみならず、選択の基準となる何らかの価値観すら必要であろう。それ
は、先に「生活の文化の質的向上とは」で述べた程度の緩い方向性で十分であり、選択の範
囲がせめてこの程度の方向性の幅から外れないことが、論理の普遍性の確保のためにも、あ
るいは質の高い知識人や文化人を育てて行くためにも必要である。
 もちろん、何の価値観も何の方向性もなくてもマス・メディアとして営業、活動してゆくことは可
能であろうが、それは、マス・メディアとして折角具備している、知性の文化や感性の文化の普
及を通じて生活の文化の質的向上に貢献するという潜在的能力と社会的責任を放棄すること
を意味し、そのようなマス・メディアしか持つことのできない社会の将来は決して明るいとは言え
ない。
 「生活の文化の質的向上とは」で挙げた緩い方向性ですら第十一章(知識人の役割)の「中
核集団との関係」で見たとおり、中核集団の活動とは相容れないところがある。従って、中核
集団の構成員であるマス・メディアにとっても、このような方向性は、仮に建て前としては賛成で
きても、経営政策上は受け入れかねるところがあるかもしれない。ただ、中核集団の他の構成
員の場合には、仮に建て前としてでもある方向性に賛成すれば、それはそれぞれの活動であ
る経済的価値や権力関係の追求の方向性を直接制約するのに対し、マス・メディアの場合に
は、経済的価値の追求と共に、それとは分離した活動の部分すなわち媒体としての活動形体
を持っている。このため、経営活動の面では受け入れにくい方向性でも、建て前ないし理念と
して賛同できれば、寄稿者や出演者などの第三者を通じて、その伝達の任にあたるという媒体
としての活動の面では、経営活動を制約することなく受け入れることができるのである。
 これこそが、文化の質的向上のためにマス・メディアが果たすことのできる役割を特に拡大し
ている、媒体としての側面が持つ特質であるということができる。マス・メディアがこの目的のた
めに、知識人や文化人と高いレベルで歩調を合わせて活動する社会こそ、知性の文化と感性
の文化を更に発展させ、それを生活の文化に反映させることによって、個々人に快適かつ精
神的にも充足した生活を保証することができるのである。 


第十四章 女性の役割
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第十四章 女性の役割
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