グリンウッドの思い出(4)

熊井 カホル

Oct. 28, 2001

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5.スープキッチン ( 続 ) と スミスさんに教わったスモーク

先に述べたガバナズ・スクールについてですが,毎日通う、寮制のものとは別に、夏休みに開かれるガバナズ・スクールがあります。  勿論、優秀な生徒が選ばれるのですが、これにピアノの上手な日本人女子高校生 斉藤 忍 さんが、 二年と三年の夏休みに二回も選ばれ、大変活躍なさった話を聞き喜び合ったことも、懐かしい思い出です。 私達の帰国後、別の日本人高校生が、ガバナズ・スクールに選ばれたと言うことも聞いています。日本人の子弟は、 みな現地校に通いました。 最初は授業がひと言もわからず、皆大変苦労するのですが、親も子供も共に頑張って、 良い成績をおさめていたようです。

スープキッチンの話にもどります。食べに来るメンバーはほとんど決まっています。普段は、 平均すると40人から50人ぐらいの人達が食べにきます。これぐらいの人数ですと、普通に、もてなしができるのですが、 夏休みになると、学校が休みになった子供達で、わあっとにぎやかになります。100人か、それ以上になることもしばしばでした。  いそがしいのなんのって、それはたいへんなものでした。しかし夏休みには、ケンブリッジ・アカデミーという、 私立の高校生がボランテイアとして働きに来てくれるので、大変助かりました。 この学校では、ボランテイアが、 学課の一つにかぞえられていました。また、大学生も時々来てくれました。とてもよく働いてくれたので、有難かったです。

 ただでさえ忙しいのに、子供はスープやアイステイーを実によくひっくり返します。 私は、内心 「 いいかげんにしてよ 」  と思いながら、テーブルを拭きに行くのですが、Sally は 「 子供はみんなおなじ、家の子達もよくこぼしてたわ 」  といいながらテーブルをきれいにしているので、私はいつも、自分のいたらなさを、かみしめなければなりませんでした。

    12時にはスープキッチンの扉をしめて後片付けにはいります。 私はテーブルをきれいにしたり、床のお掃除、ごみ捨てを担当しました。  スープ作りや、テイー担当の人達は、レンジや流しを綺麗にします。使ったお鍋やレンジまわりは、ぴっかぴかになります。  その、徹底した磨き方には、いつも感じいるばかりでした。 キッチンを磨きあげておくことは、アメリカ人の主婦にとって、 大変大切な役割のように思えました。 初めてたずねた家では、必ず家じゅうを案内して見せてくれます。  ベッドルームから、バスルーム、勿論ぴっかぴかに磨きあげたキッチンまで。 どこの家も素晴らしく整理整頓され、タオル、 テーブルクロス、ナプキン、マットなどどれも、明るい色彩で統一されていました。 そして机の上にも、テーブルの上にも、 キッチンの調理台の上にも、新聞、雑誌など、鉛筆一本たりとも余計な物は置いてありません。  訪問客の有る日は、押し入れにすべてを投げ込んでおくという手もありますが ( 我が家のやり方 )、それにしても、 さっぱり生活臭の無いのが不思議でした。

しかし、先述の(別の)サリーさんの家に招かれた時には、彼女の家には、生活のにおいがあり、 主婦が日本人だとこんな風になるのだなーという雰囲気がにじみでていて、とてもほっとしました  ( 左の写真:サリーさん宅で、  サリーさんご夫妻 )。 なにはともあれ、 アメリカ人の住む家は、少女小説の憧れの世界のような、パステルカラーのイメージがぴったりの美しい世界でした。  この事について、私の英語の先生の一人だったデビーさんにたずねたところ、彼女のお母さんは整理整頓について、 子供の頃から大変厳しかったそうです。朝起きたら、すぐに、ベッドメーキングを、机の上には雑誌1冊、タオル1枚でも、 置いておいたなら、注意されたそうです。子供の時からのこの様なしつけが、 綺麗好きで几帳面という一般的なアメリカ夫人をつくりあげるのでしょうか。

お隣のスミスさんご夫妻を私の家に招いた時のことです。 台所が料理の残骸で混乱をきえわめていたので、お見せしませんでした。  すると、奥さんのスーに、どうして、キッチンをみせてくれないの?と尋ねられ、「 えい 」  とばかりに乱雑な台所をみせてしまい、なんだかとても、恥ずかしい思いをしてしまいました。

