グリンウッドの思い出(5)

熊井 カホル

Dec. 15, 2001


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6.アダムスさんから教わった英語の世界

ケイト先生は、私のグリーンウッドでの最初の英語の先生でした。先生は、リタラシーカウンシル ( 識字普及協会 )  の先生で、元来、英語を話すことはできるけれど、読めない、書けないという人達に読み書きを教えるための、先生です。  当時アメリカ全体の文盲率は25%、サウスカロライナ州では、30%といわれていました。  この30%という数字には実のところ、びっくりしました。 日本は、99.9%の人達が読み書き出来るお国柄ですから。

 そういう事情からケイト先生にとって、私のような、少しは読んだり、書いたりできるけれど、聞き取れない、話せない生徒というのは、 初めての経験だったようです。 ですから教材などもやさしすぎたり、なにかとかみ合わないことが多くありました。  しかし、英語で話し合うというそのことが、なによりの勉強でした。 けれど、3カ月ほどする内に、 先生のご主人の病気が悪化して教えていただくことが出来なくなりました。 私はケイト先生には、 授業料を払って教えていただいていたのですが、この間に、次々と日本からグリーンウッド駐在員の夫人達がやってきました。  そして、彼女達に英語を教えていたのがコートニーさんでした。 

彼女は当時大学のフレッシュマンでしたが、高校生のとき日本にホームステイをし、大の日本びいきになっていました。  来年はまた日本に留学するのだといって、そのことが嬉しくて嬉しくて、たまらないらしく、日常生活が日々ハイの状態でした。  そして、事実、翌年関西外語大学に、1年間留学しました。 その様なわけで、彼女とは、日本語でコミュニケイションがとれて、 ありがたかったです ( 彼女は現在男児4人の母親です。 写真:左からコートニー、順子さん、ペギー先生、私 )。

 アメリカの夏休みは6、7、8月の半ばまでと、大変ながいので、その間、彼女が新任の日本婦人達の面倒をみたり、 英語を教えたりしてくれていました。 この婦人たちが、「 夏休み後もボランテイアで、英語を教えて欲しい 」  と希望をのべたところ、グリーンウッドの数人のアメリカ人婦人が、数年にわたって私達のわがままな要求にこたえてくださったのです。  当時ニューヨークでは、レッスン代が1時間あたり20ドルから25ドルもするといわれていました。 ですから、このことは、 大変にありがたいことでした。 頭のさがるおもいです。 当時私は、英語がわからなく、そのことで、頭が一杯でしたので、 この先生方の心のひろさに、あまり氣づかなかったのですが、いま、時間をおいて振り返ってみると、大変な事を、 よく引き受けてくださったものと、感謝の気持ちでいっぱいです。

その時の先生は全部で4人、生徒は、12〜14人ぐらいでした。 私の先生は、ペギー・アダムスさんときまりました。  コートニーのお母さんです。ランダ大学とデューウエストカレッジで、美術史を教えておいででした。  わたしと一緒に勉強するのは、ピチピチ young の順子さん。 彼女と私は、おおよそ7年間も一緒に、英語を教わったり、 先生に、日本の風習を教えたりの月日をすごすことになりました。 先生の忍耐とご努力は大変なものだったと思います ( 左の写真:ペギー先生が日本食に挑戦 )。

ペギー・アダムス先生が夏休みも終わりに近い8月の夕暮れ、 他の3人の先生方とその生徒達とその家族全員をレイクのほとりの家  ( セカンドハウス ) に招いてくださいました。夕飯をご馳走になりながら、みな、おぼつかない英語で先生方と話をし、 どうにも話が進まなくなると、コートニーさんに助け舟をだしてもらったりしながら、お互いに理解しようと努めました。

ロバーツ先生ご夫妻はポンチューンボートに私達をじゅんぐりにのせ、 湖上を遊覧させてくださいました ( 写真のパイプをくわえている紳士が夫の Roberts 氏 )。  いつも花柄ブラウスの、若くて綺麗な先生は、お医者様の奥様でアン先生でした。 もう一人は、 熟年の英文学を専攻なさった先生でした。 先生方はみな目一杯私達をもてなし、コミュニケーションをとろうとしてくださっているのがよくわかりました。  その日は、大変よい天気でした。天空に昇った月影がきらきらと、湖面の漣に映えるころ、私達は家路につきました。  ロバーツ先生ご夫妻は、英語を、教えてくださるだけでなく、民間外交官のように、 生徒の家族をことあるごとにご自分の家に招いて下さり、ご馳走しては、ボートに乗せてくださるのでした。

