グリンウッドの思い出(6)

熊井 カホル

May. 26, 2002

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6.アダムスさんから教わった英語の世界 ( 続き )

そういえば、もう、一人の英語の先生 デビー・リチャーヅさんは、大変熱心なクリスチャンでしたが、彼女のお兄さんは、 宣教師として、タイの山奥の電気も無いところで、熱心に布教活動をなさっておいででした。  そして、このお兄さんご夫妻も、タイの女の子を養女にし、帰国しました。 デビーさんは、当時、 30歳を過ぎていましたが、まだ独身でした。姪にあたるその女の子が可愛いくて可愛いくて、たまらないようすで、 よく写真を見せながら、どんなに可愛いか、どんなに賢いかを、勉強の初めにひとくさり話してくれるのが常でした。

人種のルツボ アメリカならではの事なのでしょうか。 デビーさんは高校生のころ、アメリカへ留学していた日本人学生と友達になり、 その友達に招かれて日本に遊びに来て、すっかり日本びーきになった一人です。 あんこのお菓子は、ほとんどのアメリカ人が、 好かないのですが、彼女だけは 「 おいしい 」 といって、食べてくれました。  私達の帰国後、彼女は千葉で3年ほど布教活動をしていたことがありました。 その時に我が家にお招きし、 泊まってもらいました。 朝食は日本食がよいとのことでしたので、味噌汁とあじの干物をお出ししたところ、 昔旅館で食べた干物よりおいしいとほめられ、面目をほどこしました。

ペギー・アダムス先生には、アメリカの歴史を教えてくださいとお願いしました。  私は歴史はあまり得意な分野ではないのですが、 一時帰国の際に 「 概説アメリカ史 」 という本を購入し、あらかじめ読んでおいたので、大変によく理解でき、 興味深く勉強ができました。 やはりなんといっても、一番の盛り上がりは南北戦争でした。 南軍は負けたとはいえ、 南部諸州にはいまだに南軍にたいする強い思い入れのある人達が沢山いて、 大きなトラックの前に南軍の旗  ( 左の写真 ) をはりつけて突っ走っていたりするのを、しばしば見かけました。 サウスカロライナ州政府の庁舎には、星条旗、州旗と並んで南軍の旗が掲揚されていましたし、隣のジョージヤ州の州旗の右半分には、 2001年まで、南軍の旗のデザインが描いてありました。

子供の頃、姉が持っていたリンカーンの伝記を、何回も何回も読みました。 特に感銘をうけたからというわけではありません。  戦争中は新しい本がなかなか手にはいらなかったからという理由だったと思います。 何回も読んだわりには、余り覚えていませんが、 丸木小屋の貧しい家にサラという優しいお姉さんがいて・・・最後に銃にたおれるシーンと、それぐらいしか覚えていません。  けれど、リンカーンという大統領が、とても偉い人なのだということは、確実に私の幼い頭にインプットされました。  彼が奴隷解放のために南北戦争をはじめたと学校で教わったような記憶がありますが、 実は南部7州が独立しようという気配をみせたので、それに対して戦をはじめたというのが実情のようです。  いま改めてもう一度、本を読み直してみましたが、いろいろな状況がからみあって、原因を一つにまとめることはできないようです。  とにかく、この戦いの途中から、奴隷解放を掲げたのであって、最初からそれが第一の目的ではなかったという事実を教わった時は、 実に意外な思いがしました。

南部7州・・・サウスカロライナ、ジョージャ、ミシシッピ、アラバマ、ルイジアナ、テキサス、フロリダが合衆国から離れ、 後にバージニア、アーカンソー、ノースカロライナ、テネシー が加わり、南部11州となりました。 重税を課せられ、 奴隷制を基礎とした大規模なプランテイション農家が経済的な基盤を担っていたのがこれら南部の諸州です。  南北戦争について インターネット上で最近読んだ、高桑紀和氏の 「 異文化に触れる 」 というコラムから、 一部引用させていただきますと:

南北戦争は 「 奴隷解放のための戦争 」 という見方があるが、リンカーンは戦争開始後も奴隷制度の存続を、 各州の意思に委ねようと考えていたことから 「 奴隷解放 」 は戦争の結果起こった事象であり、 戦争の目的はあくまでも連邦統一の維持であった。 つまり、初期は連邦統一、後期は奴隷解放が連邦側の大義名分とされたが、 実際は、産業革命に一段落をつけた北部の産業資本家が、国内市場を統一的に制覇するため、 南部連合を制圧することが目的だったとされている。しかし戦争が長引く中 「 奴隷解放 」 を戦争の目的に加えることで、 イギリス、フランスなどの欧州諸国による南軍支援を阻み、北軍を有利に導いた。

