第二部 文化の向上
 
 第一部では、文化の構造と文化を形作る主要な要素を概観して来たが、これを基礎にして、
第二部では、文化を向上させて、より快適な社会を作るためには、誰が、何をすることが必要
かについて考察する。

第十章 社会的中核集団の行動様式
 
 人間集団としてのひとつの社会がまとまり存続して行くためには、その社会のあり方(価値
観)を方向づける中核的な存在が不可欠である。人類の永い歴史を通じて、それぞれの社会
の極く少数の権力者集団(国王と貴族集団等)がその役割を果たして来たが、今日の特に先
進国社会では、権力の行使者ないし、それに影響を及ぼす集団が拡散する傾向が強まってい
るようである。
 どのような集団がより強い権力や影響力を行使しているかは、それぞれの国家社会により異
なるが、日本の場合、社会のあり方を方向づけている中核として、政・財・官の三極構造がし
ばしば指摘される。また、これら三極に劣らない社会的影響力を行使する存在として、マス・メ
ディアも忘れることはできない。他方、途上国には、ときおり独裁的な権力者が出現したり、軍
が圧倒的な権力を掌握している例も珍しくない。
 いずれの場合にも、これら中核集団の価値観の基礎を成しているのは、その社会の生活の
文化である。言い換えれば、これら中核集団の構成員たちは、その生活の文化が評価する価
値(金銭、土地、物などの経済的価値、特定の思想や伝統ないし宗教等に基ずく各種の政治
的、社会的制度など)の実現を求めて、その生活の文化が許容するルールの範囲内で活動す
るのである。
 中核集団に対する生活の文化の規制力が弱い場合には、通常、中核集団は、何の遠慮も
なく自らだけの利益、すなわち経済的利益や強権的支配力の獲得およびそれを保障する政治
的ないし社会的地位の確保に専念できるであろう。それどころか、生活の文化を自らの都合に
合わせて、好きなように変えてしまう程の力を持っている中核集団も存在する。少数の独裁的
ないし専制的グループが権力と富、そしてそれに伴う快適な生活を独占し、大多数の一般国
民が貧困と悲惨な生活にあえいでいる例は、程度の差こそあれ、今日の国際社会でも珍しくな
い。それどころか、国の数から見れば、その方が一般的であると言ってもよいほどである。 他
方、生活の文化がその構成員ひとりひとりの快適な生活の実現を重視し、中核集団による権
力の行使を厳しく規制している場合には、中核集団といえども、その規制に服して社会全体の
利益に配慮しなければ、その権力や影響力を維持できない。しかし、今日の国際社会では、経
済面に限っても、中核集団だけでなく、大多数の国民にそれなりに快適な生活を保障できる生
活の文化を持っている国は決して多くない。それに、経済的には豊かになっても、過去の貧困
だった時代や封建的あるいは専制的であった時代の心理的、精神的あるいは制度的な「伝
統・習慣」、ないし文化遅滞に基ずく、個人の信条、言論、表現等に対する種々の社会的規制
が生活の文化の中に残存し、個々人のアイデンティティの確立を通じて得られる内面的な充実
感まで含めた快適な生活の確保を困難にしているケースもしばしば観察される。
 しかも、この場合には、必ずしも中核集団が自らの利益のためのみにそのような社会的規制
を維持、強制しているとは限らず、中核集団自身も、その生活の文化の中に残存する封建的
価値観のような社会的規制によって、真の快適さの追求を制約されていることが少なくない。こ
のように、経済力だけではなく社会的にもかなり発展していると考えられる多くの先進国でも、
今日の生活の文化は、最大多数の最大幸福を保障する水準には未だ到達していないのであ
る。
 このような生活の文化の中で、それぞれの社会の中核集団は、その持てる知恵と才覚を最
大限に活用して、先ずは自分自身、および、中核集団に直接所属してはいないが中核集団に
影響力をもつ集団や人々の利益のために、また、その生活の文化の水準に応じて、ある程度
は社会全体の利益のためにも、権力ないし影響力を競っている。
 もちろん、中核集団の行動は、その構成員である個々人の行動の集積ないし反映であり、従
って個々人も、その属する生活の文化の影響と規制の中で行動していることは言うまでもな
い。そして、中核集団のような、権力や影響力の行使に特に関係する集団や組織に所属して
いる個々人の最大の関心事項は、極く単純化して言えば、その集団や組織の中で、より大き
な権力や影響力および快適な処遇を保障してくれる「地位」である。