アダムズ家のレイクハウスのことについてですが、ゲイトをはいると、10万坪はあると思われる広い広い牧場です。 当時牛が30頭ほどいました。 紛れ込んできた野生の鹿や七面鳥も沢山いました。  車でゆっくり走るのですが、進路にたちはだっかって、 動こうとしない強情な牛がいて、往生しました。ミスターアダムズによれば、 どの牧場にも1、2頭の強情な牛はいるもので、扱いはむずかしいそうです。 人間の世界と同じですね。ミスターアダムズは勿論、 ペギーさんの夫で、Bさんとおよびします。 当時彼はグリーンウッドの煉瓦を焼く会社の社長でした。  彼の父親はグリーンウッドミルズ工場のひとつの運営をまかされていた人で、アダムズ家はグリーンウッドでは、 たいへんな資産家のひとつでした。

グリーンウッドには、ここにも、あそこにも沢山の牧場があります。この辺りの牧場では、子供を生ませ、牧草でそだて、 ( 草だけですと、肉質の硬い牛になってしまうので ) その後テキサスに移し、そこでコーンをあたえ、 柔らかい肉質の牛に育て上げ、シカゴに送られ終に哀れな一生をまっとうするのだそうです。 Bさんは社長の仕事以外に、 牛の飼育も大事なビジネスでした。 牛の相場によって、売買します。 ある時、レイクの家にゆくと、牛が一頭もいません。  牛はどうしたのですか。とたずねると、みんな売ってしまい森林を買ったとのことでした。 そして、 またしばらくして訪ねた時には沢山の牛が草を食んでいたりします。 この様にして、お金をかせぐのでしょう。  どれくらいの面積の森林を買ったのかたずねたのですが、エーカーと聞いただけで想像力が半減するわたしです  ( 面積はやはり坪でなくては )。 その上、桁が大きくて、想像もつきませんでした。 儲けもさぞおおきいことでしょう。  だいたいいくら儲けたか教えてくださったのですが、びっくりしたことしかおぼえていません。

 実に、南部らしいビジネスだとおもいます。 アン先生の夫のお医者さんも牛をかっていました。 といってもBさんや、お医者さまが牛の世話をするわけではありません。  ようするに、牧場もろともに、牛のオーナーということでしょうか。

グリーンウッドミルズのことについてですが、これは一時は世界最大とも言われた、ジーンズ用デニムの紡績会社です。  70年代の日本との繊維摩擦戦争に生き残り、立派な業績をあげていました。 2代目オーナーであるミスターセルフとしては、 フジがグリーンウッドに来ることについて、いささかの思いがあったことでしょうけれど、気持ちよく受け入れてくれたことは、 まちがいありません。 南部のちょっとした町には、70年代までは、必ずと言ってていいほど紡績工場がありました。  隣町のウエア・ショールズには少し崩れかけた大きな紡績工場が残っていました。 日本にいたなら絶対に思い起こさないこ とを、この様な 「 兵どもが夢の跡 」 は、いつまでも忘れさせません。

 名前の呼び方ですが、最初のころは、先生をファーストネームでお呼びするのにとても抵抗があり、 先生をお呼びする時の言い方をたずねたりもしたのですが 「 そういう言い方はありません、ファーストネームで呼んでください 」  とのことで、ペギー先生のことを、ただ、ペギーと呼びかけるのに随分胸がいたみました。

いよいよ、9月から、勉強をはじめました。1週間2度もお願いしました。 場所は先生のお宅、順子さんの家、私の家を、 1週間毎に、移動しました。 私は、教科書は使いたくなかったので、そのように、先生におねがいしましたので、 7年の間に使った教科書は 504 Absolutely Essential Words というボキャブラリーの本だけでした。 このことが、また、先生にとっては、とても大変なことだったにちがいありません。 でもおかげさまで、とても面白い勉強ができました。