これで、だいぶ頭のなかが、整理されたと思います。

難しい事はさておき、我々女性にとっての南北戦争は 「 風とともに去りぬ 」  に尽きるのではないでしょうか。  アトランタの名所 ストーンマウンテン で、南部諸州と日本との友好協会の年次総会に出席した時、会場には、 ヴィヴィアン・リーのそっくりさんがいて、希望する男性がいれば、一緒に写真をとってくれました。  わたしの夫も勿論、ならんで撮りました。 私が、クラーク・ゲーブルのそっくりさんと一緒に写真をとれなかったのは、 片手落ちだと思うのですが。きっとそっくりさんがいなかったのでしょう。残念でした。

   私が最初にアトランタ観光をした1990年頃には、マーガレット・ミッチェルが新聞記者をしていた頃住んでいた家がまだ残っていましたが、 その後間もなく、火事で焼けてしまいました。 アトランタでは、私どもが帰国する年 ( 1996年  )にオリンピックが開かれ、 そのために、空港は大きく改装されていましたし、道路も整備されましたが、それらが始まる以前から、アトランタの道路事情には  「 さすが 」 と唸るばかりの素晴らしさでした。 なにしろ、市の中心部に入ると片側六車線ですから。 環状道路と、 それを貫く州際道路がうまく組み合わさっていました。 土地が広いからこそ出来ることですね。

英語の話からははずれますが、ちょっとファーマーズマーケットのことを話したくなりました。  このマーケットへ来ると、アジアの香りに触れることが出来、ほんのひととき、日本への望郷の念がいやされました。  毎月1回、片道3時間もドライブして、大きなアイスボックスを持ってゆき、うきうきしながら買い物をしました。  マーケットは、アトランタのはずれのデカルブに広大な面積をもって建てられていました。  肉は勿論のこと、魚の種類も豊富で、鯵や鯖は勿論のこと、たこ、いか、かに、ムール貝など。

野菜も、ちょっとたて長の真っ赤なイタリアのトマト、アジアの根菜類など。また、きのこの種類もかなりあり、 日本の えのきだけ もありましたが、いつもすこしばかり、とろとろになっていて、買う気がおきませんでした。  お豆腐とエノキの味噌汁をとても食べたかったのですけれど。 そして茄子にもいろいろ種類があるのを、この眼でたしかめました。真白い茄子を見た時にはびっくりしてしまいましたが、 茄子のことを、エッグプラントとは、よくぞ名づけたものと感心しました。 白い茄子は卵そのものです。  果物も、アジア、メキシコ、ヨーロッパなど、多彩な種類のものが並んでいます。

私は魚売り場でバターフィッシュ・・・いぼだい を買うのが楽しみでした。  これをから揚げにして食べると、これが私にとっての日本の味で、とても嬉しかったのです。  アイスボックスに氷をいっぱい詰めて、まぐろのお刺身も買いました。 「 しばらくの間、日本の味が楽しめるぞ 」 と、 こんな嬉しい気持は、日本にいては味わえませんね。 パンの香りも食欲をそそりました。  私の町で売っているものよりずっとおいしそうなのがありますので、お昼はたいてい、店に入り、クロワッサン  ( この英語の発音がわたしには、大変むずかしかったです。 Sally に何遍も直してもらいました )  にコーヒーで済ませるのも、楽しみの一つでした。

なぜか、このマーケットの近くには、tatoo ( 刺青 ) の看板を掲げている家が多く、家並みもうら淋しく、 何かうさんくさい雰囲気がただよっていました。 車で通りすぎるのですから、危険なことは無いのですが、この界隈は、 早く抜け出したい思いでした。 日本では、刺青と言えば、そのすじの方が、主として彫るのでしょうけれど、アメリカでは、 ごく普通の人が腕などに、刺青をしているのを見かけ、びっくりしたものです。