スーは、お父さんが、軍人さんだったので、4歳ごろまで、仙台にいたそうです。 そんな事情からとても、 私達に親しみをもってくださり、ご夫妻から、色々なことを教そわりました。一番役にたった事柄は、チキンの燻製のやり方です。 お客様をお招きする度に、どれほど役にたったかしれません。 チャコール ( 日本の豆炭 ) に揮発油をかけて火をつけるやり方、 チャコールが白くなったら火がついたということ、スモークのためのウッドは、ヒッコリーかピーカンが適している事など。

そしてスモークする時の一番大切なポイントは、チキンは ブレスト・アップ 出来あがるまでは、ひっくり返さないこと。  これをききながら、私は、ご飯を炊く時の---赤子泣くとも蓋とるな---と言う昔からの言い伝えを思いだしました。  スミスさんが、自分の腕を胸の前でまげ ( 丁度バレーボールの球をパスするような仕草 )、 150キロ以上もありそうな巨体をちょっとのけぞらす格好をして教えてくれた様子が忘れられません。

 私達は早速、直径75センチ高さ1メートルほどある、cook'n ca'jun というスモーカーを買いました。  明日の夕方は、お客さまという日には、2羽のチキンを塩胡椒し冷蔵庫で一晩ねかせて置きます。 当日朝はすこし早く起きて、 夫の出勤前にスモークのセットをすませます。 この時ばかりは、夫も大活躍してくれました。  裏庭で、先ずチャコールに火を点けることから始めます。 チャコールにはかなり大量の揮発油をかけ、点火します。  それでも簡単に火がつくわけではありませんので、うちわでパタパタとあおぎました。 日本から持っていったうちわが、 大変役にたちました。 私はその間にたっぷりのお湯を用意し、ウオーターパンにそそぎます。  湯気をたててチキンが干からびるのを防ぎ、チキンから落ちる脂を受けるのです ( 写真は左からピーカンの小枝、スモーカー、 チャコール入りの紙袋、揮発油の缶 )。

私達の住まいの近くには、ピーカンナッツの樹がたくさんありましたので、スモーク用のウッドとしては、 ピーカンナッツの小枝を拾ってきて、それをつかいました。チャコールにしっかり火がつくと、 ちょっと水に浸しておいたピーカンの小枝をのせ煙を出します。 急いでウォーターパン上にチキンをセットしスモークの始まりです。  出来あがるまで、おおよそ3時間半。 冬季はもう少し時間がかかり、4時間ぐらいかかります。 出来あがりが近くなってくると、 そこいらじゅうに、良いかおりがたちこめてきます。

なれてきてからは、この後、もう一度ピーカンの小枝を煙らせて、アラスカンサーモンをいぶしました。 あちらでは、 サーモンは日本の切り身の5〜6倍の大きさで売られています。 これにも、あらかじめ塩、胡椒しておき、 50分程かけてスモークしました。 夏季のアラスカンサーモンはほどよくあぶらがのっていて、とてもおいしいのです。  私の思いつきでやったことですが、私には、チキンよりも、このサーモンのほうが、ずっとおいしかったです。

  これで、メインデイッシュはできあがりました。  また、このサーモンを日本なみの大きさの切り身にし、塩をして一週間ほど、 冷蔵庫でねかせておき、塩焼きにすると、これがまた、大変な美味でした。 私にはアメリカンフードの多くが舌に合いませんでしたが、 このサーモンの味は逸品と言っても過言ではなかったと思います。

スミスさんは、個人事業・・・コンピユータ関連の販売を経営していて、奥さんのスーは、顧客の所へ出向き、 コンピユータの使い方を教えていました。 後に、いちはやくプロバイダーの会社を作り、大成功し、 奥さんは車をリンカーンに買い換え ( 私にわざわざ 「 車をリンカーンに買い換えたのよ 」 と話してくれたのに、 リンカーンが高級車だと知らなかったわたしは、「 あ、そうなの 」 と答えてお終いにしてしまいました。  さぞ、拍子抜けしてしまったことでしょう。 申し訳なかったです。