先生は、毎回、政治、経済、社会情勢、世相、アメリカの風習、その時々の行事にまつわることがら、ご家族のこと  ( 例えばBさんは長男の長髪が気にいらないとか )、旅行の話など、話題を用意してきてくださいました。  この会話のなかで、日本のことについて知らせようとするのですが、私達は日本について、あまりにも、無知でした。  「 この次までに調べてきます 」 と言って、百科事典で調べることが、しょっちゅうでした。 私のこれまでの生涯で、 百科事典でしらべることが最も多い時期だったことは、まちがいありません。

ペギーさんの家のゲイトを入ると両側が広い草地です。 300メートル程先の右手の厩には2頭の馬が飼われていました。 ゲイトから800メートルほどで家屋になります。家屋の右は広い林ですがそこには、入ったこともありません。  しかし、有数の資産家であるアダムズ家には、エアコンシステムがありません。 これはたいへんにめずらしいことです。  普通どこの家にも家全体のエアコンシステムがほどこされているのが普通です。 すべてに遅れをとっている南部ですが、 それでも70年代にはほとんどの家に普及したそうです。 アダムズ家では、冬季は暖炉で暖をとりました。  ペギーさんは、質素で自然環境保護の考えを、とても尊重なさる方です。消費は美徳のアメリカでは、 質素に暮らす人はマイノリティです。

質素が身についてしまっている私にとっては、その意味でも、共感する部分が多かったです。  アメリカに来て以来、常々、家全体を冷房あるいは暖房するシステムは非常に無駄が多いと思っていました。  住み心地としては非常に快適で、一度この味を知ってしまっては、やめられないというのが実情でしょう。  この国の電気料金は日本の数分の一ですから、こんなに無駄なことができるのでしょうが、資源の無駄使い、 地球環境の保護という観点からは、もう少し考えなおしても良い点ではないかと強くおもいました。

ペギーさんは、自然保護の見地から、新聞がまとまると、となりの林にすてに行くのだそうです。 肥料になるからだそうです。  この点についてはちょっと疑問がありますけれど。 古畳は時間をかければ肥料になると思いますけれど、新聞はどうなのでしょう。

ペギーさんとの勉強で、最も印象に残った、ことがらは 「 白黒共学になったのが、ペギーさんの長女 ( マーガレット )  が小学校に入学するときだった 」 という点でした。 マーガレットは1959年生まれ、アメリカでは、5歳で、 プレスクールに入りますから、これは1964年のことです。 私は南北戦争後、奴隷解放になってすぐに、 白黒共学が行なわれたと思いこんでいました。 しかし、奴隷解放後も、今から40年くらい前までは、 白黒の差別は公然とあったわけです。 そういえば、その頃、アメリカ南部で白人にレストランに連れていってもらったけれど、 黄色の日本人はいったい白の入り口から入るのか、或いは黒の入り口から入るべきなのか迷ったなどと書かれているのを、 昔読んだ覚えがあります。

結局その人は白から入ることが出来てほっとしたそうです。 なんだかもやもやした気分が残りますけれど。  しかし、私がこのグリーンウッドで生活を始めた1989年には、表面上の白黒の差別というものは、ありませんでした。  むしろ、よく、ここまで、平等になったものと感心することの方が多かったです。  特に白人たちが大変に気を遣っていたように思えました。 教会は白人の行く教会、黒人の行く教会と別々ですが、 これは、その方がお互いに落ち着くからなのだそうです。 会社でクリスマスのパーテイーをした時にも  ( アメリカではどんなパーテイーでも夫婦同伴が普通です )、白人と黒人がそれぞれ別々のグループになって座っていたのですが、 これも、その方が心地良いからなのだそうです。

この地方では、雇用する側として、30%の黒人を雇うことがきめられています。 この様にして、差別はなくなってきており、 中産階級にどんどん黒人が入ってきています。 しかし100%の平等ではないという部分も、ないわけではありません。  たとえば、名門グリーンウッド・カントリークラブのメンバーに、黒人は一人もいませんでした。 私達夫婦が、 このカントリークラブでの有色人種会員第1号だったはずです。 クラブ側としては、黄色の私達をクラブメンバーにするにあたり、 いろいろ検討した末でのメンバー許可だったに違いありません。