アトランタには、当時日本の企業が沢山進出していましたので、日本食レストランがいくつかありました。  わたしが初めてアメリカで食べたお寿司は、そのうちの一つ すし福 のお寿司でした。 あるじの板前さんは九州出身とか。  当初はご苦労も多かったのでしょうけれど、今は裕福で休日はゴルフ三昧とか、アトランタで成功した日本人の一人でしょう。

ここで食べた鮭の皮のお寿司、レインボー ( 卵焼き、鮭、きゅうり、かんぴょうなど ) と名付けられた太巻きの寿司などは、 忘れられない味の一つです。 この店でたまたま隣あわせに座った女性 昭子さん とは、その後ずっとおつきあいしてきました。  彼女は去年からハワイで仕事をしていますが、今も大の仲良しです。

ペギー先生は、アメリカ人にとって、あまり自慢にならないようなことについても、隠さず、なんでも教えてくださいました。  たとえば、当時のことですが、仕事の無い十台の女性が子供を産むと、確か1カ月300ドルが支給されるので、 それで生計をたてる人達がいることなど・・・。 また、その時々の政治についてもよく話してくださいました。 私の政治好きはその頃からはじまったのかもしれません。

私どもが帰国した翌年ペギーさんご夫妻を、日本にお招きしました。 順子さんご夫妻と私どもで、京都、箱根などをご案内しました。    また、南足柄の怒田丘陵 ( みかんやキウイの畑のある ) を散歩したり、足柄台中学を見学していただいたりしました。  ペギーさんの感想によると 「 Kay ( わたしのこと ) はパラダイスに住んでいるのね 」と、 大変な褒め言葉をいただきました。 順子さんと私は、事あるごとに 「 日本は狭いから 」 と説明をしてきましたが、 どこへ行ってもごみごみと狭苦しい日本を、こんな言葉で褒めてくださって、とてもうれしかったです。  「 水の郷、水源の森100選認定のまち南足柄 」 を標榜している田園都市ですから、たしかに、パラダイスかもしれません。  ご存知ない方は、是非いちど、わが町をお訪ねください。

  この様にして、アメリカについて、沢山のことを学びましたが、実用的な面で、英語の力がついたなと実感できたのは、 次のようなことからです。 先ず最初は、テレビの通販でミユージックテープを購入したことです。 電話番号をメモしておいて、 電話で注文しました。 うまく話せたときは、たいへんうれしくて、ペギーさんに報告しました。 「 電話で話すのは、 難しいことなのに、良く出来た 」 とほめていただきました。 次の段階はやはり、電話で音楽会のチッケトを購入したことです。  会場によっては、一対一で話して購入することも出来ましたが、ボストンはむずかしかったです。

アメリカにいる間にぜひ小沢征爾のボストン交響楽団を聴きたいと思い、電話によるチケット注文を試みました。 チケット購入のポイントに行きつくまで、いろいろな事を聞きとって、言われた通りのボタン操作をしなければなりません。  わからなくなるともとに戻って・・・と、何回か繰り返し、やっと注文をすることができました。  成功した時には 「 やった! 」 と言う思いでした。

7. 書き忘れたこと

( その1 )「 へい どう ? 」

 グリーンウッドで生活し始めてまだ間も無い頃のことです。グロサリーストア   ( この地ではスーパーマーケットという言い方は耳にしませんでした。 スーパーマーケットで通じるのですけれど )  のキャシヤーでの事ですが、キャシヤーの女性は、すべてのお客さんに 「・・・・・・・・・・? 」  と声をかけてくれるのです。 これがネイティブスピードなので聞きとれません。  何度も何度もききかえしました。 すると遂に、彼女は笑いながら、ゆっくり発音してくれました。  「 How are you doing ? 」 と言っていたのです。 ちょっと恥ずかしい事件でした。

私には 「 へい どう ? 」 と聞こえたのですから、仕方ありません。 それに私が日本で習った英語では、 How are you ? で doing はついていませんでしたから。 北部のグロサリーでは、 この様にキヤシヤーの女性がすべてのお客さんに暖かい声をかけてくれるようなことはないそうです。

( その2 )ロカモラさん一家

第二陣の駐在員の夫人達に英語を教えて下さったのが、ジョアンさんでした。 ジョアンさんの初レッスン の時には、先輩生徒として、ペギーさんと一緒に見学にゆきました。 ロカモラさん一家は、ユダヤ教信者 でしたので、早速 「 過ぎ越しのお祝い 」 の話をして下さったのが印象的でした。 クリスチャンである ペギーさんにとっては、ロカモラさん一家は touchy なのだそうですが、当初はこの辺の事はよく分かりませんでした。