彼等は、私たちの帰国後、大西洋岸に素敵な家を建て、仕事は息子にゆずり、ゴルフとモーターボートでの大物釣三昧の悠々自適の 生活をエンジョイしておいでです。 私達よりずっと若いのに。 スミスさんの生き方は、 アメリカ人庶民のアメリカンドリーム実現の仕方の一つだと思います。  スミスさんご夫妻には是非一度日本訪問を果たしていただきたいのですが、あの巨体が狭い私の家のあちこちで、 かすり傷をつくってしまわないかと心配です。

スープキッチンの話しにもどります。 1992年頃はアメリカの景気がだいぶ下向きになっていた頃でした。  スープキッチンにもその影響は如実にあらわれていました。 お客さんの数が、がぜんふえました。  100人を超える人達がやってくるので、常時、夏休みのような忙しさでした。 そんな中、サリーの旦那様が、 ミラノにあるイタリア本社へ転勤になり、その2年あとぐらいにルーシーもイタリアへ帰国することとなり、 大変に淋しくなってしまいました。メンバーもすっかり新しくなり、昔からのメンバーは、私とミリアムだけになってしまいました。  スープキッチンで働く唯一人の黒人のおばさんにとって、同じ有色人種のわたしは、大変気やすかったのではないでしょうか。  具体的にこんなことというわけではありませんが、そんな空気を感じることがよくありました。

ミリアムは毎年、私達スープキッチンの仲間を自宅のクリスマスパーテイーに招いてくれました。ご近所のお知り合いと一緒に。  ドロップ・バイ という招き方です。 これは、何時から何時までの間の、 好きな時間に来て好きな時に帰っていいですよという招き方です。 彼女の旦那様は、やはり黒人です。  ニューヨークのレストランで働いていたとのことです。 レストランのオーナーだったのか、ただそこで働いていただけなのかは、 よくわかりません。 なにはともあれ、ミリアム家で出される料理はいつもとても、おいしかったです。 旦那様の 「 昔取った杵柄 」  がものをいっていたのでしょう。 彼女の家には、グランドピアノがあり、出される食器もとても素敵でした。

当時二人とも70代中ごろでしたから、その年代の黒人としては大変な成功者だったにちがいありません。  「 どうして黒人なのに、こんなにお金持になれたの? 」 とはどうしてもたずねることは、出来ませんでした。 若い年代の黒人たちはどんどん中産階級に仲間入りしているのですが、ミリアム達は苦しい時代を乗り越えてきたにちがいないのです。  二人とも優しい人達でした。

スープキッチンのお客様のなかのちょっとした変り種のお話をします。 彼は当時40歳を少し超えたぐらいだったと思います。  私は彼の顔色がいまひとつすぐれないのが気になっていたのですが。  彼は一日分の食事をここで全部すませてしまうのではないかとおもわれるくらい沢山たべました。  そしてそれは一カ月に一度ぐらいだったでしょうか。食事が終わると私達を一人ずつ手招きでよび、 おもむろに鞄の中から折りたたんだ紙を取り出し、私達にくれるのです。 それはいつも、色鉛筆で彩色された、 稚拙なジーザスクライストの絵でした。 渡してくれる厳そかなようすから、 多分自分は結構なアーチストだと思っていたのではないかとおもわれます。 私は最大級のサンキュー・サンキューで頂戴していました。

英語の先生の一人アンさんにおみせしたところ、彼は多分ベトナム戦争に行き少しおかしくなっているのでしょうとのことでした。 悲惨なベトナム戦争で精神に異常をきたしてしまったアメリカ兵の話はどこかで読んだことがあったので、 身近かにそのような犠牲者がいたことが心に深くひびきました。 彼は大変信心深く、食事の前には必ずお祈りをしていました。  けれどその後3〜4年して亡くなってしまいました。 まだ若かったのに。 彼の死は、彼がどんなに信心深かったかということと、 そして彼の絵とともに、地方新聞 ( インデックスジャーナル ) の記事になりました。

9月11日のテロは世界中の未来を不透明にしてしまいました。 沢山の人々が苦しんでいるのですね。 わたしが、 この思い出を書き始めたころは、なんて平和だったのだろうかと、世界の変わり様が胸にしみます。(2001年10月28日)

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米国サウスカロライナ州グリンウッドでの7年半の生活の思い出を、以前から少しずつ書きためていました。  最初はプリントにして親しい友人たちだけに読んでいただいていましたが、白黒のゼロックスプリントでは、 美しい写真が思うように伝わらないし、迷ったあげく、夫の勧めにっ乗って、勇気を出して載せてみることにしました。