 生活の文化が、中核集団の目指すべき高次元の社会的価値、例えば「最大多数の最大幸
福」といった理念をはっきりと指示している場合には、中核集団を構成する個々の集団や組織
あるいは更にそれを構成する個々人は、その理念の実現のために、自らの地位に応じて自ら
が享受する権力や影響力を行使することを求められる。そして、この大きな理念の幅の中で
個々人や集団が行使する権力や影響力によって、その社会の具体的な進路が方向づけられ
て行くのである。このように、個人や組織ないし集団の利害関係をこえた高次元の社会的価値
の実現を目指す個々人が、その手段としての権力や影響力ひいては地位を求めて知恵と才
覚で競い合うのは、社会にとっても有益かつ好ましい姿であろう。
 他方、生活の文化が、金儲けや享楽あるいは世俗的上昇志向といった個人次元での価値
観しか提示できない場合には、中核集団にしても、その構成員たる個々人にしても、個人的利
害関係ないし精々所属組織の利害関係までしか視界に入らず、社会ないし国全体の利害はな
おざりにされ勝ちになる。ここでは、社会全体の目指すべき理念が明らかでないため、個々人
の活動の最終目的も、個人次元での価値すなわち権力や影響力あるいは地位そのもの、及
びそれに伴う特権や利益の追求になってしまうのである。実現すべき社会的価値が明白でな
ければ、中核集団の権力や影響力の行使も、その時々の利己的な力関係によって大きく左右
され、社会の具体的進路の方向づけもご都合主義でわけのわからないものになることが多
い。それに、個々人や組織・集団の活動が専ら個別利益の追求に向けられる限り、その活動
は「万人の万人に対する戦い」の本質を免れ得ない。現代社会は自然状態とは異なり種々の
制約があるために、「万人の万人に対する戦い」も、武器を使わない権力闘争や出世争いある
いは利権分捕り合戦等の隠微な戦いになる傾向があり、また、そのような戦いも一時的には
社会の活力として経済的繁栄に役立つこともあるが、高い水準の社会的価値観を欠いている
社会ではこのような戦いに歯止めがかかりにくく、行き過ぎが生じると社会的不公正や専制主
義的強権秩序の温床にもなりかねない。
 このように、社会のあり方すなわち生活の文化にとって、その社会の中核集団の思考・行動
様式は決定的な重要性を持っている一方、中核集団の思考・行動様式も生活の文化の制約
を受けている。従って、生活の文化の質的水準が低いと、中核集団の思考・行動様式の質的
水準も低くなり、それに応じて生活の文化の質的水準が更に低くなるという悪循環に陥るか、
少なくとも停滞する可能性は少なくない。逆に、生活の文化の質的水準が高ければ、中核集団
の思考・行動様式の質的水準もそれなりに維持されるであろうが、権力や影響力の維持・強化
およびそれによる利益の拡大が最大の関心事である中核集団の本質から見て、生活の文化
の量的(経済的)水準の向上はともかく、質的水準の引き上げまで中核集団自身に期待するこ
とはむずかしい。
 それでは人類は、生活の文化の水準低下や停滞に、どのように対処して来たのであろうか。
 先ず、社会の弱点につけこまれて外敵に滅亡させられたり支配されたりしながらも、相手の
文化を取り入れたり新しい指導者を立てたりして生活の文化の立て直しを繰り返すか、あるい
は、そのような試練を経ることもなく、低い水準に停滞したまま存続して来た民族や国家が圧
倒的に多い。その中にあって、生活の文化の向上に成功し、更にその成果を周辺の民族や国
家に及ぼすことによって、人類の文化の発展に貢献して来た民族や国家も幾つかある。この
ような民族や国家の生活の文化を引き上げるに力があったのは、その時々のその社会の知
性の文化であり感性の文化であった。そして、その知性の文化や感性の文化の内、特に、生
活の文化の質的向上に直接貢献した知性の文化の担い手は、哲学者や思想家あるいは学者
たちを中心とする知識人たちであったのである。それに、往時、少なからぬ知識人たちは、同
時に文学や芸術等の感性の文化の担い手でもあったことを考えれば、人類の文化全般に対
する知識人の貢献の重要性は、いくら強調しても、し過ぎることはないであろう。


第十一章 生活の文化の質的向上とは
第十一章 生活の文化の質的向上とは
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第十一章 生活の文化の質的向上とは
第十一章 生活の文化の質的向上とは