ご主人のリックさんは、蓄電器を作る会社の工場長として北部から派遣されて来た人で、もともと技術者ですから、 何にでも大変凝る方でした。 私達日本人のために 「 一番 」 という種類の茄子  ( 日本種のなすです。アメリカの茄子は5倍ほども大きい ) を種から育てて、毎年のように、苗を分けてくださいました。  茄子を種から育てるのは、温度の管理がとても難しいとのことでした。  また彼は、ピアノを習っておいでで、ときどき私の家にたずねてきては、ピアノ演奏をしてくださいました。 きつい仕事の毎日のなかで、ピアノを弾くのがなによりの楽しみとのことでした。

とにかく、ニューヨークなどと違い、このキリスト教原理主義者も少なくない、この保守的な南部の田舎町には、 彼ら一家族しかユダヤ人は居ません。  つらい目に会うことも多かったと思いますが、それだけに、異国から来た日本人たちに親しみを覚えたのでしょうか、 私たちをよく自宅に呼んでご馳走してくださいました。

彼ら一家は、インテリという意味では、おそらく町でもトップクラスだったと思います。  それと、ユダヤ教の伝統文化を、子供たちにしっかりと伝えようとする両親の情熱と、 それを正面から受け止めて懸命に学んでいる3人の子供たちの姿には、感動しました。

( その3 ) みんなで頑張ったボランテイア

アメリカの学校の夏休みは75日ほどもあり大変に長い。 そこで、ランダ大学とか、 図書館とか、さまざまな地方の共同体が、子供達のために、教室を開きます。 勉強ではありません。 それで、 あちこちから折り紙教室をやってくれないかという依頼が毎年のようにきました。 私達フジフイルムの駐在員婦人たちは、 手分けをして受け持ちました。 あちらは、日本人ならだれでもすぐに折り紙が折れると思っているようですが、そいうわけでもなく、 私達はあらかじめ予習をしてから、臨みました。 ほとんどの子供達はのみこみが早く、苦労はありませんでした。  が、時にまったく集中力の無い子がいたりして、てこずったこともありました。 この、集中力の無い男の兄弟二人を担当したのが、 私でしたが、10分と持たないのですから一つのものが、一向に仕上がらないのです。 幼児期の育て方なのか、原因はわかりませんが、 これは大変なことだと思いました。 子供達は、後で、サンキュウカードを必ず送ってくれました。

( その4 )246号線のごみ拾い

  会社の前をはしっているのが、州道246号線です。 この一部をフジフイルムが、 adopt していました。 つまり道路を養子にして、面倒をみるということでしょうか。  グリーンウッドにある沢山の会社や、クラブ、教会などが、3〜5 キロメートルにわたって道路を adopt していました。  この制度を Adopt-a-Highway とよびます。 1年に4回ほど道路脇のゴミ拾いをします。 社員とその家族などが参加します  ( 右の写真 )。

私が参加した時には、子連れのポッサム ( ふくろねずみ:有袋類で生まれたての子たちは母親の腹の袋に居る )  の轢死体がなまなましかったです。  レイクのほとりにある seafood レストランの主人は、遠来の初めてのお客さんとみるや  「 昨日ウォールマートの前でひかれたてのポッサムの肉だ 」 と言って、薄い細切れの焼き肉を一皿出して、 目の前でひとつまみ食べて見せます。  お客は、こわごわ口に運びます。 「 どうだ、おいしいだろう 」 と、お客の反応を楽しむのです。  まわりの常連客は首尾はいかにと見物です。 実は中身は普通の牛肉なのです  ( 今は狂牛病がこわいから、牛肉の料理ほうがこわいのかしら )。  こんないたずらをして、楽しむのもアメリカらしいなと愉快でした。 ご丁寧に、 この店では、ポッサムの絵を描いたレッテルを貼った缶詰まで作って売っていました ( 写真は、若主人が抱くポッサム。 但し、 本物でなくてぬいぐるみ。 なお、50年くらい前までは、極貧の白人や黒人たちが、本当にポッサムを捕って食べていたそうです)。