  言葉についてなのですが、黒人英語というものがあります。 目をつぶっていても、一言聞けばすぐに、 黒人英語だなということはわかります。 発音、イントネーシヨンなど独特のものがあり、非常にわかりにくいものです。  私は、歌うことが大好きですので、声楽のレッスンをうけました。折角この土地に来ているのだからと、 いくつかの黒人霊歌を教えてもらいました。 その中にでてくる黒人英語は、たとえば、次のようなものです。

I feel de spirit mov-in in ma heart, (I feel the Spirit move in my heart ,)

いくつか勉強したなかで、わたしの一番好きな By An' By ( = In the future = after death の意 ) をご紹介しましょう。

Oh, by an’by,by an’by I'm goin' to lay down dis (this ) heavy load. Oh, by an'
by, by an' by I'm goin' to lay down dis heavy load. I know robe's goin' to fit me well,
I'm goin' to lay down my heavy load; I tryed it on at de (the) gates ob(of) Hell,
I'm goin' to lay down my heavy load . Oh, by an' by I'm goin' to lay down dis heavy load.
Oh, somea dese mornin's bright an' fair, I'm goin to lay down my heavy load.
Gwine (going) to take a my wings an' cleave de air, I'm goin' to lay down my heavy load.
Oh, by an' by, by an' by I'm goin' to lay down dis heavy load.

私はもう間もなく、この重い荷( 重労働 ) を降ろすつもりです。
 私は、その時きれいな長い服を着ます。 そして、それが大変良く似合うことを知っています。
 わたしは、地獄の門の前で、それをためしてみました。
 或る朝、とても明るくて天気の良い日に、いよいよ、私の重い荷をおろします。
 私の翼は、空気を切り開いて進もうとするのです。( 天国にむかって )

 先生はこの歌はとてもハピーな気持ちで歌うように言われました。私がならった歌は、 この様に苦しい現実の世界の重荷を早くおろして、神のみもとへゆき安らかな日々をおくりたいという、 強い願望をうたったものがほとんどでした。 若い時にも、合唱などで、黒人霊歌を歌ったことがありましたが、 そのころは、ただ字ずらを読んで、歌っただけで言葉の持つ重い意味など考えもしませんでした。 しかし、この土地で、 ということもあるのでしょう。 そして、なによりも、わたしが歳をかさねたことによって、 言葉の意味のもつ深さを理解できるようになり、労働の苦しさ、そこからのがれられない悲しさ、むなしさ、 そして天国にこがれる気持、それらを思って歌うとき、しばしば、涙がこぼれるのを止めることはできませんでした。

 私が歌を教えていただいたのは、まだ若くて ( 20台 ) きれいな女性でした。 彼女は後に少年少女合唱団の指揮者となり、 演奏会をひらきました。 その時に 「 さくらさくら 」 をたいへん上手に歌ってくれました。 練習の時に、 私が日本語の発音指導に行きましたが、まったく直すところが無いばかりでなく、とてもきれいな発音だったことが、印象的でした。

ペギーさんには、男子二人と、女子二人 計四人の子供がいます。 皆結婚しています。  が、長男夫妻は大学の先生ですが子供がありません。 ところが、2、3年まえに、ベトナムの赤ちゃんを養女にしました。  ただ単に子供が欲しいというならば、アメリカ人を養子にすることは、いくらでも可能なのに、あえて、 ベトナムの子供を養子にすると言う点が、アメリカ人としての、責任のとり方なのか、非常に複雑な思いがします。  このようなことは、日本人なら、まずしないだろうなと、私は思います。
            
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米国サウスカロライナ州グリンウッドでの7年半の生活の思い出を、以前から少しずつ書きためていました。  最初はプリントにして親しい友人たちだけに読んでいただいていましたが、白黒のゼロックスプリントでは、 美しい写真が思うように伝わらないし、迷ったあげく、夫の勧めにっ乗って、勇気を出して載せてみることにしました。