( その5 )老人ホームで歌をうたったこと

歌好きの数人が老人ホームを訪ね、日本の歌をうたいました。 ピアノの上手な人には 「 さくらさくら変奏曲 」  を演奏してもらいました。 これがたいへん好評で拍手喝さいでした。歌のほうはほめてもらえなくて、 歌い手たちはちょっとしおれました。 でもお別れの時、一人の婦人が私の手をしっかりとにぎりしめて  「 今日は有難う。 また来てね。 きっと、きっとよ 」 と言ってくださり、本当に来てよかったなと思いました。

このほかにも、皆思い思いに学校の図書室のボランテイアや病院の患者さんへの花や手紙を配る仕事をしたり、 日本で高校の先生をしていた方は、グリーンウッド高校でボランテイアをしたりしていました。 また、アメリカ婦人5〜6人ほどに ミユキフラワーを教えた夫人のグループには、私も生徒として入れてもらいました。 先生の仁美さんは、 大変に教え方が上手でしたから、みなお花が一つ出来るたびに 「 初心者ながら、うまくできたわい 」  と嬉しい気持ちにさせてくれました。 アメリカの造花はきれいですけれど、ちょっと大雑把なので、 米国のご婦人たちは、みゆきフラワーの繊細さを楽しんでくださいました。

英語が達者な雅子さんは日本文化の紹介のため何回か、日本の文化などについてのスピーチをしてくれ、好評でした。  そのほかにも、高齢者へのランチの配達とか、大勢のかたがたが、いろいろなボランテイアを、無理はせずに、 自分に出来ることでグリーンウッドの社会にとけこもうと努力をしました。

( その6 )日本の歌はもの哀しい

2年目の夏、モーピンツアーという旅行社のアメリカ人向けのツアーに参加して(*)、カナディアンロッキーのバス旅行をした時のことです。  日本で買ってきた合唱のCDが大変美しく、私も夫もとても気にいっていました。  こんなにきれいな日本の音楽を是非アメリカの人達にも聴いてもらいたいと思い、ダビングをして旅行カバンにいれました。  たまたま、わたしの隣に座ったご婦人が、もうリタイヤしている方でしたが、高校で音楽の教師をしていたということでした。  なんという幸運かと嬉しくなり、そのダビングしたテープを是非聴いてくださいと差しあげました。

そしてどこだったかは、覚えていませんが、小休憩の後、バスにもどると、バスのガイドさんが、 先ほど私がご婦人にさしあげたテープで 「 今から日本の music を流します 」 と言いました。  合唱テープの音楽がバックグラウンドミュージックとして、流れはじめました。1曲目は、武満徹の 「 小さな空 」、 2曲めはおなじく 「 さようなら 」、3曲目は三善晃の 「 麦藁帽子 」。

このあたりで夫と 「 なんだかさびしいわね 」 と話していたのですが、そのあと高田三郎、中田喜直、大中恵、 湯山昭などの作品が続くのですが、どれもこれも皆哀しげで、困ってしまいました。 その場にそぐわないように感じられたのです。  それまではアメリカンポップス的な音楽が流れていましたから。 早くテープが終わってくれないものかと祈るような思いでした。  陽気なアメリカ人達のツアーには、淋しすぎたようです。 しかし、日本のすべての曲が哀しげだということには、 その時初めて気づき、驚きでした。 長調の曲もすべてです。

帰国後6年経ち、日本の文化にどっぷりつかっていますと、日本の音楽が淋しいなどという感じは全くありません。  どなたかその理由を教えてくださると、ありがたいです。 むこうで聴けば 「 夕焼け小焼け 」 も 「 赤とんぼ 」  も 「 おぼろ月夜 」 も、みな淋しーい音楽です。

(*):アメリカにも、在留日本人向けの日本語のツアーがありますが、割高です。 米人用のツアーに自分たちだけ混じると、 苦労もありますが英語の訓練になりますし、米人の友達も出来ます。 この時のツアーで知り合ったフロリダの米人夫妻が、 後に私たちの家に遊びに来て泊まっていったりしました。

お読みくださって有難うございました。これで、一応、書いて置きたかった事は皆書きました。
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米国サウスカロライナ州グリンウッドでの7年半の生活の思い出を、以前から少しずつ書きためていました。  最初はプリントにして親しい友人たちだけに読んでいただいていましたが、白黒のゼロックスプリントでは、 美しい写真が思うように伝わらないし、迷ったあげく、夫の勧めにっ乗って、勇気を出して載せてみることにしました。